「我が半生」(7) 前愛知県韓国人経友会事務局長 金龍鐘

星の光
 
日韓併合後、没落していった済州島随一の、漢奧山麓・海安(ヘアン)里から城内(ソンネ)まで、主に馬蓄の大牧場を営む代々直系6人兄弟姉妹の中で、
経済的にただ1人成功した父は、祖父が若くして世を去り、末っ子であったがゆえに学ぶ機会を失い、学歴のなさを、何時も、苦にしていた。
甥っ子達には学問を 奨励し、積極的に援助を惜しまなかった。

「誰でもよいから、金で買ってでも、大学(デハッ)の看板(カンパン)をとって来い!」と、口癖のように言っていた。
何人かの従兄達は大学を卒業し、父は一族の誉れと自慢の種だったが、肝心の跡取り息子が勉強嫌いとあって、いつも、寂びそうであった。
自分の子に期待する父の気持がひしひしと、伝わっていた私は大学入学式の時、親孝行のつもりで両親を大学へ招くことにした。
華麗な着物が溢れるほどある中、素朴ではあるが、気品ある韓国の民族衣裳・黒いトゥルマギ(外套)を纏ったチョゴリ(上着)・チマ(裳すそ)姿のオモニ(母)が
新鮮に映ったのであろうか。

実は、私も知らぬ間に、大隈講堂前で両親と幼い弟とが手をつないで歩いている写真を撮られ、
日本最大の受験雑誌「蛍雪時代」に掲載され、日本全国に知られてしまい、大阪へ帰った父は方々からお祝いの言葉をかけられた。

日本人学友と違って、我々在日朝鮮人留学生は南北統一を至上命題とし、学問を追究することが緊要であった。
1956年は、朝鮮休戦協定成立後3年にして、スターリン批判がおこり、在日本朝鮮人総連合会が結成されて、1周年を迎える年であった。
朝鮮労働党は南労働党残滓を粛清し、金日成独裁が一層表面化してくるなかで、
朝総連も金日成を絶対化し、在日南労働党残滓及び日本共産党の影響を排除した留学生同盟・金光沢中央委員長は東京大学法学部出身で、
木浦中学の先輩でもあった。彼はすでに、ソ連をはじめとする共産党政権の中央集権化と官僚主義を批判し、民主化を訴えるばかりでなく、
西欧文明を理解するのにバイブルを読む必要性を強調していた

一方、私は朝鮮南北統一のため、世界連邦研究会に入り、国際的な視野から模索してみようと思った。

時子山常三郎顧問は伝統ある早稲田雄弁会顧問でもあり、政経学部財政学教授として、独特な技術史観を持っていた。
  また、湯川秀樹、賀川豊彦、三木武夫等、各界各層の親交が深く、幅広い活躍をされていた。
いつも宗教を無視してはならぬと、その信仰の奥に潜む不思議な力を諭してくださった。

2年生の時、世界連邦アジア・アフリカ京都会議に早稲田の代表3人が参加し、初めての国際会議を3日間、英語だけで過ごした。
ヨーロッパからも大勢参加していたが、日本国会議員団、各宗教団体も目立ち、
アメリカから参加してきた台湾独立運動をしていた学者達に出会ったのが印象的だった。

時子山教授は、チャンドラボースの甥で、インド代表として参加していた、アミヤ・ボースの個人通訳として、私を指名した。
ケンブリッジ出身のキング・イングリッシュをこなす国会議員を相手に、恥じも外聞も忘れて、初めての通訳を経験した。
伊丹飛行場で日本語のアナウンスを聞きながら通訳した後に、又、きれいな英語のアナウンスが流れる時の恥ずかしさと、いったら・・・・・

大阪の家に寄って、気がついた。今まで、話せなかった英語が自然に口から出ていた。
そんな頃、岩波書店の現代思想で、九州大学の高橋義孝教授の提言を目にした。

「現代の米ソ二大陣営の緊張を緩和するには、マルクスのヒューマニズムと実存主義の疎外された人間性、そして、フロイトの潜在意識との焦点に・・・・・」
私はキルケゴールからサルトルまで読み漁り、何故、心理学をと思ったが、精神分析入門等も読んでみた。
マルクスに関しては、資本論第1巻、商品化された 賃金労働の概念分析、第2巻のイギリス産業革命における労働運動史の社会科学的記述は
みるべきものがあっても、唯物史観については最早、現代科学に矛盾していると考えざるをえなかった。
 
時の新聞は毎日、李承晩ラインによる日本漁船拿捕記事で、在日朝鮮人にまで影響を及ぼしだした。
私は戸塚で、後輩が下宿している早稲田館近くの下宿屋に移る数日前、移転先の親しい下宿屋のおばさんに菓子箱を持って挨拶に行った。
「おばさん、これからお世話になります。よろしくお願いします。ところで、ご存じかと思いますが、私は朝鮮の留学生ですよ。念の為に申し上げておきます」
「あんた、また冗談を」
「いいえ、本当の事ですよ」
「それ、本当?だったら困るわ。戦前、中国の留学生が下宿していて、特高に引っ張られ、往生したのよ。だったら、この菓子箱持って帰って!」

あんなに、親しくしていたおばさんは困惑していたが、私も、今まで居た下宿先に、すでに、出る約束をしてあった。直ぐに、他の下宿を探し始めたが、
何処も、朝鮮人学生というだけで断れてしまった。友人達は、
「何も、いちいち、朝鮮人学生を名乗る事もないし、通名だけで通したらどうだ」と、言ったが、
私は同ずるわけにはいかず、17軒続けさまに断られ、とうとう、下宿先を出る約束日がきてしまった。
どうする事もできず、午後2時頃、布団の中で横になって思案していると、女中さんから、
「玄関に、誰か、お客さんが尋ねてきましたよ」と、呼び出された。

玄関に、出てみると、見知らぬ年輩の紳士が立って、
「わたしが、出張中、家内があなたを人種差別で部屋を断ったそうですね。誠に申し訳ございません。
わたしはクリスチャンです。お迎えに参りました。お荷物をお運びしますのでお出しください」
私は、ただ、感動しながらじっと立ち、最後まで辛抱したお陰で素晴らしい人と出会ったことが、心底から嬉しくてたまらなかった。

西武線武蔵関から少し奥に入った、閑静な新興住宅地であった。
田舎駅前、だだっ広い殺風景なところに、夜には、ラーメン屋台のほか、酒屋台で小唄を交わしているのどかな情緒が、まだ、ここには残っていた。
私は、何となく、老子を無我夢中で読んで、夜中、駅前屋台でラーメンを食べた後、空を見上げた。満天に、きらきら輝く星ぼしの光を、見た瞬間、
   「この光は、ひょっとすると、何億光年、1秒間30萬キロメートルの速さで旅し、人生は僅か百年足らず、人間の歴史が5千年、
    この光からしてみれば、我が人生は一瞬ではないか!」
 私は学校どころか、食事も通らず、新聞も読む気にならず、3日間、部屋に閉じこもってしまった。
 大家さんが心配して、部屋へ覗きにきた。ついに、私は意を決した。
   「私は、仏みたいな生き方はできない。ヒューマニズムの範囲で生きるしかない」と、先ず食べ始めた。
そして、普通の学生生活をすることにした。