「我が半生」(6) 前愛知県韓国人経友会事務局長 金龍鐘

与える喜び


父(アボジ)から送ってきた、弟の医薬品を売って、食いぶちをつないだ家族は先祖の地、済州島へ移住した。
  最早、私の居所は父(アボジ)のいる日本しかなく、母(オモニ)の知人の案内で釜山から対馬に渡ることにした。

暗闇に、港の岸で小さな十人乗りぐらいの漁船に乗ろうとした時、木浦の近所の中学生3人に出くわし、お互い顔を見合って、奇遇に驚いた。
半畳ぐらいの桝に4人づつ、2,30人乗っただろうか、灯もともさず、そっと、静かに出港し、警備艇が去るのを待ち構え、一気にエンジンをふかして対馬へ向かった。
4,5時間、経ったろうか、静かな漁港に着いたとたん、いっせいに、皆、どこかへ散らばり、私は案内のおばさんについて、ボタン屋の朝鮮人の家に辿り着いた。
おばさんは父(アボジ)に電報だけうって、先に、大阪へ行ってしまい、私は隠れていたが、2,3日後、家主が海に出てもよいというので、
朝鮮の海女さんたちがさざえや法螺貝を取っているのを暇つぶしに、昼間中、見ていた。その夜、私は警察に不法密航で逮捕され、留置場へぶち込まれた。

寝るに寝られず、外に出て、シャツを脱いでみたら、しらみの数珠繋ぎで、中で被っていた毛布を見ると、これまた、虱の運動場で、
まだ寒い2月だったのでどうしようもなかった。翌日、取調べを受けた時、とっさに、歳一つだけごまかしたが裸にされ、少し生えてきた陰毛を見て、
本当の歳を言えと、問われたが、大きかった私は一つごまかすのが精一杯だった。


私は取調官に尋ね、 「どうしたら、日本に、正式に入国できるんですか?」
「何、お前らは強制送還だ。ここはマッカーサーの支配下だ。マッカーサーがOKといえば別だが」と、薄笑いをしていた。
2日ほどして、厳原刑務所に移送される道すがら、手錠をはめられた丸坊主の私は、
連れ立った、もう1人の同じ年頃の子と、道通う人々から異常な目で見られ、
すりか泥棒にでも見られているような気がした。

少年が入るところではなかったらしいが、数日間、おまるの入った部屋で、味噌をかけた麦ご飯と2,3切れの具の入ったお汁で、父(アボジ)の来るのを待っていた。
やっと、面会の知らせがあった父とは6年ぶりの再会であった。父(アボジ)は、私が上陸した比田勝から探しつづけたらしい。
面会室で親子が会って、手を握ったまま、涙だけ流していた。やっと、口を開いた父(アボジ)は、「外国人登録証明書 はどうした?お前、歳は何歳と、云ったんだ?」
私は偽造証明書を使いたくなかったので、何となく、誰にも気付かれないように、ボタン屋の居間、左側障子取っ手、二重紙の間に隠した。

歳は1つごまかしたと、云ったら、父(アボジ)は真剣に、「それは、なかなか良くやった」と、誉めながら、安堵した様子だった。
私は何の事か訳が解らなかった。後の私の運命に決定付ける事だったとは知る由もなかった。 
「食べ物は何を食べているんだ」。私は事実通り説明すると、父(アボジ)が明日から弁当を差し入れると言ったが、私は断った。
「どうしたら釈放されるか、何か聞いていないか」と、学歴のない父(アボジ)らしい質問だった。「マッカーサーが許可したら、OKみたいですよ」
「そうか、マッカーサーか。解った」と、一瞬、思案しながらつぶやいた。

翌日、豪華なわりご弁当が差し入れられていたが、私は手をつけなかった。面接にきた父が、「どこか悪いのか?。どうして食べないのか?」と、問うが、答えなかった。
父(アボジ)がつらそうで、「実は、もう1人、別の部屋に同じような子がいるのです。僕1人どうしても食べられません」
「そうか、その子はなんと言う名前か。家族はまだ、来てないのか」

その日から、彼にも同じわりごを差し入れてくれた父(アボジ)のやさしさに感謝しながら、嬉しく食べだした。
彼の家族はずっと、音沙汰がなかったので、父(アボジ)が訪ねてみると、生活に追われ、それどころでなく、
近畿大学に通っている彼の叔父が代わりに来て、父(アボジ)に相談していた。

長崎県の大村収容所へ移送される事になったが、その間、父(アボジ)は大阪へ指示を出し、マッカーサーのルートを依頼していた。
反応があったらしく、福岡便に乗船する時、付き添いの警察官が私の手錠を外し、父(アボジ)と一緒に一等船室に入れてくれた。
福岡へ着き、市庁へ阿部源蔵市長に挨拶に行って見ると、何と、市長が私の身元引受人になって下さっていた。

早速、大村収容所に電話をかけ、所長に私のことを頼み、1ヶ月で私は自由の身になり、大阪へ七年ぶりに帰ってきた。
みんな喜んでくれたが、昔のやんちゃ坊主の変わってしまった様相に、どうもよそよそしく、戸惑いさえ感じているようだった。
私と一緒に収容所に入った友人は半年がかりで、ついに釈放されることになった。

日本に共産党の国会議員がいることを知って、韓国では誰が殺してもおかしくないのに、民主国家といえども、余りの差に、理解に苦しんだ。 
在日朝鮮人組織の「民戦」は南労働党の影響と日本共産党の指令の下で動いていたようだった。

マッカーサーに反抗していた民戦は、民主主義をもたらしたのがマッカーサーだったせいなのか、民主主義にも反対していたのに、なさけなかった。 
朝鮮民主主義人民共和国の名称も、愛国歌も知らないのを見ると、祖国の連絡も情勢把握も出来ていないようだった。 
戦前、私の家庭教師をした従兄は、その後、済州島4・3事件で、妻子をゲリラに虐殺され、日本の私の父を頼り、明大から同志社大学法学部に編入してきた。
日本共産党党員であった阪大法学部の従兄も、私に会いにきた。

私は一人で学んだ唯物弁証法を、この従兄に、常日頃、教えてもらう日を待ち望んでいた。親戚一同集まった所で、挨拶もおろか、さしおいて、
「唯物史観において、弁証法の量的蓄積と質的な転換が今日の社会主義国家に当てはめるのに矛盾を・・・・・」と、質問しようとした時、
同志社大学の従兄が、「お前、中学校3年生の癖に、何を生意気なことを抜かすか!私ら大学生でも解らんことを、生意気に!」

同席の人たちは眼を丸めて、唖然として、場がしらけたのか、早々に散ってしまった。 
「光章、我慢しろ。あいつらと一緒になったらあかん」と、私を自慢にしていた兄は慰めてくれた。薄々気付いていた父は私を朝鮮人社会から切り離そうとしていた。
親戚の中でも、独立(トンリプ)運動(ウンドン)で犠牲になり、今更、国のために、家族の犠牲者(ヒセンジャ)が出るのを最も嫌っていた。

私は戦前からの朝鮮奨学会の推薦で、郊外の大阪府立貝塚高校の二次試験を受けた。中学卒業証明ももらえず、日本語も不十分な状態で、何処も無理だった。
最後の三流校も見事に落ちてしまった。 奨学会が調べてみると、成績が一番だったが、生物の「とうもろこし」と「マグロ」を○×で間違ったのは私だけで、
話し合いの結果、1学期だけ仮入学とし、後は成績次第ということになり、この事が家どころか、工場の職工にまで笑い話となった。

中間試験の後、父兄会に、父が率先して参加した時、何人かの父兄から、「金さんのお父さん」を捜しているのを見て、
父はまた、私が昔の癖を出したのかと心配していた。

校長から1人だけ呼び出され、どきどきしながら、校長室へ入ってみると、正式に入学許可を伝えられた。
1学期の成績はずば抜けていたらしく、上級生が訪ねてきて、「金という奴、どいつだ!」
私が名乗り出ると、
「お前、朝鮮から来て、1年しかならないそうだな。この学校創立以来、国語、100点取ったのは、お前が初めてだぞ!」と、言いにきた。
通知簿を見ると、国語、90点、成績順、7点差で2番になっていた。優秀な学友40人ほど、一変に、一流校に転校していった。
  戦前、差別の激しい経験もした農村、貝塚近郊の学友達に、転校を必死で引き止められた私は、勉強よりも友情厚い素朴な友達に魅力さえ感じていた。

2年生後期、生徒会会長を全校生か ら圧倒的な支持で選ばれ、3年前期も、みんなの要請で再選され、100万円近い生徒会予算を自分で編成した。
校舎改築のため、文化祭を学校当局から中止するよう指示されたが、学友達は自主的に文化祭実行委員会を組織し、
他校から編入してきた3つほど年配の優秀な上森信芳君が実行委員長として活動を始めた。

彼は全く、私を無視し、何の相談もなく準備を進めるばかりか、近藤雅子生徒会書記にちょっかいを出すことに癪に障った。
放課後、講堂でピアノを弾く、書記だった彼女の美しいメドレに、堂内の片隅で酔いながら時間を忘れていた事もあったせいだった。
文化祭の当日、委員長を連れて、校長先生はじめ教師を案内し、前席に座っていたが、なかなか幕が開かなかった。
みると、張り切っていた委員長が緊張して、顔色がおかしかった!実行委員達もおろおろするばかりで、
私はとっさに、壇上に駆け上がり開会を宣言、幕を上げ、そのまま進行をすすめた。

会場は盛り上がり、順調よく進み、中過ぎた頃から、委員長の顔が正常に見え、私は彼にバトンをわたし、最後まで進行を見ていた。
彼は必死で最後を締め切った。みんな、最初、反対していた先生も良くやったと喜び合い、文化祭は大成功だった。
私は嬉しくて、実行委員長のいる壇上の側に向かった時、委員長が私を見るなり、「金君、ありがと!」と、手を差し出し、握手を求めながら、
しっかりと、ずっと握り締める彼の目にひそかな涙さえ潤んでいた。

最初、私を無視していた彼の面影は何処にも見当たらなかった。 私は会長としてバックアップしただけなのに、
彼の本心からの感謝の言葉を耳にするなんて思いもよらなかった。

皆と喜び合っていたが、私は我慢できず外に出て、2 階の教室に設けた、誰もいない文化祭仮食堂の教壇上で転びながら、
腹の底から湧き出る喜びを堪えるのに苦しみ、しばし、酔いしびれていた。