「我が半生」(8) 前愛知県韓国人経友会事務局長 金龍鐘

出会いの絆


卒業を間近にして同期の学友、何人かを大阪へ誘い、正月、数人の早稲田の同窓生達と慶応大学から招待を受けたダンスパーティーに行った。
後輩の下宿の友人、名古屋の加藤君が「先輩、あそこに素晴らしい人がおりますよ。誘ってみたらどうですか?」
「君が誘えばいいじゃないか」、「いや、僕らではとてもおぼつきません」、「何処にいるんだ」

遠く後姿の着物を着た人が何となく淋しそうで、近くへ寄って声をかけた。彼女が振り向くや、私の全身に電光衝撃波が五百万ボルト流れ、
生涯、一時でもよい、この人と共にいたい!。私は初めて自分がどこかで求めていた女を見つけたと、無我夢中で嬉しくてたまらなかった。
彼女の日本舞踊発表会を見に行こうとした時、大阪出身の後輩・康村(康敏植)君が私をこうからかった。
「先輩、あのこは、億万長者じゃないと、あきまへんで。太陽が西から昇るようなもんでっせ」
「そうか、では太陽を西から昇らせてみよう!」と、言ってしまった。

大学入学当時から、遠戚の先輩に社会主義経済に統計の重要性を聞かされ、私自身もできるだけ自然科学に近い学問を目指したい気持もあったので、
大学院も経済統計を選び、商学研究科の経済統計に入学することに決めた。大学院はそれこそ、小人数で3人ぐらいの授業を、時にはコーヒーの出前をとり、
タバコを吸い、教授と一緒に会話しながら、各自テーマを与えられた調査を報告するような進め方であった。 私は中央官庁の統計調査機構と大企業の流通チャンネルを調査した。
この時ばかりは通名で訪問した。経済企画庁の統計調査機構が最も進んでいたが、早稲田出身の局長が案内し、
「そうですか、わたしが学生の時は、教養課程の選択科目で統計学がありましたが、いま大学院で経済統計専攻課程があるのですか、
 まだまだ、恥ずかしい設備しかありませんが」と、いいながら、パンチャーシステムの統計集計全工程を説明してくれた。

私はほとんどの官庁の実態をつかみ、2,3の企業も調べ、日本のコンピュータ導入期の段階を垣間見たような気がした。
丁度、日本証券取引所がそろばんからコンピュータに切り替える日、林文彦教授と一緒に見学させてもらった。

1学年が終わり、大阪で彼女と久振りにデートすることになり、兄に相談すると、嵐山から清水寺のコースをすすめられた。
祇園近くの道沿いに、小川が流れているような側の静かな喫茶店で、私は自分の身分を明かそうと、決めていた。
「実は、私は朝鮮留学生で、君とは結婚を前提に付き合いたい」と、言うや、

「わたしにはフィアンセのような付き合っている人がいます。お友達としてだったら?。わたしにとって、お父様は何より大事です」と、 
彼氏がいながら!と、不愉快だったが、しぐさをみると、やはり、朝鮮人が原因のようにしか見えなかった。
大阪へ帰りの電車ではほとんど無言のまま、しらけたような別れ方をした。

兄に報告すると、
「やはり、お前でも無理か。いいや、元気出せ。いい女はいくらでもおるさ!」

東京行夜行急行列車に乗り、デッキで見送りに来る彼女をひそかに期待しながら外を見ていたが、列車はそのまま走り出した。
そうだろうなあ、太陽は東からしか昇らないと、あきらめた時、走る前面に見える出口の端で、コートを着た女性が手も振らずに斜め目で、私を見送っていた! 
どうして、いまさら、好きでもない私を見送りに来るなんて、理解に苦しんだ。そうか、傷ついた私への心遣いなら何とやさしい人なんだろう!
今度は、彼女の心の美しさにまいってしまった。

そして、熱海の自殺の名所が眺められる旅館で、生まれて初めてのラブレターを書き始め、一気に書き上げたら17枚になっていた。
こうして行く先々から、絵葉書とラブレターを送ったのに、返ってくる電話は、「もう、いいかげんに、勘違いしないでちょうだい」と、冷たく、あきれかえっていた!
 
韓国の李承晩政権が4・19学生革命によって揺れ始めた。在日韓 国民主社会主義同盟学生リーダー、洪性貞君の呼びかけに協力し、
初めて民団中央本部に乗り込んでみると、金載華前団長、権逸弁護士等、有志がすでにきていたが、学生は私達が中心となっていた。
李承晩大統領に最も忠実な柳泰夏大使の退陣をも求めてデモを計画していた。李承晩政権は、学生のデモは共産主義者と決め付けていた。
在日朝鮮留学生同盟主催による、4・19学生義挙支援中央決起大会が信濃町朝総連中央本部2階で開催された。

今度はこの集会に乗り込み、「この大会は李承晩の言動を確証付けるばかりで、彼等の思うつぼでしかならない!
支援するならば、人民旗(インミンギ)の代わりに、太極旗(テグッキ)をもって、韓国学生と一緒にデモに参加すべきだ」と、
勇気をもって、集会の意図に反対の発言を飛ばした。一糸乱れぬ朝総連の大会ではありえない出来事に、議長団は当惑し、会場は静まり返った。
誰一人反対する声がなかったが、創立されたばかりの朝鮮大学学生が立ち上がり、私をKCIAの手先だと、詰った。

私は堂々と会場を退場し、日本でも、学生デモは成功を導いた。各報道機関は新聞・TV・雑誌でニュースになり、そこでも、私は、
「北朝鮮にはパンはあっても自由がない!南には自由以前にパンすらない!」と、訴えた。
南北双方とも交流を避けていたが、私は朝鮮、韓国、両(金奎一、趙鶴来)留学生同盟中央委員長の仲立ちをし、
神宮の日本青年会館で、はじめての合同大会を開催した。

韓国の大統領候補、デッチ上げによる進歩党事件で、死刑になった曹奉岩党首の秘書、金達鎬氏が韓国社会大衆党を結成した。
権逸弁護士と共に民主社会主義同盟を結成した、鄭寅勲氏が書記長として登場し、私は書記長のすすめにより帰国を決意したが、
「今の私に何ができるのか」とも、感じた。帰国に際し、在日韓国居留民団に加入し、国籍を韓国籍に切り替え、パスポートを申請しなければならなった。

先ず父に、「今度、帰国しようと思いますが、パスポート申請のため、国籍を韓国籍に変えます」。「お前は自分の思想信条を変えようとするのか」
  あれほど、思想家(サーサンガ)を警戒していた、父の返ってきた言葉に、私は驚くばかりでなく、
無知だと思っていた父こそ、本当の人生の歩みを望んでいるのだなと、痛感した。 

戦前、朝鮮人で、初めて、弁護士になった金判厳先生宅へ来るように連絡があった。
鄭書記長が、学生に会いたい方が見えるというので、お伺いした所、少し頭が禿げ上がった方が李朝末の李王殿下であった!
挨拶だけで、直ぐ、帰られたが、何か、歴史を観ぜざるをえなかった。学生達と兵庫へ行った帰りに、大阪の家に立ち寄った時、樟蔭女子大に通っている妹が、
「兄ちゃん、彼女どないしたん」と、訊かれた。

それどころではなかったが、返って、この時の情熱が刺激した。彼女には実母が幼い時に、亡くしていたことを聞いていたので、
彼女の姉に母代わりとして訴えてみようと思った。
妹の前で一気に、10数枚書き上げ、パーティーの時、一緒に来ていた友人にその手紙を彼女の姉に託し、
私はこれで2度と恋をしまいと心に誓い、父のすすめる人と一緒になってもよいと決心した。
やるだけのことはした!気持ちはさっぱり、晴れやかになり、もう、彼女を忘れていた。 
「兄ちゃん、女の人から電話ですよ」 彼女の友人・楠田さんからで、「直ぐ、有さんに電話かけて」

ひょっとしたら、まさかと、忘れてしまった彼女からの伝達を夢見るような思いで電話をかけてみた。
心斎橋の最初に会った音楽喫茶で待ち合わし、まだ触れたこともない手を、向かい合うテーブルの下でお互いしっかりと一度だけ握り合い、将来の愛を確認した。