「我が半生」(3) 前愛知県韓国人経友会事務局長 金龍鐘 |
死を直面して
しばらくて、北橋洞から陽洞に庭付きの家に宿替えした。父に欲しいものを頼むと
読む事もできない世界文学全集、科学の参考書、スポーツ用品等、無理してまで日本から送ってきた。
前とは、すっかり、生活様式も変わり、人から見てうらやましい文化生活を楽しんでいた。
木浦はもともと、文化水準が高く、優れた人々が住んでいたようで、
日本では出会ったこともなかった、北京にも住んでいたという友達・金鎮泰君の家に招かれ、
当時、すでに、友人の兄がアメリカのカルフォルニア大学大学院に留学している写真を見せてもらった。
彼の父は6年制であったクリスチャン系中学校の校長を務めていた。4ヶ国語に通ずるなんて、すごい家もあるもんだとつくづく感じた。
母(オモニ)は私たち4人兄弟(妹)の教育環境をつくるため、何時の間にか、私だけの勉強に使っていた部屋を、
木浦商業の朴哲生先生に住んでもらうよう貸してしまった。
明治大学出身の先生は哲学を担当し、ギリシャの哲人・ソクラテスの肖像画をかけていた。真善美は教室でも、額でよく見かけたが、
先生の解り易い話のせいか、難しいけれど、哲学に親しみを感ずるようになった。
当時、ほとんど真面目なインテリーは社会主義思想の持ち主のようで、私の家には色々な先生と生徒が出入りし、なかなか賑やかであった。
大韓民国単独政府が樹立する前夜、国連の信託統治賛 成派と反対派で、政界は嵐のように揺れにゆれ、
世相はいっそう険しく、通行禁止時間は益々厳しさを増し、朴先生も私の家にいられなくなった。
日帝植民地時代、日本人が通学する木浦中学は独立後、英才教育で一躍、脚光を浴び、全羅南道から優秀な生徒が志望する有名校だった。
特に、私たちが入学した時から、速成教育の一環として、クラス編成を入学時の成績順で決め、合格者200人を1番から50番まで4班とし、
1班はたとえ、小学校1,2番争っていたとしても、木浦中学の最劣等生になった。
入学登校日、6学年全校生から、1年4班は注目の的になり、全校生朝礼終了後、各班の点呼の時、
1年4班の担任が病気のため、代任の尹陽鉉教頭が全校生の面前で、いきなり、4班の全員に出席簿で、みんなの 頭を力いっぱい叩いた。
「その面(つら)はなんだ!生意気な秀才面(づら)などして!全員、そこで立っとけ!」。皆、納得いかなかった。
今まで誉められこそしたが、人前で恥ずかしい想いをほとんど経験した事もない、幼い優等生達は理由なき叱責に悔しさをかみ締めた。
晴天の陽射しを浴びながら、1年4班だけ運動場にとり残された。
1学期の授業が始まったが、相変らず担任は病気が回復せず、尹先生が代行していた。
「今日は放課後、全員、教室に残りなさい!」
何事かと思ったら、蓄音機とレコードを運ばせて、日が暮れるまでベートベンを聴かせ、
私はこのとき初めて、ベートベン9番「歓喜」を通して交響曲を知ったが、皆もそうだった。
レコード鑑賞はその後も続き、もう誰も、嫌がるものはいなかった。すでに、担任になっていた尹先生は、
「36年間、日本の植民地抑圧から解放され、やっと、独立(トンリプ)した我が祖国は、今や、偉大な志を抱く若人を必要としている。
この中からベートベン が!ナポレオンが!リンカーンが!・・・・・」
とうとうと溢れる情熱を吐露する姿に、みんな心打たれ、ほとんど毎日といってよいほど日が暮れても、
4班だけ、課外特別教育が尹先生の自発的な発想で続いていた。
私たちは入学登校日の散り散りに破れてしまった出席簿を、やっと、解き明かす事が出来た。
地域での優等生ぐらいで、ちやほやされ、秀才面された尹先生の気持が少しずつ解ったような気がした。
世の中には理想を実現するため高い志を抱き、激しい 情熱と己を捨てる犠牲心をもって、一生涯捧げた人たちがいる。
国づくりには、己の立身出世ではなく、人の為、世界に目を広げなければならぬことを感ずるようになった。
クラス全員は尹先生に答えるべく、一丸となって新しい理想に向かって、今までとは違った、やる気を燃やした。
絵画の上手な同級生に、ベートベンを初め、あらゆる世界の偉人を、皆で選び、肖像画を描いてもらい、教室内に貼りだした。
2年に進学した時には、ベートベンの歓喜「合唱」第1主題曲で2年4班の班歌を作詞し、皆で歌いあげた。
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時に、北朝鮮にも人民共和国政府が誕生するや、朝鮮半島の政治情勢は米ソの対立によって、緊張度が日ごとに増していった。
新しく創設された韓国軍の麗順反乱事件、済州島4・3事件はパルチザン活動にまで発展し、南北対立の思想は、最早、議論の余地なく、
いつ戦争が勃発してもおかしくなかった。
木浦の美しい儒達山にも、毎晩、南労働党(ナムノダン)の烽火(ボンファ)が絶えず、共産党狩は戦慄をきわめ、
学校では反共教育と軍事教練が強化され、北から越南してきた反共西北青年団の活動は、目に余る脅威すら感ずるようになった。
父は日本へ帰ってくるように、催促してきたが、私が大学留学まで行きたくないというので、母(オモニ)はどうする事もできず、
兄が先に生まれ故郷の大阪へ一人で渡っていった。
噂で、38度線での小衝突は何度も面白半分に聞いていたが、1950年6月25日、午前4時、38度線で本格的な戦争が始まったことを耳にした。
しかなく、人民軍(インミングン)は3日でソウルを占領したと。
木浦刑務所で思想犯を逃し、街角で銃殺があちこちであったと噂で聞いたが、私の家の路地裏でも、深夜、1人銃殺されていた。
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一ヶ月経たぬ昼過ぎ、市場近くで、友人に逢ったが、呼んでも振り向くだけで、そのまま、そこそこと去って行く光景がなんとなく異常な感じがした。
道通う人々も、又、空ろな目をしながら、急ぎ足で静かに消えて行く、いつも賑やかな街がシーンと重く漂い、
社会の様相が今まで、感じたこともない、おかしな風景に映った。
家では、私が帰るのを待ち構えて、病気の弟を抱えている母(オモニ)が、
「人民軍(インミングン)が光州を占領したようだ。お前だけでも生き長らえないと、お父さん(アボジ)に申し訳ない。
今から直ぐ、荷物をまとめて、叔父さんと船で逃げなさい」と、せがんだ。
一家の柱の役割をしていた私が拒んでも、うんともすんとも言わさず、祖母(ハルモニ)と共に嘆願するかのように命ずるので、
カバンとバックに本を詰め込んで、木浦の港へ向かった。親しい金祥培君が私を見つけ、ついてきて、黙々と歩き、互いに侘しいおもいで話す言葉さえなかった。
彼は逃げる余裕すらない貧しい家庭育ちだが、成績優秀ばかりでなく、友達付き合いもよく、皆から親しまれていた。
港口は人で溢れ、あたかも、蟻の群れが波止場にたむろしているかのように、市民が一気に集まってきたかのごとく、
今まで、ここで見たこともなかった光景だった。叔父が、「何升持ってきた?」 「えっ?」 私は一瞬、何のことを聞いているのかと、
「米を何升持ってきたか?」 、「これ本です」、 「何の本だ?」、 「英語と・・・・」と言うや否や、私の顔面に拳が飛んで、
「馬鹿ったれ!生きるか死ぬ かという時に、何が本だ!しかも、共産社会が来るかも知れない時に英語の本なんて!馬鹿者!!」
私は食べて生きている事をすっかり忘れていた。 私の父の世話で生活をしている、この叔父さんが私に手を出すなんて!意外だった。
その時、昔、父がよく言っていたことを思い出し、自分が本当に勉強している事に気付き、
「お父さん(アボジ)!僕を誉めてください!!明日をもわからないこの時、僕は勉強しか考えてなかったんですよ!!!」と、
海に向かって、父の喜ぶ姿を描きながら、心の中で涙ながら叫んだ。 何処からともなく銃声が聞こえた。
「人民軍(インミングン)が来たぞ!」と、聞こえるや、波止場は大混乱を起こし始めた。
目の前で向島の船賃50円足らずが、見る見るうちに倍、10倍と跳ね上り、100人乗りの船に20人、30人が乗り、何人か海に落ちる始末で、
ついに船賃は100倍まで出すという人が出てくる時に、ぴかぴかの軍靴を履いて、ズボンの線を立てた恰幅のいい韓国兵が
米を積み込んでいた米国製水陸用舟艇に乗り込み、われ先に、汽笛をあげて港から逃げて行った。
後で、銃声は米泥棒に撃った音だと解ったが、ほとんどの船は港から消え、群集も散り散りと、何処となく去っていった。
私は家に帰えられるのが嬉しかった。
翌早朝、遠くから砲声が聞こえ、いよいよ人民軍(インミングン)がやってきたと、家族全員、息を殺し、家の中でじっとしていた。
何処からともなく、人の声があちこちで騒がしく聞こえ出し、しばらくすると、人民軍(インミングン)を出迎えた人々がいたと、いう話が伝わってきた。
真っ先に、1年後輩の陽植(ヤンシギ)君がやって来て、
「皆、街に出ているよ。出てみないか?」と、誘われた。
街には、人民軍と武器らしいものが余り見当たらなかった。
「人民軍(インミングン)の本隊は郊外にいるらしいよ。行って見ようか」と、陽植(ヤンシギ)が気軽に言うまま行ってみた。
遠くから人民軍(インミングン)の歌声が聞こえ、行って見ると、私らとほとんど変わらない少年兵みたいな人民軍(インミングン)が大勢いた。
武器はほとんど、日本軍が残していった、みすぼらしい小さな野砲ぐらいで、戦車なんって、名ばかりで、オープンカーに見えた。
こんな武器で、ここまで、進軍してきたなんて、とっても、信じられなかった。
占領中、住民から略奪するのを見たことはなかったが、撤退直前、一度、強制労働に狩り出されたことがあった。
木浦から逃げられなかった中学生は学校へ動員され、3年生までは少年団(ソニョンダン)としてデモにも参加させられたが、
スターリンの肖像画を担ぐ事だけはみんな嫌った。
儒達山中腹に小奇麗な家を構え、次の授業時間がくるまで熱心に教えていた生物学の講師が、校長として就任していたことには驚いた。
尹先生は変わらず、教頭を任じられていたが、李承晩政権の腐敗を鋭く批判した。
学校では授業らしいものは何もなかったが、時に、ロシヤ語だけ教えてもらった。その先生がなんと、学校で軍事教練を指導していた教官であった。
どうして、人民共和国に反対して、越南してきた人がロシヤ語を教えていた事に理解できなかった。
木浦に残された4班の同級生数人はお互い連絡を取り合い、本など回し読みしていた時、
みんなの会話の中で、ブルジョア、プロレタリア、唯物論、弁証法と珍しい言葉を耳にした。
「それ何のことだ。何処でそんな言葉をおぼえたのか?」
「お前、まだ、その本読んでないのか?大衆哲学さ、今度、まわすようにするよ」
直ぐに、届いた本は中国人が書いた350ページほどの翻訳本で、私が読みこなすには無理だと思った。
序文だけ見ても目がくらくらし、哲学史から唯物弁証 法と難しそうな項目が眩しく見え、彼らがこのような本を読んでいたとは、
私は驚き、恥ずかしい思いをしながら、1ページ読むのが精一杯だった。
日帝皇民化教育にだまされ、李承晩政権にも、今度こそ、3度だまされまいと思いながら、1週間経っても十数ページしか進まない自分にいらいらしていた。
然し、次に回す催促がなく、そのまま読んでいると、慣れてきたせいか半分ほど読んでいる時、友達がやってきて、
「まだ、そんなものを読んでいるのか?」と、あきれ返っていた。
「すまん。やっと、半分しか読めなかったよ」
「何?お前、本気で、その本、全部、読む気か?」と、びっくりしていた。
みんな、5ページばかり、序文だけ読んでいたのを知らず、私は全部、読むはめになってしまった。
最後、唯物弁証法は頭を抱えながら、1日5ページず つ、いったりきたりしながら、一人で読みきったことが、その後、私の読書力に大きな自信となった。
全校の噂にもなったようだった。
木浦中学にも、シンパらしい犠牲心の強い二人の見知らぬ学生指導者(トンム)が現れ、学生ながら監察隊をつくり、
右翼学生を捕まえ、学校裏の鳥小屋に見張りまで置いて監禁していた。
校内で人民(インミン)裁判(ジェパン)が行われ、 被告にされた学友を庇った人まで非難され、
木浦人民(インミン)大会(デフェ)が開かれた時には、最初から、大衆受けする進行のからくりが設定されているのを、目撃した。
或る日、隣の家にいた高級洋(ヤンカル)パン(ボ)が物乞いに入ってきて、
「ハルモニ(おばあちゃん)!お願い!何か食べさせて!」
「貴様みたいな売国女に食べさせるものはない!」と、私は彼女を罵った。
人民軍(インミングン)に相手にもされなかった高級娼婦は何日も飢えていた。
「お前はあっちへ行きなさい!アイゴ!かわいそうな娘よ、こっちへ、早くいらっしゃい」と、
私を一番可愛がってくれる祖母(ハルモニ)が慈悲深く娼婦に食べ物を差し出した。それを、頬ずるようにパクパクと食べる姿を、私は横目で軽蔑しながら見ていた。
学校放火を守るため交代で、数人ずつ校内で宿直していた。UN軍仁川上陸後、
「今日は、どうも変な気がする。みんな家へ帰って寝なさい」と、上級生のリーダー(トンム)から言われた。
翌日、噂話が、「昨日、宿直していたなら、全員、右翼学生に殺されるところだった」と、
みんな鳥肌が立つほど動転し顔を見合った。もう、誰も、校内で宿直しなくなった。
見慣れない、立派な体格をした人民軍(インミングン)上級将校が私の家の前で、外国製自動二輪の運転練習をしていた。
みすぼらしい人民軍(インミングン)兵卒が三八銃を持ちながら、緊張して、上官に敬礼していた姿が印象的であった。
一晩中、兵卒は警戒していたが、上官の姿は何処にも見えなかった。
翌朝、国連軍が上陸する噂があって、家の中を防備する準備をしていた時、玄関先で騒がしく物音がした。
母(オモニ)が、何だろうと、私に塀から外を覗くように言われた。突然、
「誰だ!出て来い!」
外を覗いた時、いつもと少しちがうと思った。私の家の門前で銃を持った男に目が合い、塀から頭を下げておりてきた時、男がいたから騒いでいるようにも感じた。
母(オモニ)は、じっとしているように、言いつけたが、門に向かって銃を撃ってきた。
大きな衝撃音が家中響き渡り、吼えていたシェパードのベースが ヒュンと、か細い声を出したまま、静かになったので、
撃たれたと思い、私は勇気を出して門を開けた。
祖母(ハルモニ)が後ろから出てきたかと思うと、外の世界は一瞬で、変わっていた。
グリーンの制服を着た韓国軍(クックン)が3人ほど立って、真中の兵が私に向けて銃を構えていた。
まさか、中学生に撃つはずはないだろうと、私の前に 立った祖母(ハルモニ)に退くように言うや否や、
銃の安全装置を外す、「かちっ」と、いう音が聞こえたその時、「あ!!!」と、私は悲鳴を上げながら体が崩れかかった。
その瞬間、私は幼い時から今までの思い出が脳裏を過 (よ)ぎった。
日本にいる父(アボニム)の顔、兄(ヒョンニム)の顔を見ることなく死ぬ無念さ、
まだ、中学生なのに女を知らずして死ぬなんて!まだまだ、したい事があるのにできなくなる悔しさ等々、
一瞬にして、過去未来 を同時に、映画フィルム2,3巻、見たようだった。
「ハルモニ(おばあちゃん)!前、退きなさい!」
銃を構えた兵は、中学生にしてみては大きい私を大人に見ているようだった。市街戦の最中、1人や2人死んだって、当たり前のような空気が漂っていた。
「罪のない幼い子を殺すなら、老いた私を殺しなさい!」と、祖母(ハルモニ)は私の前からよけなかった。
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李朝以来、儒教を信条とする朝鮮人は思想を問わず、老人を敬愛する教えが徹底していた。
たとえ、この戦乱の中でも、兵は安全装置を外(はず)した引き金を引く事はできなかったようだった。
その時、隣の家から女の人がするすると前に現れ、銃を構えた兵に近寄って、「ちょっと、あんた!」と、親しそうに話し掛けるではないか!
あの娼婦(ヤンカルボ)であった!!私はかすかに見える2人の光景を見ざるをえなかった。
私への恨みか?祖母(ハルモニ)への慈悲深い愛か?
また、その時、私のポケットに入っている少年団(ソニョンダン)名のメモを思い出し、気付かれないように取り出し、まるめて、足元に落とし、足の親指と人差し指に必死で挟んだ。
上官らしい軍人が家の捜索から出てくるなり、「行こう!」と、銃を構えていた兵もなつかしそうに笑っている娼婦と一緒に去っていった。
私は部屋に入って見ると、まだレーニンの本が残っていた。!人民旗(インミンギ)も!!
私は隙を見て、母に目で合図したはずであったのに、オンドル口に燃やそうと近寄って見ると、たしかに、何冊かの本が置いてあった。
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私は部屋に戻るや、そのまま、深い眠りについてしまった。
「お前、3日間、魂が抜けたように、ずっと、眠り続けていたよ」と、目覚めた私に、母(オモニ)は暗い部屋の側で静かに語った。
私は心が空っぽで、隣の娼婦がいなかったらどうなっただろうか?、どうして助かったのか?、ハルモニ(おばあちゃん)の慈悲深い愛が救ったのだ!
ありえない「奇跡」というしかない出来事の不思議を唯、観ずるばかりであった。
外に出たくなかったのは、大の男が人前で悲鳴をあげた事に恥ずかしくてたまらなかった。だから、この事を永い間、親しい人にも話さなかった。
あの日の、上官と娼婦が真昼にやって来て、布団と部屋を貸してほしいと、言ってきた。
母(オモニ)は嫌がっていたが、祖母(ハルモニ)がたしなめながら、(アボ))の布団を差し出した。
「この布団は一度も使った事がないのよ。これだけは止めてください」と、母(オモニ)は必死に哀願したが、どうする事もできなかった。
親戚の上級生が 学校へ出るよう誘いにきた。 人民軍占領中、一度も、学校へ来な かった彼がどうしてだろうと、
登校すると、右翼学生リーダが全校生を運動場に集めて、北朝鮮に協力した者達を摘発していた。
逃げる当てもなく、学校へ顔を出しただけで疑いをかけられる始末であった。 授業中、右翼監察隊に捕まったシンパが同じ学友の棒で殴られ、
苦しい唸り声を上げるのが教室まで響き、授業はシーンと静まり返り、恐怖の身震いを感ぜざるをえなかった。
私は、監察隊長と野球部をつくる時、親しかったのか、厳しい詰問は受けなかった。
然し、生き残った同級生の内、尹先生の嘆願書提出に署名した十人ほどの学友が停学処分を通告されたようだった。
校長に就任した講師は逃走中、近くの山で、どうも教え子の右翼学生に竹やりでお腹を抉られ刺し殺されたらしい。
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