「我が半生」 (2) 前愛知韓国人経友会事務局長 金龍鐘

初めての自覚

私は大東亜戦争が始まる頃、大阪市立北中道小学校に入学し、2年生まで在学していたが、
勉強どころか、毎日喧嘩ばかりして、同学年だけでは物足りないのか、上級生の教室まで出向き竹竿を振り回し暴れ回っていた。

試験の時など、名前も書く事ができなく、白紙で出すことすら厭ず、善悪をわきまえるどころか、
「善悪」その事が解らず、学校へ通う事は学ぶどころか、遊ぶ場としか考えてなかった。

大正時代、当時、日本の植民地であった朝鮮半島の最 南端、済州島から13歳位で働きに来た、私の両親は学校へ通ったこともなく文盲であった。
しかし、真面目な父は20歳で工場支配人となり、25歳の時には工場経営をするようになって、30なかば過ぎた頃には、工場を2つ所有し、
従業員120人ほどかかえる町一番の経営者になっていた。やんちゃ坊主の次男であった私は父から、

「勉強できたら、ドイツのイエーナ大学へ留学させてやるよ」と、よく言われ、それでも勉強しない私に父は家庭教師を従兄に依頼したが、
勉強する最中に、逃げてしまう足早い私を追っかけてくる従兄はかんかんになっていた。

遊びにかけては天下一品で、当時「らむね」といったビー玉遊びは名人であった。
無我夢中で、ビー玉を当てるのに日暮れも忘れて遊んでいた或る時、不思議と、かなりの距離のビー玉が見事に百発百中命中するのであった。

又、「べったん」と言う、地方では「しょうや」ともいっていた遊びもなかなかのもので、噂を聞いてか、
勝負あらしにやってきた年上の兄ちゃんと堂々と戦って勝つほどの度胸も持っていた。

また、紙芝居の「当て物」にはめっぽう強く、勉強はできなかったが、漢字だけはどういうわけか、人よりよく知っていた。
私の家に手伝いに来ていた春子従姉は紙芝居によく連れてくれて、懸賞を当てる私を心から喜びながら、
「光章はかしこい子や」と言って、可愛がってくれた。私は嬉しかったが、心の隅で違和感を抱いていた。

いつも、人は私を、「悪い子」、「憎たらしい 子」、「馬鹿な奴」と言うので、聞き慣れ、自分もそうなのだと思い、
顔も猿のよう憎たらしい相をしているものと思い込んでいた。

小学校3年生の3月、アメリカのB29、ロッキード、グラマン艦載機による大空襲で、大阪の都心は焼夷弾で丸焼けになり、
私は死の恐怖を抱き、空襲の夜 空を眺めながら、明ける日を待った。
兄と朝鮮人いじめにあった泉佐野の疎開から、今度は朝鮮へ家族と一緒に渡ることになっていた。

大阪築港まで自動三輪車で走っていると、心斎橋付近が燃えているのがありありと見え、大阪の誇るべき都心は一夜にして焼け野原に変わっていた。
「君が代丸」に乗ったのは生まれて初めての船旅で、瀬戸内海から玄海灘に出るや、
アメリカの潜水艦を警戒しながら済州島に向い、魚雷にびくびくしているうちに島の端に着き、どこか異国の雰囲気がしたところが故郷だという人がいた。

私の両親もこの島の麓が生まれ故郷であったが、私達家族は両親の貧しい生まれ故郷ではなく、全羅南道木浦の親戚を頼って行くことになっていた。
朝鮮半島の西南端にひろがる多島海の入り江から木浦港に辿り着くと、風流な楼閣が目につく儒達山が美しく聳え、岩肌があらわな、そう高くない山だが、
日本では見られないような禿山に近かった。

自然の風景もどこか異なって見えたが、 街の生活様式は日本と全く違って見え、人々の礼儀正しさが目につき、
特に、老人を敬う、やさしい心遣いが安らかさを感じさせ、貧しいながら穏やかな生活を 質素に営んでいるのがよく見えた。

三人兄弟は朝鮮人だけが通う北橋国民学校へ編入したが、学校では日本語だけ使用し、名前もすべて日本名だけで呼び、
先生も生徒も変な発音の日本語を一生懸命使っていた。

まだ木浦の生活に慣れない真夏に、天皇の玉音放送が伝えられ、数日も経たぬ内に、
何処からともなく、独立(トンリップ)万歳(マンセ)行進が日増しに高まり、
静かであった朝鮮人が声高らかに朝鮮独立の歌を朝鮮語で堂々と歌い始め、何もかも世の中が変わり、思想信条の違いで争いが激しく対立していった。

特に共産主義の台頭が著しく、世の中が益々殺気立って、経済生活も落ち着かず、明日の見通しさえできなくなってきた。
日本から持ってきた一生の財産がインフレーや詐欺にあい、父はまだ、工場が残っているかもしれない、廃墟になった大阪に悲壮な想いで渡ることを決心した。
 
祖父の法事(祭祀)の日、大雪が降る中、祖母はじめ6人家族を後に残し、家から出て行く父の背中がなんとも淋しげだった。
当時は日本との郵便すら不通だったので、人を便りに消息を尋ねるが、全然、父からの音信はなかった。
家計は苦しく、親戚からお金を借りることもできない辛い時であったが、私は相変わらず学校で喧嘩ばかりしていた。

日本と違って、木浦の小学校では1、2年遅れているのが普通で、中には3年以上遅れてる、おっさんみたいな大きな同級生もいた。 
私も日本では大きい方だったが、ここではとても敵う相手ではなく、自然と喧嘩しなくなっていたが、
或る日、家の中で喧嘩を始めた私は、2つ年上の兄を投げ飛ばして泣かせてしまった。
これを見た母(オモニ)は、「父のいない時に、一家の柱である兄を蔑ろにして、いいのですか」と、私の頭を太筆で叩いた。
痛くもなかったが、以外にも頭から血が出たので、私は泣きながら母(オモニ)に、
「父がいない時に、子供を大事にせず、血が出るほど叩いていいのですか」 と、食ってかかった。

血が出ているのを見た母(オモニ)はとっさに手当てをした後、ひざまずいて頭を床につけ、我が子に詫びていた!
私は、この母(オモニ)の不条理な姿を見 たその時、一瞬にして、涙が乾き、今まで感ずることも出来なかった罪悪感を直観した。
「私は母(オモニ)に跪かせて、母としての尊厳を傷づけてしまった!!!」

自分の為した行いに、許せぬ気持が心の奥底からどんどん湧いてくる想いを禁ずることができず、どことなく贖罪意識を感ぜざるをえなかった。
ふと、日ごろ、友達同士で、「メンソレタームを目に塗ってでも、眠気に打ち勝って、深夜十二時まで勉強できるかな?」 、「そんなこと、絶対無理だよ!」と、
話し合ったことを思い出した。私は自分自身を罰するつもりで、今まで、家で開いたこともなかった教科書を、早速カバンから取り出した。

10時前、いつもの通り激しい睡魔に襲われが、何とか歯を食いしばり挫けず、12時まで頑張りぬいた。
意外に目が覚めていたので、いっそのこと、そのまま、朝六時まで徹夜することにした。

さすが眠気は直ぐやってきたが、いまさら寝るわけにいかぬと、2時過ぎの睡魔とも戦い抜いた。
12時頃まで針仕事をして、寝床に入った母(オモニ)が、4時頃、4度目の眠気に襲われている時に起き上がって きて、
「今からでも、少し休みなさい」と、すすめたが、
私には、今更、自分との約束を曲げるわけにはいかなかった。

テーン、テーン、テーン・・・と6回、時計の鳴り響 く音を確認して、立ち上がった私は、布団の上で、そのまま倒れ、眠ってしまった。
「学校に遅れるから、朝ご飯食べなさい」と、母(オモニ)が起こしてくれたので、急いで仕度し、いつものように4人兄弟(妹)と、一緒に学校へ出かけて行った。
その日から、私は深夜2時まで、毎日勉学に励み、喧嘩好きだった劣等性が学年末には生まれて初めて、優等生として賞状をもらう事になった。
その時、名前を呼ばれても誰なのか解らず、返事すらできなく、先生に再度きつく言われて、私が?と、
やっとのおもいで、恥ずかしさを堪えながら前に出たものであった。

「私が、どうして、優等生なんだ!!」
しかし、周囲の人たちは当たり前のように私を見つめていた。
もう、かつての「悪い子」の面影は消えていたようだった。私は小学校も通ったこともない無学な母(オモニム)を偉大な教育者だと無意識に思うようになっていた。
クラス会でエジソンの母が話題になった時、みんな、私の母(オモニ)を、「エジソンの母」みたいと、言っていたことに私も同感していた。