「我が半生」(1)前愛知県韓国人経友会事務局長 金龍鐘
いのり

「光章!ちょっと、こっちへ来なさい」
このような呼び方を今までしなかった母(オモニ)が、お寺(チョル)参りから帰ってきたばかりなのに、何ごとかと行ってみると、
「大阪のお導師(スニム)様が、お前のことを手も合わさぬけしからん次男だと、言っていましたよ。
お前も、一宮で10年もお世話になっているのだから、氏神(土(地)さん(の)神)にお酒でもお供えしたら?氏神(トシン)さんは、
お前のお酒がほしいと、そう言っていましたよ」と言って、さっさと、その場から去ってしまった。

私はあることに、はっと、気がついた。でも、どうしてそれに気がついただろうか?まさか、有子が母(オモニ)に告げ口をしたと思わなかったが、
真清田神社にお酒のお供えぐらいだったら、近くの酒久に頼むだけのことだった。

1969年頃、私は一宮ニュータウン繊維団地一角のショッピングセンター副会長に任じられていた。
10万坪の半分を一般団地とし、道路・公共施設造営、 その3分の1を36区画で9,000坪ほどのショッピングセンター設計が出来上がっていた。

私はショッピングセンター設立総会で土地分譲を受け た会員に、近い将来、車社会に対応すべく、
当時、始まろうとしていたワンストップショッピングセンター構想を提案した。

私の同業者で、東京から名古屋へ進出してきたピザハウス・ジローの社長が東綿の資本導入を紹介。
UCCがキーテナントとしてダイエー中内社長を紹介してくれたお陰で、地方都市に画期的な商業施設の夢が進展しつつあった。

総会で最も関心を示したのが、土地先行投資に参加した会員より、もう既に、他都市の商店街に出店し、バナナの叩き売りから創業した玉腰老社長であった。
設立総会数日後、私はタマコシ本店社員出入口横を通った時、玉腰社長から声をかけられた。
「君、カチューシャの社長だろう。ちょっと、時間ないか?」
常日頃、玉腰社長と面識を持ちたいと思っていた矢先で、先方からの呼びかけに迷わず、
「いいですよ」、「今、どうだ」、「いいですよ」、「お前の店でどうだ」、「いいですね」 「しばらく、カチューシャに行って来る」と、
玉腰社長は数人の大幹部に言い残し、私と同行した。

中部経済新聞に連載されていた「尾州商人のど根性」の主人公を前にして、その商魂を真剣に聞こうとしたが、
玉腰社長も負けずに、アメリカの新しい流通業界の知識を問い出した。
何度も、本社からかかってくる電話にも応ぜず、気がついたら7時間も過ぎてしまった。
話し終わって、真っ先に、2人ともトイレに行っていた。爾来、社長は私の店に親しく寄るばかりか、
いろんな会で見かけた時でも、一介の喫茶店のマスターに話し掛けてくれる大社長に、私は感謝の念すら感じていた。

「私に会いたければ、早朝、真清田神社へ来なさい今、新入社員の特訓している最中だ。一度見に来ないか」と、社長から誘われた。
これをきっかけとして、早朝、夫婦で神社まで散歩することになった。
私は戦後、一度も参拝したことがなかったので、有子が拝むのを唯、見ているだけだった。ある時、これに、気付いた有子が私のお尻の横をつつきながら、
「人が見ると、かっこ悪いから、拝んでいる真似だけでもしてくれませんか」
私は応ずるわけにはいかなかった。むしろ、拝んでいる人々に異常な感じすらおぼえていた。
いや、気の毒な人達が、いまだに、いることに驚きさえ感じ、自分自身の願い事を神頼みしている人々に偽善と虚無感すら感ぜざるを得なかった。

 
そんな態度の私を、怪訝 そうな顔つきでチラッと見つめる人がいるのを感じたが、
正月の初詣でもないのに、多くの老若男女がごくあたりまえのように拝む姿に、私には不思議に見えた。

お寺や教会では清浄な、厳粛な情感が漂うことがあっても、神社ではとてもそのような感情どころか、大東亜戦争の悪夢が目についてやまなかった。
内地どころか、朝鮮半島でも強制的に学童動員までして、神社参拝に必勝祈願を強制し、神風を信じこませ、結局、敗戦を余儀なくせざるをえなかった、
あの虚しい想いを戦後の民主主義教育と科学思想によって、やっと、私達は皇国史観から脱却できていたものと信じていた。
然しながら、拝殿の奥で光る鏡を見た時、自分自身の態度に、どこか、不遜な感じがしないでもなかった。神から見たら、私は全く、けしからん奴であった。

私の父は1日、15日には必ず、自転車に乗ってお参りに出かけていた。
道が凍てつくような寒い時私は車で父を真清田神社まで送り、車の中で待ちながら、参拝をすませた父を迎えて家に帰って来た。

雪が積もるほど激しく降る日、私は見かねて傘を差しだし、父のお参拝に付き添った。
吐水龍で手と口を清め、蝋燭に火をともし、本殿でお祈りをしているのを私はじっと待ち、やっと、終わったと思うと、
隣の服織神社にて、ながい長いお祈りを心魂込めて口ずさんでいた。

私は少々いらだってきて、無学な父の行動に飽き飽きし、我慢するのがやっとのことであった。
次は境内の祠にまで行って、順番に参拝する父に愛想を尽かしていると、今度は三八稲荷神社までお参りするではないか!
私は二度と付き添う事を止めることに意を決した。その後は、車の中だけで待機していたが、ある日、吹雪にあい、やむを得ず、また境内の参拝に付き添った。
ついに、私は嫌気がさし、こんりんざい、どんな事があっても付き添うことだけは止める決心をした。

ある日、父と出かけようとした時、母(オモニ)の声が聞こえた。
「光章!お前も、お祈りしたら!でも、自分の事はだめよ。お祈りは人のためにするのですよ。もし、自分のことをお願いするのだったら、最後に少しだけよ」
思いがけない母(オモニ)の言葉に一瞬、唖然とした。何と、人は自分のご利益(ごりやく)のために神頼みをしているのではないのか。
家内安全・商売繁盛・入学祈願等々、誰が他人のためにお祈りをするなんて!!
そうだ、これだったら、社会主義を信奉する人間だってできるのではと、ふと思った。

今度は真清田神社に着くや否や、車から降り、父の後をついて、同じようにお祈りを始めた。
母(オモニ)が言った通り、思い出す人々を描き、その人の状況 に惠を与えられるよう願い、念じていると、側にいた父が先に出かけていった。
あわてて、私も次のところでお祈りをしていると、又いつのまにか父の姿が次の場所で祈っていた。

知らぬ間に、私は父より長いお祈りをしていて、親しい人々だけでなく、嫌な奴にもお祈りしていた。
終わった時、何とさわやかな清清しい心地、晴ればれとした自信に満ちた気持が、「喜び」と共に湧き上がってくる想いであった。
人々の無償の愛である親心と人々の思う孝心との、奥の焦点に神らしき「みこころ」を感ずるような気がした。