生みの親韓国、育ての親日本(7)  株式会社高電社 会長 高基秀
翻訳プログラムは「社長の道楽」

ところが、せっかく作ったこの通信プログラムは、残念ながらあまり売れませんでした。
実際のところ、チョルリアンがハングルで読めるようになったところで、ハングルが読めない大半の日本人にとっては、ほとんど役に立たないのです。
「チョルリアンを日本語で読めるようにしてほしい」「日韓翻訳プログラムを作ってほしい」との声が、日増しに強くなってきました。

また韓国の立場からすると、あらゆる分野で日本の技術や情報を欲しがっているという状況がありました。
ここで翻訳プログラムを開発しておけば、いつかは その苦労が報われるのではないか、
そう思った私は、周囲を説き伏せて、日本語−韓国語翻訳プログラム開発に着手しました。

翻訳プログラムは、これまで当社が開発してきたプログラムとは次元の違う、困難な作業でした。
私自身が辞書の基礎データを作成し、プログラマーと二人三 脚で、満足のいく翻訳結果が得られるまでプログラムの手直しを続けました。
「採算性がとれるのか」「この仕事は社長の道楽だ」などという声も聞こえてきました。

しかし、天才的なプログラマーのおかげもあって、1991年、日−韓翻訳プログラム「j・Seoul/JK」を世に出すことができました。
このプログラムは、韓国でも新韓銀行をはじめとする多くの企業や政府機関などで、つい最近まで使われていました。

しかし、私たちの翻訳プログラムが本格的に売れはじめ、また各方面から高い評価を得たのは、1997年ごろからでした。
「石の上にも3年」といいます が、私の場合はハングルのフォントの制作から数えると18年ほどになります。