生みの親韓国育の親日本(6)  株式会社高電社 会長 高基秀

日韓の架け橋となるような仕事を


そしてこのことで、私は自分の進むべき道が具体的によりはっきりと見えてきたような気がしました。
コンピュータソフトの開発で、韓国に恩返しをし、同時に日韓の架け橋となるような仕事をしよう。こう決意したのです。
私の予想通り、コンピュータは瞬く間に普及していきました。
1980年代の後半になると、日本ではコンピュータやワープロを家庭に一台ずつ持つようになりました。
韓国ではワープロではなく、パソコンが企業や学生を中心に普及しはじめました。

そしてパソコン通信の時代。日本では日商岩井と富士通が出資して作ったニフティサーブと、
NECの経営するPC-VANが2大ネットとして、パソコンやワープロユーザーの集いの場となりました。
パソコン通信を通じて、アメリカとも情報のやりとりができるようになりました。そうなると、今度は隣の国韓国です。

ソフト開発会社であると同時に、NECのパソコンの代理店でもあった高電社は、
NECから、PC-VANと、韓国DACOM社が経営するパソコンネット、チョルリアンの橋渡しをしてほしいと依頼を受けました。
早い話が、日本のコンピュータでPC-VANを通じてチョルリアンにアクセスし、画面をハングル表示できるようにしてほしいということです。
これまで蓄積したノウハウを駆使し、日本語−ハングルのバイリンガル通信プログラム「Welcome J/K」を作って世に出しました。