生みの親韓国、育ての親日本(2) 株式会社高電社 会長 高基秀
韓国・済州島で生まれる
のっけから結論めいたことを申し上げてしまいましたが、このような時代に直面して、私は自分自身の人生、というか経歴を、あらためて誇りに感じております。

在日韓国人として生きてこなかったならば、今日の私はありませんでしたから。私は1934年、昭和9年韓国の南端の島、済州島で生まれました。
この年には日本人が韓国に59万人居留していたと統計上に出ています。
丁度今在日韓国人が60万弱といわれていますからそれ相応の人が韓国にいたということになります。
勿論置かれた立場や指向した内容は全然違いますがこの生まれた時の時代的背景は私を陰に陽に大きく律しております。
故に私個人の源だという表現を使っております。その後 の両国の歴史の流れは皆さんが体験した通りです。解放後の韓国は混乱続きでした。

とくに私の故郷の済州島は、済州道4・3事件というのがあって、たくさんの人々が犠牲になりました。
それからしばらく経って6・25動乱、日本でいう「朝鮮戦争」が勃発します。だから正直なところ、
子供の頃は落ち着いて勉強できる環境ではありませんでした。

小学校(初等学校)は済州島で出たのですが、中学は光州で通いました。光州もこれまたまた対立から生まれた悲惨な歴史の多い地域であります。 
麗水順天反乱事件とか5・18民主革命運動とか、又植民地時代は光州学生事件とかがあります

このような歴史的また地域的背景から、自分も何かしなければならない、という気持ちが幼いながらあって、私なりに一生懸命勉強しました。
ところが6・25動乱が始まりました。これでは勉強どころか、下手をすれば命さえ失いかねない。 なんとしても生き残り、そして勉強を続けたい。
そう思った私は、単身日本にわたり、知人や、親戚のおかげで、大阪の建国高校で勉学を続けることができるようになりました。

日本に行くのも大変でしたが、建国高校に入学するのもまた困難でした。
私の建国高校入学許可を得るために、建国高校の当時の校長先生をはじめとする多く方々が、
法務局や大阪府に足を運び、署名や嘆願をしてくださり、やっとのことで入学の許可を与えてくださったのです。
それで日本の大学進学への道も開け、今の私があるわけです。

昨今難民問題が国際間の大きな政治問題として持ち上がり人道上の問題としてクローズアップされていますが、
当時の時勢では難民という言葉はありませんでした。

当時は外国人に対してはYESかNOという短絡的な言葉で処理する傾向であり社会の全般的風潮もそうでありました。
行政機関は勿論のこと一般の日本人の皆さんも朝鮮人を始め第三国人とい われるアジアの国々の人には切り捨て的な生活感覚でありました。 
それから比べますと今は大きく進歩し理解が深まったと思います。

だからといって当時は日本人皆が排他的であり、弱いもの、異質のものに対する理解と寛容がなかったかといえばそうではありません。
境遇に恵まれず貧乏な私を支援してくださったのは多くの日本の皆さんです。

その中の一人が大学時の学友のお母さんでありました。
そのお父さんは戦時中、朝鮮で先生をしておられ引き上げ後まもなくして亡くなられたようです。 
そういうこともあって私の3年間の学費の支援をしてくださいました。

残念なことにその友人は12年ほど前に難病の膠原病で亡くなりました。
お通夜の時私の手を握り主人や子供の分まで長生きして韓国や日本のために尽くし てくださいといわれました。

そこには国という隔たりは微塵もなく人への愛情と信頼があるのみです。 
私はその美しい人間愛と信頼がこの国をまたこの地球を美しくする根元だと思います。
多少理屈ぽっくなりましたが当時お世話になった方々への感謝の気持ちは、到底口では言い表せません。
逆に、あのとき皆さんのお力添えと親切で尊いお気持ちがなかったらと思うと、今でも冷や汗が流れるほどです。

その後も私は多くの方の善意と愛の鞭で今日まで豊かにそして幸せに生きています。 
ここで愛の鞭と申上げているのは厳しいすぎる経験も勿論沢山ありまし た。

そうした場面や無茶な相手からもなにかをを学び取ったという思いが強いからです。
どんな事でもそれらを自分を高めるための糧にし、プラス方向に転じさせたという意味からです。

ここで高校時代の校長先生の教えを申し上げたいと思います。
当時昭和25年、日本には朝鮮学校閉鎖令で朝鮮学校は皆無くなるか各種学校になり、
日本全国で教育法に基づく正規の学校は大阪の建国中高校しかありませんでした。

その学校のみが私の韓国での学歴を認め入学試験を受けさせてくれた唯一の学校です。
この学校は祖国に寄与する人材育成のためにと韓国系の実業家らの集まりである白頭同志会が設立者となり初代校長に李慶泰先生を迎えました。
こ の校長先生の教えを私は生涯座右の銘として来たような気がします。 
その教えとはもっと「広い視野に立って物事を見渡しなさい。」という教えでありまし た。

ある時日本人の学生らに理不尽なことで暴行され、高校の友人らと仕返しの準備をしている所を発覚され厳しく注意されたことがあり、
先の言葉を言われた次 第です。「日本人は嫌いです」という反抗する言葉に、ごく一部の心無い日本人に接したからといって
日本人全部を決め付ける姑息な考えをするな。人間は国を 越えて協力し助け合うものだ。
  その考えと行動の下で和合が生まれる。お互い尊重し協力し合うことが大事なことだ。
私らの民族に足りないのがあるとすればそれは和合の思想だ。その結果祖国分断ではないか。

その時は十分その意味が理解できませんでした。 しかし時間が経つに連れ校長先生の言葉が身に染みるようになりました。
人の善意を信じ、広い視野に立って多面的にものことを把握し判断することの大切さをその時教わった気がします。