『在日徒然抄』 (4) 鄭 煥麒 名誉顧問
   
ざいにちつれづれしょう
在日徒然抄
河出書房新社
初版発行
2002年 10月10日
寺ネズミとドブネズミ

ネズミも裕福な寺の天井に生まれたものもいれば、下水管に生まれたネズミもいる。

お寺は、お釈迦様や仏様を信奉する多くの信者が、事業繁栄・無病息災・家内安全のためのお祈りや、
願望達成のお礼参りにくる時、山海の珍味「お供え物」をたくさん持ってくる。 寺ネズミは、このお供え物のおすそわけにあずかり、広い天井裏に住む結構な身分である。

それにひきかえ、ドブネズミは惨めなもの。下水管のなかで、汚水に責められ残飯探しに血眼である。

このように、裕福な寺に生まれた干支の「子年」の星の人は幸運で、同じ「子年」でも
下水管に生まれた「パルチャ」の星の人は不運である。

ドブネズミが寺ネズミを羨んだり、自分の不幸を嘆いても運命が好転するわけではない。

邪心を起こして供え物を盗んだら、行き着くところ「ネズミ捕り」のなかに入るのがおちである。
同じ「戌年」生まれでも、番犬は粗食に甘んじて、玄関や庭先で年中神経をつかい生涯を終える。
しかし、愛玩犬は座敷で据え膳、毎日ご馳走にありつき、優雅な生活を送ることができる。

動物社会はさておき、人間社会ではどうだろうか。
昔、双子の兄弟がいた。一人は宰相に、一人は人を安全に運ぶ船頭になったが、それぞれの職務を通じて、
社会的義務を果たしていた。

しかし、二人の社会的地位には大きな差が生じている。これも「パルチャ」である。

世の中は、真面目に努力した人が100パーセント報われるとは限らない。同じ努力をしても、運のある人は実が成る。
不幸な人は実が成らず、修身の教科書どおりにはいかない理不尽な面がある。

どんな不幸に遭遇しても、これに打ち勝つため努力を積み重ね、自らの運命は自らが開拓してゆく
強い意志、姿勢をもって社会生活に励むことである。我々は「パルチャ」を社会活動の一応の目安と考え、
子孫が寺ネズミの幸運な星の下に生まれてくるように社会のために「徳」を積むことである。

私と昵懇の間柄であるR氏は社会的信望が厚い。

氏は「私はなぜか、努力のわりに金運に恵まれない。その理由は、私のもって生まれた「パルチャ」であると思う。
人一倍働いてもお金には縁がない。掌で水をすくうと指の間から漏れるようにお金がこぼれる。
「精一杯働け」という「パルチャ」の下に生まれた。だから今日まで、誠実に働いたおかげで、
三人の子供をなんとか大学を卒業させることができた。

私は前世から与えられた勤勉励行という「パルチャ」に満足している。勤勉に働くという
私に与えられた「パルチャ」も楽しかったし、努力した甲斐もあって人知れぬ精神的な喜びもあった」と明快に結論を出す。
 (人生についてから)