幼い頃の思い出・・・・・ 大久保 舜司

大田小学校高等科1年(1936年)の中途まで暮らした片田舎の子供時代は、
私にとってはかけがえのない楽しい思い出が多く、伸び伸びと育った実に佳き時期であった。

生まれた(1923年)処がこの地であり、大田府郊外(旧忠清南道大徳郡外南西弘道里)で小学校から北へ6km位に位置していた。
父母が大正年間の中期(1918年頃と思う)にアイチケン豊田市の郊外(西加茂郡高橋村大字岩滝)の農村から渡韓して、この地に移り住んだのである。
家は、前面を除いて三方が常緑樹や果樹で取り囲まれ、東側に広い畑のある農家であった。
20戸ばかりの集落の中の一角に構え、前方は一面田んぼ、裏は100m位で小高い山となっていた。
西南の方向役200m前方に京釜本線が走り、またはるか南方に湖南線が走っており、眺めの佳い高台にあった。

記憶に残っているのは、先ず魚捕りであった。東の方約500m位はなれた処に大池があり、
そこからの水が流れる川幅5・60cmの小川で、鮒・はえ・どじょう・砂もぐり等がおり、それを捕るのが一番の楽しみであった。
特に雨が降った後の日は、鮒が多く捕れ、休日にはすくう竹籠や小さなバケツを持って飛ぶようにして小川に行ったものである。
収穫は10匹前後であるが、魚が籠に入った瞬間の感触がなんともいえないものである。

山の幸にも恵まれ、茸狩り、ドングリや栗拾いである。存外初茸が多く、秋には勇んで茸山に出かけたものであった。
毎年出るところは決まっており、転々と出ていて淡紅色の傘で小さいが発見した時は嬉しいものである。
収穫もまあまあであるが、それが母の手によって味付けされて家族と共に食べるのもひとつの楽しみであった。

ドングリは、トチの実の一種で沢山採れ、形は一寸球形に似ているが、上が河童の頭の皿状で、下は先が少しとがっている。
中心に穴を開けてマッチ棒を挿し込んで作るコマはよく廻り子供同士で時間を競って遊んだものだった。

落ち葉拾いも楽しみの一つで、秋には暇を見ては栗山に足を運び、落ちている栗のトゲを堅木の棒で取り除いて実を採り出すのである。
その数は多くないが、中の実を生のまま味わったものであった。 
昆虫も多く、トンボ・蝶・蝉・キリギリスバッタ等夏休みは、よく捕虫網を持って山野を駆け巡ったものだった。

片田舎の奥の方は小高い山々が連なり、人家もまばらで縫うように走っている路を自転車で遠乗りする。
現在で言うサイクリングを時折行ったものだった。初めての行程は、こわごわと多少冒険心も手伝って、
2人か3人で澄み切った空気を吸いながらスリルを味わったものだった。

通学距離が相当あったので往復は本当に苦痛であったが、田園地帯を通るときは、町並みと違いいろいろのことを体験したものだった。
桑畑があってあの赤柴の実の味は、格別なもので口の中を赤紫に染めて帰宅したものだった。
閑な風景の中を小路や畦路を通りながら昆虫や魚等を発見、捕らえるなどして帰宅したときもあった。
屋敷回りの果樹は、親が丹精込めて育てた柿・桃・ユスラ・スモモ・グミなどあり、それぞれ違った酸味や甘味を満足して味わったものであった。
また、畑では夏季に西瓜・マクワ等が作られて、暫く井戸の中で冷やされた西瓜の味は格別で忘れられない思い出である。

ほかにも冬の田んぼでスケートを楽しむ等体験することができた。
以上でまた、小学4年生(1933年)の頃までランプ生活をした片田舎で、深い両親の愛情と周囲の純朴な暖かい人情に支えられながら育った。
振り返ってみると私は、幸せな思い出の多い幼き時代であったと思う。