望郷の韓国大田(テジョン)・・・・・ 大久保 舜司

私の戸籍謄本の冒頭には、昭和4年8月25日、韓国忠清南道大田府本町2丁目142番地にて出生。と記されています。

物心ついて小学校の5年生位になる迄、自分の居住して居る所が異国の地であると思った事は、一度もありませんでした。
確かに市場に行くと白いチマ・チョゴリの婦人が声高に物を売っていたし、夏になると大きな木の日陰に、藤の型枠を体にはめてその上から上衣を羽衣った
老人達が長いアゴひげに長いキセルを持って涼を取る姿を何時も見ていました。
然しそれは私が生まれた時から見聞きしていた風景であって、
日本と云う国の中に韓国人と云う変わった言葉を使う人がいると云う位の感覚でしか無かった。

それが旧制中学校に入る頃になって日本が支那事変の長期化、太平洋戦争への突入と云った歴史上の、大きな波がうねるようになってからか、
自分が大きくなったからなのか良く分らないが、私達日本人学生が韓国人学校の生徒から、悪口、待ち伏せ、暴行、などを受けるようになった。 
それは子供のケンかであって日本のどこにでもある他校生徒との対抗意識から生じたものに過ぎないのだが
彼等は日本人を見ると「イノムチヤシギ」と指さして叫び左の親指と人差し指で作った輪っぱの中に、右手の握りこぶしを突っ込むしぐさをして、
嘲笑するのです。
親に聞くと「あれは日本人には節操が無いと云ういわれのない悪口だから相手にしてはいけない」と言われてしまいました。
その頃から韓国人の存在を意識するようになったと思います。
冬になると日本人の家でもオンドルを1室持って居間にしている家が多く私の家も例外ではありませんでした。燃料は当時薪で杉を除く松と雑木でした。 この薪の太物を一冬分買い込んでおく と、時々韓国人の老人が燃やし易いように賃割りに来てくれて1日中薪を割って僅かな賃金を得ているようでした。

いつも深型でデコボコになったアルミの辨当箱を持って来て昼になると玄関の土間で食べていました。
或る日私が物珍しくて食事の様子を見ていたら、中味は御飯ではなく茶色の豆腐状のものでした。
「おじいさん、それは何?」と聞くと"どんぐり"で作った豆腐だと教えてくれました。
「食べてみるかい」と言って1サジすくってくれたので食べてみましたが、味も素っ気も無く美味しいとは言えませんでした。
そのおじいさんがたどたどしい日本語で次のような事を話してくれた事を覚えています。
「500年位前、この国が中国の元(クビライのモンゴル)に降って属国になってから、元が日本を攻める(元冠)為の何千と云う船、何萬と言う弓矢を
 作る事を朝鮮に命じて作らされて、その時山の木をすべて切ってしまったので韓国の山は皆ハゲ山になって木が失くなったのだよ。
 だから今はシベリヤから切って来るので値段が高いから、儂等の薪割り賃は安くなるばかりで飯が食えないんだよ。
 今 の中国は、荘介石だが日本軍が勝って仇を取ってくれると嬉しいんだがなあ・・・さあもうひとふんばりやろか」と立ち上がりました。

後年井上靖の"風涛"と云う作品の中に此の事が出ておりまして感銘を受けました。
母が帰って来て小銭を渡すと「コマブスミダ此の子は良い子だ」とお世辞を言って帰りました。
他に洗濯おばさんが毎日か1日おき位に来ていました。
各人縄張りがあるようで毎朝同じ女性が「洗濯無いですか」と注文を取りにきます。
あると頼むのですが「韓国式ですか?日本式ですか?」と聞いていました。<

それはキヌタ(棒でたたく)か、洗濯板を使うのかと云う問い聞きのようでした。私の母は物によって韓国式、日本式と分けて頼んでいるようでした。

当時父は南鮮合同電機株式会社(日本の電力会社)大田支店の経理課長、母は大田本町小学校の教員でした。
父方は代々官吏で誇り高く、母方は菓子商で庶民的でありました。 
母は子供の頃有名な3月(サム)1日(イル)独立運動の弾圧を閉め切った戸のスキ間から見たと後年話しており、日本の軍隊は悪いと言っていました。
この母は敗戦後、広島県三次市に引揚げて教師になるようすすめられていましたが、
 「私は長年生徒にウソばかり教えて来ましたし、私もその様な教育しか受けていないのでお断りします」と拒んで闇屋をしていました。
 教え子に浜口雄幸を暗殺した佐郷屋(サゴヤ)留男(トメオ)と云う人があった事も教師を嫌った一因だったかと思っていますが
韓国の土になれなかった事が、この母にとって一番残念だったに違いありません。

晩年訪韓の機会が多々ありましたが絶対に行こうとはしませんでした。
一度「私は日本にも韓国にもだまされた」と言ったのを聞いたことがあります。日韓のはざまで悩やんだ戦後だったのだろうと思います
父は病身で敗戦後引揚失職で、心身共におとろえていました。
電力会社の重役であった竹内さんと云う方の息子さんが阪大天体物理学の教授となり奥様に京都の任天堂の社長の娘さんを迎えられたのですが、
当時任天堂は全国シェア第1位の花札メーカーでこの重役のツテで花札の販売部門に入社する様すすめられたらしいが、
父は「バクチ用品を売るのは嫌だ、自分にはとても出来ないと異常なケッペキさで断ってしまった。
その後任天堂はメカトロニクス玩具のトップを走ることになり惜しい事だったと思います。

さて話を大田時代に戻して忘れ得ない級友の1人、金(キム)基昇(キセン)君の事を書いてみたい。
彼は忠清北道永同邑出身で出自は金海金氏で父親は三省医院の医師であった。
金海金氏の祖先は日本人だと言われたりでおり一家挙げて親日派でした。
 同君には兄が2人居り長男は日本の陸空航空士官学校を出て戦后の韓国空軍パイロットとなったが、動乱で戦死された。
次男は旧制中学を出て私の父の会社に就職して父の給仕となった。

三男坊の金基昇君は小学校の時から神童と言われる程の秀才で日本人学校へ入れるため父が私の家に預って大田本町小学校へ入れ、
私と一緒に大田中学へ入学した。他にも10人位韓国人が入学したが常にトップに名を連らねれ日本人学生は顔色なく、
教師からは"韓国人に負けるとは何事だ"と制裁を受ける日々でありました。

当時韓国人は創氏改名をすすめられ、金基昇君は金原信夫君となった。
後に韓国銀行總裁になった金(キム) 建(ゴン)君は金(キム) 建(ケン)君と称した。
さてこの金基昇君は私達が大田を出発して引揚げの途についた日をどのようにして知ったか分らないが引揚の貨物列車が永同駅に到着した時、
「大久保舜司さーん、大久保さーん」と呼ぶ声と共に大きなリンゴ箱を一箱かついで乗り込んで来て夜行で釜山迄見送りに来てくれた。

その彼が朝鮮動乱と共に音信不通となっていたが停戦となったあと私が彼の本籍永同に宛てて送った手紙が父親の手に届いた様子で
半年を経過したあと、"きのうこそ 早苗取りしか いつしかに 稲葉そよぎて秋風ぞ吹く" 月日の経過ははやいものですね。
今 あなたの手紙をなつかしく受け取りました。と云う書き出しの名文で流調な返事を頂き彼が軍医として北鮮平壌で重傷を負い乍ら生き長らえて
今ソウルに居ると言う事が分り、以後が彼がマレーシア、アメリカ等の病院の医師として転々とした10年間を除いて
訪問したり来ていただいたりの交友が続いておりました。

その帰国して慶尚北道店村市の聞慶病院長をしていたが心筋梗塞で倒れ一命は取り止めたが
医師をやめ今はソウルで平壌出身の奥様と隠居中であります。
月に1回は便りがありソウルや韓国の様々な様子を間のあたりに知る事が出来ます。

もう1人忘れる事の出来ない級友は南容述君です。
彼の家と私の家は京釜線の線路をはさんで私の家が東に、彼の家は西に位置していて大きな米屋さんでした。
戦後全く音信が無く消息も不明でした。ところが1979年の夏"僕韓国の南です。
分りますか?"と云う電話が突然かかって来て驚きました。
今三重県の四日市市に来て居るとの事でした。
私はすぐ車で四日市市に向い3時間後に彼と再会する事が出来ました。私の家にも来てもらい夜を徹して語り合いました。

彼は商船大学を出て大韓航空の船舶部に入り、ベトナム戦争の戦後処理即ち廃棄された武器(戦車、大砲飛行機)の無償取得権を得て
船舶を使って八幡製鉄に運び、会社に大きな利益をもたらして船舶部長になり、今、四日市造船にタンカー4隻を注文して
その完成検査後進水式の準備に来日して居るとの事でした。

私は彼の在日中に名古屋で大田中学26期生の同窓会をやる事を決心し、
当時名駅前にあった旅館香取で第1回とも云う可き同窓会を36人の参加で盛大にやる事が出来ました。
そこで南君の語る同窓への想い、朝鮮動乱、ベトナム戦争と云う2つの南北の争いの想像を絶する悲惨さは聞く者の心に大きな感銘を与えました。
以後私達は、毎年全国各地で同窓会をやり今年は10月福岡での同窓会は25回目となりました。
そして何時も皆が言う事は「俺達は故郷の無い放浪の民だろうか」と云う事です。
然し私はいつも彼らに「いや俺達には大田と云う立派な故郷があり、今も山や川は昔のままに私達を迎えてくれる」と云います。
事実大田の人達は私達日本人が放置して来た墓地も動乱の激戦に荒れたあときちんと整備して
共同墓地とし日本人塚として大田市の政令として毎年奉って頂いて居りました。

此の事を知って私達は、有志をつのり仏前への供物を集めました。
ところ50萬円も集まりこれを持って大田市へお詫びと御礼そして墓参に行った事でした。
この様に立派な韓国人の居る私達の故郷大田は私達が生きている限り私の故郷(ふるさと)であります。
この故郷の名山宝文山へ登った時、同窓の中川幹夫が「この山は辻さんの持ち山だったが惜しい事をしたもんだなあ」
と感慨(かんがい)深げに言って居りました。

彼の父親がその辻さんと云う方の経営する冨士忠醤油店に勤めていて彼はその社宅に住んでいた。
この辻さん事、辻萬太郎氏は大田開拓の祖とも言う可き方で滋賀県出身のいわゆる所謂近江商人で大成し、
一方では教養高い文化人として、大田市民知らぬ人とて無く高い尊敬を受けていた。
その御子息が名鉄役員として江南と云う近い所に住んで居られている事を知り驚きました。

私の家の近くに宮本さんと云う辻さん専属の桶屋さんがあって、ここに大変美しい娘さんが居られて確かテル子さんと云う方だったと思いますが、
毎日学校の帰り桶造りを見る振りをして、娘さんの顔を見るのが楽しみでした。

さて横道にそれましたが、此の辻萬太郎氏と私の親戚(しんせき)で堀江清三と云う方が
戦後の大田混乱をまとめ、日韓人との間も平穏に1人の犠牲者も出さずに最後迄踏み留まって日本人を帰国させた功績は大きいと思います。
その様な人格者でした。

又電気会社社宅の塀(へい)に"日本人皆殺し"などと云うビラも貼られ一部不穏な動きもあって私共は外出を控えていましたが、
今、日韓市民ネットワーク名古屋の会員で私と同窓の中井康雄君は当時やん茶で無鉄砲に遊び歩いていて、
韓国人の同級生の朴英圭君と出会い、「お前1人歩きはやばいぞ。俺が守ってやるから外出する時には電話しろ」とたしなめられたと
後年中井君が話していました。

この朴英圭君は、当時木村英圭と名乗って大田一の喧嘩大将として自他共に認められる程の豪傑(ごうけつ)でした。
 喧嘩はめっぽう強く、得意は韓国式頭突きで額の上方に鍛錬(たんれん)で出来た固いコブを持って居り、
喧嘩の時は殆んど水平に飛んで相手のアゴに頭突きを喰わせ殆んど一撃で倒すのが得意でした。
人柄も良く当時父親はハーレーダビットソンと云うアメリカの高級オートバイを乗り廻して居られたので相当な金持ちであったと思われます。

今はタクシー会社の社長、韓国運輸連合会会長、元大田高校同窓会長等大変な成功者ですが、
時々電話で「キムチまだあるか」と言っては年に3回位、美味万点のキムチを送ってくれます。
まだまだ書き盡ないところですがこの辺で一応おひらきとさせて頂きます。(終)