懐かしの大邱、想い出の人々・・・・・ 水崎弘三(岐阜市、1935年生)

私は昭和10年(1935年)、今の韓国、大邱(テグ)市で生まれました。
祖父は大邱に巨大な農業用貯水池(寿城池)を築いて、荒野を美田に変えた水崎林太郎(岐阜出身)、
父はその長男で篤農家といわれた元(はじめ)でした。
父は広大な水崎農園を経営し、花や野菜、リンゴの栽培から米作り、麦作りまで手を広げていました。

元の三男坊に生まれた私は、広々とした自然の中で自由に遊びまわり、伸び伸びと育っていきました。
幼い頃の暮らしを想い出してみようと目をつむるといつも瞼の裏いっぱいに色とりどりの花の群落が浮んできます。
目にも鮮やかなチューリップの赤や白、香り高く揺れるのは黄色や紫の大輪の菊、花に囲まれた
本当に楽しい日々でした。
耳の中には、花畑でいつも一緒に遊んでいた弟の五美(いつみ)の笑い声がかすかに甦ってきます。
後から聞いた話ですが、当時、水崎農園で栽培された生花は韓国内だけでなく、
遠く満洲の(今の中国東北部)にまで送られていたそうです。
今から65年も昔に、多彩かつ大量の花の栽培に成功していた父の努力を思うと、我ながら自然に頭が下がってきます。

さ て花をはじめ、リンゴや米まで作っている水崎農場ですから、
韓国の農民の人たちが(農作業を手伝うために)、たくさん通ってきていました。
街で花屋を営んでいる韓国人の花屋さんたちも毎日、花の買い付けにやってきます。
みんな顔なじみですから顔を合わせると「おはよう!」とか「そこに鎌があるから気を付けて!」とか
声をかけてくれるのでした。

祖父が骨身を削る思いで造り上げた寿城池(6万坪の広い池でした)は
我が家から南へ500mほど離れた所にありました。

祖父の林太郎は、その池の辺りに治水事務所を建て、そこで寝泊りしていました。

よほど寿城池や周囲の水田の管理に神経を使っていたのでしょう。
滅多に息子や孫の住む家に顔を見せることはありませんでした。 
そのせいか、小さかった私は当然にしても、2人の兄たちまで
「林太郎おじいさんの顔は、よく思い出せない!白い髭だけは覚えているんだが…」という有様です。
家人とは余り接触なく暮らしていた祖父は、逆に、韓国の人たちと濃密なつきあいをしていたようです。
特に寿城地区で1、2を争う大地主だった徐寿仁(ソ・スイン:1987年生)さんとは
寿城池や水田を力を協せて造った終生の友として、交際していたと聞きました。

この徐寿仁さんの三男にあたる方が、今も林太郎の墓を守り続けておられる徐彰教(ソ・チャンギョ:1932年生)さんで、
ロータリーの会長や韓日親善交流会の会長を歴任されている方です。

林太郎(1868年生)は、自分より20才近く若い徐寿仁さんと兄弟のように親しく交わり、
何くれとなく相談しながら寿城池を完成させ、さらにその水で荒野を250万坪をこえる一望の美田に変えました。

林太郎は満々と水を湛えた寿城池の堤に柳の苗木を植えました。
きっとこの柳も徐寿仁さんと語り合いながら植えていったのでしょう。

当時の柳の木は殆ど枯れてしまいましたが、2本だけは巨大な姿を湖面に写し、
林太郎と徐寿仁さんそして周辺の農民たちの夢を今に伝えています。

さて、私は敗戦で日本に引き揚げる前の4年間は、町の中心部にある鳳山小学校に通いました。
今の大邱の地図で鳳山文化通りとあるあたりでした。

小学校の隣には師範学校もあり、大邱の教育の中心地といえたでしょう。
我が家から学校までは何と5キロもあり、
小柄な小学生には大変遠い道のりだったはずですが、全く苦しいと思った記憶はありませんでした。
兄や弟も一緒ですし、通学路の左右にはリンゴの白い花が美しく咲き乱れているのです。
日本の信州のリンゴ畑の風景を思い起して下さい。

爽やかな風が吹き抜ける中、友だちの農園で貰ったリンゴをがりりと噛んだあの味、
あの感触、懐かしさがこみ上げてきます。

ある年の夏のことです。母が私と弟の五美(いつみ)を大邱の夜祭りに連れて行ってくれました。
街に着くとランプを灯した屋台が並び、黄色や赤いシロップをかけた氷やワタあめを売っていました。
子ども達が線香花火や金魚すくいをしながら大声を上げています。
水で冷やした美味しそうなスイカを売っていたので、一部分を切り取ってもらい味見をしました。
甘く熟した赤いスイカでした。さっそく残りを丸ごと買って皆で食べましたが、母の笑顔とあの味は忘れられません。

あの夜、遊び疲れた私たちはリヤカーに乗せられ家に帰ってきましたが、
寿城池の上から見上げた明るく輝く月の姿もしっかり記憶に残っています。
あの時、リヤカーの上から一緒に月を見上げた弟の五美(いつみ)は、残念なことに2003年に亡くなってしまいました。

冬の楽しみは正月を前に、家で働いている人達、全員が集って盛大に行う餅つきでした。
男衆は老いも若きも参加して交代で餅をつきます。
一方女性は振り下される杵の間の僅かな時間に餅をみごとに裏返します。
いつまで見ていても倦きませんでした。
つき上がった柔らかい餅には、小豆のアンコや黄粉などをまぶして皆で食べるのですが、
その瞬間には、皆が皆、一人残らず幸せそのものといった表情になりました。

この日は、座敷一面に、あんころ餅、豆餅、それに朝鮮餅(トック)等々、たくさんつき並べ、
それを最後に皆で分けあって持ち帰ってもらいました。
そして、いつしか運命の年、昭和20年(1945年)の8月がやってきました。
私は或る日、急に親たちに呼ばれて姉の千恵も一緒に
寿城池のほとりにある祖父、林太郎の墓参りに行くことになりました。
寿城池までの道の両側には一望の水田が広がり穏やかな雰囲気が漂っていました。
改めて見た林太郎の墓は、見慣れた日本風の墓石ではなく韓国風の土を丸く盛り上げた形をしていました。
私は親に言われるまま夏草の茂った祖父の墓に手を合わせて頭を下げました。

ずっと後になって、その日が8月15日で日本の敗戦が決った日だったことを教えられました。
それから、しばらく一家が日本に引き揚げる日まで、
農園で働いていた韓国の人たちが交代で家を守りに来てくれました。
街の中では嘘か本当か分かりませんでしたが、焼き打ちにあった家も出たという噂が流れていたからです。

まもなく私たちは、大邱から日本に無事に引き揚げてきました。
祖父水崎林太郎が夢の実現のために大陸に渡ってから30年の歳月が経っていました。
岐阜に帰ってきた父は開拓への夢を捨てませんでした。
各務原飛行場の東に広がっていた旧日本軍の演習地が開拓地として払い下げられたため、
各務原の三ツ池地区に入植し、ゼロから再スタートしたのです。

兄や姉たちも手のひらに豆をつくりながら、原野に開墾の鍬を振るいました。
私と弟は、まだ小学生だったので岐阜市内の新関の家に厄介になっていましたが、
土曜の午後から日曜日にかけては三ツ池に行き、子どもながらも開墾の手伝いをしました。

やがて父は汗にまみれて開いた農場で再び花の栽培を手がけ始めます。
そして、ようやく経営が安定してきた昭和20年代の終わりころだったと思います。
父が大邱から持ち帰って来た写真帳を口数少なく見せてくれました。
父の自慢の花畑の中ではしゃぎ廻っている私と五美の写真が目につきました。

あの広大な農園を全て捨て、無一物で引き揚げてきた父に とって、
写真の風景が豊かで幸せそうであればあるほど、見るのが辛かったことでしょう。
そのあとになっても両親共に、大邱の時代のことを多く語らぬまま、世を去って行きました。

その後、私は大学のゼミの先生の紹介で、静岡の会社に就職し、18年間サラリーマン生活を順調に重ねました。
ところが出版会社の社長だった義父が突然に死去し、後を継いだ義兄を手伝う事になり、岐阜に帰りました。
いらい、65才までこつこつと勤め上げたあと、悠々自適の生活に入りました。

今は大陸に夢をはせた祖父や父、そして彼らと共に現地の農業の発展に尽した人たちの事蹟を
少しでも残したいと資料の整理に追われています。
そして私の命のある限り、祖父や父の思い出がこもった大邱市寿城地区に通い続けたいと念願しています。