大田府本町時代の思い出・・・・・ 池田健三

片田舎から大田府本町に住まいを移しましたのは、大田尋常高等小学校高等科1年生(1936年)の中途でした。
引っ越した先が賑やかな町の中心地で、暫くは勝手が違い戸惑いました。
朝鮮鉄道の京釜本線の要衝また、湖南本線の分岐点の大田駅から歩いて15分程の処にありました。

駅から南側に位置し、鉄道官舎の中を通り抜けるか、または商店のひしめく本町通りを歩いて辿りつくのでした。
広い駅前広場から真直ぐ東西に広い道幅の春日町通りの突き当たりが、忠清南道の道庁の高大な建物がありました。
本町と春日町の両方の炉落ちにはいろいろな商店が連なり、銀行・郵便局等もありました。小学校や寺や映画館等が西側2条目・3条目以降等にあり、
また、大田川を挟んで東側・西側と町は二分されておりました。

公立大田中学校・公立大田高等女学校・大田神社・道庁も西側にありました。
公立大田小学校は、自宅から7・8分の近い処にあり、大興橋の袂で大田川の土堤の東に位置しておりました。
また、大田中学校は大興橋を渡り、一本道を西に宝文山麓(ふもと)にあり、自宅から歩いて20分位の処にありました。

小学校の高等科1年生の時は、担任教師が情熱的に指導され、上級学校進学を頻りに奨められました。
担任の自宅が小学校のすぐ北側にあり、秋から冬にかけて進学のための夜学に数回通いました。 
お陰で中学校の入学試験に受験生が殆ど合格いたしました。私が1年遅れて中学校に入学しましたのは1937年でした。

入学式終了後、指導を受けました高等科1年担任教師の計らいで大田神社前で、同伴の父兄と主に入学の記念写真を撮ったものでした。
当時が戦時色が少しずつ色濃くなってきた時代でありました。
私たち1年生のときから登下校時は背嚢に針金入りの丸帽子、足には脚絆(ゲートル)巻きに編上げ靴に変わりました。
 
大田中学校の施設・設備は、当時としては誠に充実しておりました。
鉄筋コンクリートの後者2棟に私たちの入学から1学級増に伴い後者が1棟増築(木造)され、
後講堂・柔道棟・剣道場棟・銃器庫・広い校庭(グランド)それに寄宿舎等もありました。

校舎の中の物理準備室・生物標本室・図書室等内容が充実していたように思われました。
また、校庭には鉄棒(高低とも)・砂場もあり、テニスコートも寄宿舎の西側に施設されておりました。
それから夏の海水浴場には、臨海宿舎まであり、全体設備されて、恵まれた環境でした。

授業では、何と言っても週4時間の教練は頭痛の種で辛い授業でした。 
配属将校は陸軍士官学校出身の佐官(陸軍少佐)であり、それを補助する隈部先生(通称万特)で厳しく緊張して受けたものでした。 
着剣すれば私たちの背より高かった三八式歩兵銃を担って校庭のほか、大田神社裏の山地で鍛えられた野外教練もありました。

毎年1月7日前後から厳しい寒中、朝早く柔剣道に1週間程度寒稽古に通ったのも辛い行事の一つでした。
整った設備の鉄棒で体育の時間に蹴上がりを練習して苦労して覚えたものでした。  
冬季の体育の授業で校外に出て西側にある大池に行き、スケートを習わされたものでした。
剣道場が寄宿舎の南側に教室から相当離れた処にあり、剣道場に入るなり剣道教師の威勢のよい「遅い遅い」の連発に耳に胼胝(たこ)ができたものでした。

1年生のときに印象に残る行事としては、1泊2日の鶏竜山(高さ500m位かと思う)登山でした。
初日は静かな深山幽谷の寺で1泊しました。一晩中付近の梟ともこのはずくとも言われた鳴き声で悩まされました。
翌日の山登りは雨に打たれ、視界も悪くびっしょり濡れてほうほうの態で駅に辿りつき、そこで焚き火を囲み漸く生き返った心地がしました。
これも1年生のとき、軍人遺家族の家の田植え、これは全く未経験でぎこちなく何とか植えることができました。

2年生か3年生の時かと覚えておりますが、儒城街道の中途まで行き、飛行場建設の奉仕作業でした。掘り出した土をモッコで運び盛り土をしました。