片田舎から大田府本町に住まいを移しましたのは、大田尋常高等小学校高等科1年生(1936年)の中途でした。
引っ越した先が賑やかな町の中心地で、暫くは勝手が違い戸惑いました。
朝鮮鉄道の京釜本線の要衝また、湖南本線の分岐点の大田駅から歩いて15分程の処にありました。
駅から南側に位置し、鉄道官舎の中を通り抜けるか、または商店のひしめく本町通りを歩いて辿りつくのでした。
広い駅前広場から真直ぐ東西に広い道幅の春日町通りの突き当たりが、忠清南道の道庁の高大な建物がありました。
本町と春日町の両方の炉落ちにはいろいろな商店が連なり、銀行・郵便局等もありました。小学校や寺や映画館等が西側2条目・3条目以降等にあり、
また、大田川を挟んで東側・西側と町は二分されておりました。
公立大田中学校・公立大田高等女学校・大田神社・道庁も西側にありました。
公立大田小学校は、自宅から7・8分の近い処にあり、大興橋の袂で大田川の土堤の東に位置しておりました。
また、大田中学校は大興橋を渡り、一本道を西に宝文山麓(ふもと)にあり、自宅から歩いて20分位の処にありました。
小学校の高等科1年生の時は、担任教師が情熱的に指導され、上級学校進学を頻りに奨められました。
担任の自宅が小学校のすぐ北側にあり、秋から冬にかけて進学のための夜学に数回通いました。
お陰で中学校の入学試験に受験生が殆ど合格いたしました。私が1年遅れて中学校に入学しましたのは1937年でした。
入学式終了後、指導を受けました高等科1年担任教師の計らいで大田神社前で、同伴の父兄と主に入学の記念写真を撮ったものでした。
当時が戦時色が少しずつ色濃くなってきた時代でありました。
私たち1年生のときから登下校時は背嚢に針金入りの丸帽子、足には脚絆(ゲートル)巻きに編上げ靴に変わりました。
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