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76歳の私は、旧朝鮮で生まれ育ちました。今の韓国です。
朝鮮語はわからず、日本人がわの高等女学校を卒業して、朝鮮人がわの小学校の先生になりました。受持は2年生です。
校内で朝鮮語は禁止されていましたので、2年生ですでに、日本語を上手にしゃべるのには驚きました。
先生になって第1日目の昼食の時間になりました。教室ががらんとなり席にいる生徒は3分の1弱。
「みんな戻ってこないわね。もう少し、お弁当を頂くのを待ちましょうね。」
「先生、みんなは弁当を持ってきておりません。」
私はびっくりしました。この頃は世界第2次大戦中で、日本人も麦飯を食べていましたが、
子供に弁当を持たせられない家庭があろうとは、考えられませんでした。
この子たちは何て可哀想に、何故こうなっているのか、朝鮮人の家庭は平均して、このように食糧に困窮していたのか。
教え子がいたから始めて、見えなかったものが見え、朝鮮人の側になり、物を考える心が芽生えました。
休憩時間になると、生徒たちは私に近く寄り添って、先生、先生と話しかけてきました。
教職の4日目には、生徒たちが我が子のように可愛いくなりました。受持の子が校長から叱られると、17歳の私は、すぐにめそめそと泣いてしまいました。
子どもたちが可愛いので、一生先生を続けたいと思うようになりました。
ところが両親は、私が教職に長くいることを心配しはじめました。
私が生意気な理屈を口にするようになったからです。
「文子は結婚したら、この調子で夫を理屈でやっつけるようになりそうだ、今のうちに辞めさせなければ」と。
両親の強い意志の働きかけで、ついに逆らえずに退職に至りました。退職後は心がうつろになり、つまらない、つまらないと思う毎日でした。
つまらなくてやりきれない日々のなかで、世界第2次大戦に敗北した8月15日が訪れました。
私のいた地域は日本の軍隊が駐屯しており、常と変わらぬ静けさでした。
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翌日の8月16日の昼間、私は1人で近所を散歩して いました。
常の日よりも静かな感じでした。途中で壁に掲示してある貼り紙が目にとまりました。
見たことのない解らぬ記号を、沢山書き並べていました。何だろうと好奇心が手伝って近づき、じっと見つめました。
この記号はもしや、この朝鮮の国の文字ではないだろうか。更にじっと見つめました。そうだ、これは此の国の文字に違いない。
この国には、此の国の文字があったのか……。知らなかった……。知らなかった……。
それを知らずに私は、子どもたちに日本語を教えてきて、取り返しのつかない、何て悪い、罪なことをしてきたのか……。
途端に全身から、血が引いてゆのが分かりました。ふらふらっとする足を踏ん張り、心を引き締めてその文字を見つめました。
私も今からこの文字を学びたい、ハングルを学びたいと思ったときには手遅れでした。両親と共に日本へ引き揚げねばならなかったのです。
我が家も引き揚げの準備にかかりました。ある夜、母が私を呼びました。
「文子、来てますよ。」
どなただろうと私が表にでてみますと、かつての教え子たちがきていて、私をぐるりと取り囲みました。
別れを惜しんで、会いにきていたのです。どの子も黙ったままで私の顔をじっと見上げるのみです。綺麗な瞳の子どもたちでした。
朝鮮の文字があったのに、日本語を教えてごめんなさいと謝りたかったのですが、喉の奥で声がとまってしまうのです。
両方とも声の出ない別れでした。
「文子、きてますよ」
これに始まる別れの夜が何日続いたのか、突然わたくしは、両親と共に住み慣れた家を去りました。
教え子たちに告げる時間さえなくて……。そして釜山港から引き揚げ船に乗ったのです。18歳のときでした。
やがて結婚して、短歌を趣味にしていた私は、45歳からハングルを学び、わが国の短歌に類する、コリア固有の定型詩、時調(シジョ)の研究に入りました。秀歌に巡り会うと、無知の罪を覚えました。良心に恥じない本をと、25年かけて『時調四四三首選』(育英出版社)を刊行しました。
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次は『春怨秋思ーコリア漢詩鑑賞』(角川書店)を刊行しました。 未だ新刊書です。
高句麗・新羅・高麗・李朝、1200年にわたるコリア漢詩の世界を、日本で初めて紹介した本だったことは、著者の私の驚きでした。
各王朝の代表的詩人を取り上げ、珠玉の詩扁を鑑賞しながら、作品と詩人への熱い思いを託す、わたくし自詠の短歌をも添えた、詩情溢れる一冊です。
読者のある方からの手紙には、時調の本のときもそうでしたが、無知の罪を覚えると書いてございました。
日韓文化交流の橋渡し『春怨秋思ーコリア漢詩鑑賞』が、
日本の隅々にまで読まれ、韓国を知る、近くて近い日韓の仲になるようにと願っている、落日の私でございます。
○コリアなる詩歌を訳し広むるを引揚者わが道となしきつ
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瀬尾さんの作品 |
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『時調四四三首選』
育英出版社(1997年9月)
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『春怨秋思』
―コリア漢詩鑑賞
角川学芸出版(2003年9月) |
『愛の時調』
コリア恋愛詩集
角川学芸出版(2011年3月) |
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