たくさんの思いを残して亡くなった和枝さんのために勇さんは3つの事を残そうと決意します。
 
  1:和枝さんの記録の刊行
  2:母子像の建立−和枝さんが生前「もう一度子供を抱きしめたあげたかった」という願いを実現する。
  3:和枝さんの思いを生かして福祉に−和枝さんは事故以降お世話になった人への思いから、元気になったら福祉の
    仕事もしたいと願っていた。
 
 1に関しては、和枝さんの日記を基にした「あふれる愛に」(新声社刊)が和枝さんの亡くなった年の5月に刊行されます。この本は10万部を超すベストセラーになりました。
 
 2に関して勇さんは、当初墜落現場そばの公園に建立する事を願い、横浜市に申し入れますが、いろいろな問題により断念します。横浜市はいくつかの場所の提供を提案しますが、最終的に海が見たいと言っていた和枝さんの意思を尊重して、横浜市中区の港の見える丘公園そばのフランス山に建立します。
 建立に際し横浜市はいくつかの条件を出します。その中に「像の由来について説明する碑文を入れてはならない」というものがありました。勇さんはそれでは意味が無いと思い、いろいろ奔走した結果、一言だけの碑文が許される事になりました。
 
 「あふれる愛を子らに」
と刻まれれる事になりました。
 
 この件に関して、当初「あふれる愛をこの子らに」だったが「この」がある特定の子供を指していると連想されるとの意味から、削らされたという情報もあります。
 事故の説明のない「愛の母子像」は和枝さんの3回忌を迎える直前、1985年1月17日フランス山で除幕式が行われました。
 
 3に関しては、私財を投じて1988年3月「社会福祉法人 和枝福祉会」を設立。 同年11月に授産施設を開所。
 
 
 このようにして和枝さんへの3つの約束は果たされました。
 そして勇さんは「花屋さん」という立場だったところから、何かその方面でできる事はないかと、知り合いに頼んで新種のバラ「カズエ」を誕生させます。
 
 さらに農業をしていた頃の畑を改良し、ハーブガーデン「和枝園」を作り上げ、ここに慰霊碑「和枝碑」を建立します。こちらには「愛の母子像」では実現できなかった事故を説明する碑文が入れられました。
 
 
 そして...
 和枝さんが亡くなって24年が過ぎようとしている2006年1月17日、フランス山の「愛の母子像」に事故を説明する碑文が入れられました。建立から21年。勇さんの願いがようやく叶いました。和枝さん、裕一郎くん、康弘くんの名前はありませんが...

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4.土志田勇さんの3つの約束