3月、退院の許可がおりて和枝さんも喜びますが、荏田の新しい家が完成してからという一久さんの希望で、病院にとどまります。
子供の死を知ってから、そして退院の延期など、和枝さんの不安定な気持ちの状態が続きます。
6月19日、退院。
車いすでの生活でしたが、新しい家は車いすでも過ごせる工夫がされていた。しかし子供たちのいない家、道を隔てた公園はかつて子供たちが元気だった頃、一緒に遊んだ思い出がいっぱい。その公園では今もよその子が元気よく遊んでいる。空しさが和枝さんを襲った。
子供さんたちの葬儀は和枝さんが元気になってからという事で延期されていたましたが、二年目にしてようやく執り行われる事になります。しかし、和枝さんは葬儀に出席せず部屋に閉じこもります。葬儀が終わり二人の遺骨が家を出て行く時、和枝さんはカーテンをそっと開け子供たちに別れを告げました。
葬儀の後も空しさが続きますが、一久さん、勇さん、家族の皆に励まされながら、懸命に生きようとする和枝さん。
このころから国の対応窓口である防衛施設局職員との新年会やお花見など交流が深まっていく。
1980年4月、アキレス腱の手術が行われる。
1981年9月、昭和大学藤が丘病院に入院、カニューレを外す手術が行われる。これにより自由に話す事ができるようになる。この時やけどはほぼ完治していたが、車いすでの生活が続いていた。
病院の勧めで、この入院を期に自立して歩けるよう心理療法を取り入れたリハビリを行う事になった。この心理療法は車いすはだめ、家政婦さんは付けない、不満のはけ口であった防衛施設局職員の見舞いは断る、和枝さんに対して一久さんは厳しく、勇さんとリハビリの先生は優しくするという、和枝さんにとってはとてもつらいものだった。
リハビリの成果は上がるが、和枝さんの精神状態は荒れたものになっていく。病室の網戸をナイフで切り刻んだり、待合室でわめいたり。一久さんとの心のすれ違いも続く。
11月9日、和枝さん退院するが青葉台の実家に戻る。
20日、懸命に寄り添って歩んできた一久さんと離婚。土志田姓に戻る。
28日、和枝さん肺炎のため再度昭和大学藤が丘病院に入院するが、病院から勇さんに和枝さんを精神科に転院する事を勧められる。勇さんは仕方なく転院先を探すが、ことごとく断られる。
12月9日、再び呼吸困難に陥り、のどを切開してカニューレを挿入する。
17日、ようやく見つかった転院先、国立武蔵診療所(現、国立精神・神経センター武蔵病院)に転院。精神科だけの病院であり、最初和枝さんは拒絶したが、やがて静かに病院生活をおくり、みるみる元気になっていく。
勇さんは和枝さんが退院したら、アクセサリーのお店を開く事を提案した。和枝さんは喜んで承知した。将来の事を明るく話せるまで回復していた。
そんな時、和枝さんは別れた一久さんに手紙を書く。
「もう一度、あなたとやり直してみたい。離婚も私から言い出したのですから、復縁も私から言わせて下さい。」
手紙を出すように頼まれた勇さんは、もうあきらめるように諭すが、返事が来なかったらあきらめるという和枝さんの気持ちを汲んで手紙を投函した。
返事は来なかった。
1982年1月22日、和枝さんからカニューレが外される。
24日、病院から「和枝さんが苦しがっている」との連絡があったが、勇さんは約束があったため和枝さんのお兄さんが病院に向かう。しかしどうしても気になった勇さんは約束を断り病院へ向かう。病院に着いた勇さんは、苦しがる和枝さんを見て看護婦に再びカニューレを入れてもらうようお願いするが、担当の先生の許可が得られないとの理由で断られてしまう。宿直の先生にも絶対大丈夫ですからと言われ、面会時間も過ぎていたため仕方なく帰宅。家に着く15分ほど前に病院から和枝さん危篤の連絡が入ったことを知らされ再び病院へ。
病院に着いた時、和枝さんの心臓は動いていましたが、呼吸が止まった状態だった。
25日午後3時。回復の見込みが無い事を知らされます。
26日午前1時45分、土志田和枝さん死亡。享年31歳。
勇さんは和枝さんが深く愛した二人の子供と共に同じお墓に入ることが和枝さんの気持ちであろうと考え、林さんと協議した結果、28日に林家で葬儀を行う事になった。
勇さんは横浜防衛施設局を通じてこんなお願いをした。
一つは子供が「はとぽっぽ」を歌いながら亡くなった事、和枝さんが平和を望んでいた事から、出棺の際鳩を飛ばす事。この願いは聞き入れられた。
もう一つは米軍機は弔問飛行に来て、花を投下してほしいと願った。しかし聞き入れられず、当日は飛行を自粛、荏田上空にはいっさいの飛行機は飛ばないという返事が返ってきた。
葬儀当日、荏田上空を3機の民間機、3機の軍用機が飛んだ。
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3.和枝さんの退院