和枝さんも危篤状態が続いたが、何とか命をつなぎ止める。事故から一週間後、家族との会話が許される。和枝さんの最初の一言が子供たちを案ずる言葉であった。子供たちへの強い愛情が生きる意志となっていたと感じた一久さんと勇さんは、子供たちの死を知らせず治療に専念してもらう事を決断。以降1年4か月の間、家族はもちろん、病室に訪れる人、病院の人々たちは協力して和枝さんに子供の死を悟られないようにする。
和枝さんはやけどの痛みに耐えるだけではなく、治療のためのとても苦しい硝酸銀のお風呂に入らなくてはならなかった。その苦痛から「殺して!」と叫ぶ事もあったが、元気になって子供に会える事を励みに必死に耐えた。
11月頃から、ふらふらと立ち上がり歩く練習を始めた。
また、このころから日記を付けるようになる。和枝さんが健康なときは本人が、症状が悪い時は一久さんが代筆した。後にこの日記を基に「あふれる愛に」が出版される。
和枝さんは回復に向かうように見えたが、11月下旬から敗血症を起こし、年の暮れには再び危険な状態に陥る。
年が明けて1978年2月には回復に向かい、和枝さんに皮膚の移植手術が施される事になった。和枝さんには皮膚が無いため体液が流れ出してしまう。そこで健康な人の皮膚を切り取り、和枝さんに移植する。すると体液は流れ出さなくなり、栄養を蓄え自分の力で新しい皮膚を作り出す。役目を終えた他人の皮膚は自然にはがれる。
手始めに一久さんと勇さんの皮膚を移植する事になった。二人の両足からハガキほどの大きさの皮膚を四枚ずつはがし、和枝さんの背中に移植した。
結果が良好だったので、医師は移植手術を続ける事を決断するが、健康な皮膚が足りない。これを聞いた東京新聞が記事にし、皮膚提供者を呼びかける事にした。痛い思いをしてまで、それに跡が残るかもしれないのに皮膚を提供してくれる人がいるなどと、誰もが半信半疑だったが、夕刊に記事が載ったその日だけで187人、他のマスコミからの呼びかけなどもあり、最終的には1500人近い人からの皮膚提供の申し出があった。提供して頂いた皮膚が少しでも和枝さんの皮膚にとどまるよう、和枝さんと同じ型の白血球の人を選ぶ事になり、事前に血液検査が必要となった。申し出者はそれぞれ自腹で昭和大学藤が丘病院に出向き検査を受け、その中から84人に皮膚を提供してもらう事となる。
皮膚を提供された和枝さんはどんどん回復していくが、5月頃から呼吸困難になる。そのため5月下旬、のどを切開して呼吸を助ける「カニューレ」という装置を装着。呼吸は楽になるが以後声を自由に出せなくなり、筆談する事が多くなる。しばらくして、カニューレを押さえながら周りにいる人にきこえるぐらいの声で話せるようになるが。
子供たちは他の病院で頑張って治療を続けているという一久さんの言葉を信じ、自分自身の治療に励み、どんどん快方に向かっていたが、子供たちに会いたい気持ちがどんどん大きくなっていく。子供を連れてきてくれと言っても、まだ治療中だから無理だと言われ、写真を撮ってきてくれと言っても、話をはぐらかされてしまう。せめて子供たちに手紙でもと思い、子供たちの面倒を見ているという家政婦さん宛に子供たちに読んでくださいと手紙を書く。しかしいるはずもない家政婦さんからは何も返事がこない。
その年の暮れ、和枝さんはまだ自由に動かない体で、一久さんと協力して何日も何日もかかり千羽鶴を折る。子供たちの一日も早い完治を願いつつ。そして、サンタの長靴に車のおもちゃやお菓子を詰め、一久さんに千羽鶴とともに子供たちに渡すようお願いする。和枝さんが子供たちにできる精一杯のクリスマス・プレゼント。一久さんはすぐに声を出せなかったが、「うん、渡してくるよ。大喜びだよ。」と言い、病室を出る。プレゼントを抱えた一久さんの頬には涙が止めどもなく流れた。雄一君と康弘くんへの心のこもった贈り物は、二つの小さな遺骨の前に供えられた。
12月31日から翌年(1979年)1月3日まで事故後初の外泊許可が下りる。日記にはとても楽しかったと綴ってある。
そして...
事故から1年4か月たった1979年1月29日、子供たちの死を知らされる。
しばらく泣き続けた和枝さんは「もう一度、この胸に裕ちゃんと康ちゃんをしっかり抱きしめてやりたかった」とつぶやいた。
しばらくは悲しみに暮れる和枝さんでしたが、子供たちの分まで生きるんだという強い意志のもと、さらに治療を続けます。
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2.林和枝さんの懸命な治療