1977年9月27日午後1時20分頃、厚木基地から千葉房総沖で待機していた空母ミッドウェーに向かった米軍の偵察機RF−4Bファントムが離陸直後にエンジンから発火、横浜市緑区荏田町(現、青葉区荏田3丁目)に墜落した。このときのJ.E.ミラー操縦士とD.R.ダービン空中偵察員は墜落前に緊急脱出装置で脱出し、緑区鴨志田町に降り立った。二人はほとんど無傷であったが、約20分後に救出に来た自衛隊のヘリコプターで厚木基地に収容された。
 
 一方、墜落現場は当時造成中であったが公園と数軒の家があり、離陸間もないジェット機にはたくさんの燃料が積んであったため、瞬く間に火の海となった。
 
 近くのアパートに住む椎葉悦子さん(35歳)が大やけどを負った。
 エンジンの一つは林一久さん宅を直撃。中にいた妻の和枝さん(26歳)、長男裕一郎くん(3歳)次男康弘ちゃん(1歳)、妹の早苗さん(26歳)も大やけどを負った。一緒に住んでいた一久さんは会合のため、一久さんのお母さんマツエさんは買い物に出かけていたため難を逃れた。
 
 墜落現場には自衛隊や米軍から何も救助の手がさしのべられなかった。それどころか米軍は事故2時間後には現場入りし、周辺から一般人だけではなく日本の警察や消防を締め出し、証拠のエンジンなどを持ち去るだけの事をした。このときの米兵士たちは、まるで遠足気分のようにはしゃいでいて、中にはVサインをしてカメラに収まる者もいた(この写真はいろいろな本に掲載されています)。
 
 やけどを負った人たちは、近所の造園会社の方や東急建設小黒組の方々に助けられ、和枝さんは昭和医大藤が丘病院に、ほかの4人は青葉台病院に運ばれた。和枝さんにはお父さんの土志田勇さんをはじめ土志田家の人たち、子供たちと早苗さんにはマツエさんをはじめ林家の人たちが付き添った。一久さんは2つの病院を行ったり来たりする事になる。
 
 皆ひどいやけどであったが、裕一郎くん康弘くんは特にひどく、全身包帯に巻かれたうえ、痛さのため暴れてしまうので、手足はベッドに縛り付けられた。重度のやけどでは、全身からどんどん水分が流れ出すため、非常にのどが渇く。裕一郎くんが「お水ちょうだい、ジュースちょうだい」と訴えるが、医者にあげては危険ですと言われあげられない。
 
 28日午後0時40分、裕一郎くんがマツエさんが見守る中「おばあちゃんバイバイ」を最後の言葉に亡くなった。一久さんは和枝さんに付き添っていたが、裕一郎くんが危ないとの連絡を受け青葉台病院に急いで向かうが、間に合わなかった。
 
 一久さんは康弘くんには何とか頑張ってほしいという思いで「はとぽっぽ」を一緒に歌い元気づける事にした。この歌はそのころ一久さんが康弘くんとお風呂に入るときに歌っていて、康弘くんも覚えたばかりだった。
 一久さんに合わせて康弘くんが一緒に歌い始めるが「パパ...ママ...じいちゃん...ばあちゃん」と突然言った。それまで「パパ、ママ」は言えても「じいちゃん、ばあちゃん」は一度も言えなかったそうだ。28日午前4時30分、一久さん、マツエさん、そして駆けつけた勇さんに見守られて、康弘くんも亡くなる。
 
 一久さんの妹早苗さんは28日午前、危篤状態に陥る。そのころようやく見舞いに来た防衛庁長官に一久さんが「二人の子供を殺したうえ、早苗まで殺したら承知しない」と施設の整った病院に移す事を要求。聞き入れられ、病状の安定している椎葉悦子さんを残し、早苗さんは自衛隊病院に転院して治療を受ける事になる。
 
 厚木基地の司令官も見舞いに来たが、被害者の家族に会う事を拒否されている。
 とにかく米軍と国の対応はお粗末である。厚木基地を管理する防衛庁(当時)の下部組織、横浜防衛施設局の職員が事故当日から病院に来ていたが、被害家族へのあいさつ、謝罪など無く、そのうえ何の手助けもしなかったのである。事故の二日後に勇さんが緑区の職員に横浜防衛施設局の職員が病院に来ている事を知らされて、初めて分かった事である。
 このあと、横浜防衛施設局が国の対応窓口となる。

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1.米軍機墜落事故の概略