○月●日 天気 快晴 乾燥ぎみ
以前、ある絵描きさんのイラストを「デッサン力が足りない」と評したところえらく不興を買った事がある。その人とはあまり親しくはなかったのだが、同じ絵描きさんという事で安心?して、結構ずけずけと言ってしまったのである。今から思うと随分迂闊な事をしたもんだ。
ただちょっと気になったのは、その人の反応である。要約すれば確か「私は美大に在籍しており、入試の時点でデッサンを行っている。それで合格したという事は少なくとも他の人よりはデッサンは出来てるはずだ」てな内容だったはず。これが私には、ちょっと違うんじゃないか? という気がしてならなかった。
例えば、竹本泉の絵を見て「デッサンが狂っている」と評する人間がいるだろうか? 彼の描くキャラクターに対して「人間の手はもっとごつごつしている、だからこの絵は現実味が無い」と批判する人間がいるだろうか? 恐らくそういったけちのつけ方をする人はいないだろうと思う。
マンガやマンガ的なイラストの場合、「現実にあるものを現実にある通りに描く技術」は、極端な話、必要無いのである。現実通りに描くのであれば何も絵で表現する必要はない。写真を使えばいいのだ。その方がずっと「写実的」で「現実感」がある。逆に言えば、現実の通りに描かなくてもいいという事こそ絵の最大の長所なのである。
ただし「写実的でない=存在感が無い、嘘っぽい」という事にはならない。写実的でないにも関らず、イラストに存在感を与える、という事は充分可能だ。竹本泉で言えば、彼の描く作品の内容や雰囲気と絵の描き方とが巧くマッチングしているからこそ、あんなに生き生きとしたキャラクターを描く事が出来るのである。その他その他、例を上げればきりがない。
だが、その為には「どのように描けば存在感のある絵になるのか」を知っておく必要があるだろう。先天的にそのセンスがある人(羨ましい……)ならともかく、私みたいにセンスが皆無な人間はデッサンをきちんとやらなくてはいけない。更にはそのテクニックを活かした「自分なりの絵の描き方」を完成させなくてはならない。デッサンが出来ていればよい、という訳ではないのだ。
何よりも大切なのは、描き手自身の「どのような絵を描きたいのか」という作画意図である。その意図通りの絵を描く為に、デッサンやラフスケッチなどの基礎練習を行うのだが、基礎練習で得たものを自分なりの方法で消化し、作品の中に反映させないのでは基礎練習をやってないのと同じである。
デッサンが「下手」でも構わない(こんなえらそーに言ってる私だってデッサンは下手だし)。デッサンを作品として発表するのではないのだから。重要なのは作品の中にいかにして存在感を与えるのかという事だ。それこそが絵描きとしての本当の才能を要求される所だと思う。
←
第12回