呑川と親水・結言
「呑川の会」会員から寄せられた呑川についてのレポートです。
(1997年4月記述)
このページは「呑川とは」の第五パートです。 
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 戦後の復興期は流域の宅地化が進んだ上大きな台風もよく来襲し水害が多発するようになったので、行政は水害対策を最優先に考え、流域住民もおおむねそれを支持した。

 既に川沿いまで家が建っていたので、土手を削って川幅を広げ川底を深く掘り下げて大量の水を流せるようにし、垂直になった護岸は崩れないようにコンクリートでがっちり固められた。
また水の流れの支障となる水草などが生えないように川底もコンクリートで固められ、河川工学的に効率のよい3面コンクリート張りの川ができ上がった。
 下流の感潮域では、当時地下水汲み上げによる地盤沈下もあったので、高潮対策のためコンクリートのカミソリ堤防が築かれた。垂直な護岸で川底は深く落ちると危険なので、川沿いには人が近づかないよう高いフェンスが張られた。


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 またカミソリ堤防は人の背丈よりも高く、川面は見えなくなってしまった。
 こうして川と人との接触は次第になくなって行ったと思われる。
 高度成長期になると流域の宅地化はますます進み、川は専ら下水を排水するための水路と化し、悪臭さえ放つドブ川になってくる。
 やがて下水道が普及し水が流れなくなると、川は排水路としての役割さえ終わったかに思われてくる。

 こうなると川は無用物扱いされ、折しも高度成長期の産業基盤整備の一環として、川の上に高速道路を作ったり、あるいは暗渠化したり埋め立てたりして道路や資材置き場に変わるケースが多くなった。狭い都市にあって川は行政にとって最後に残された唯一自由に使用できる空間でもあったからだ。
 かって江戸時代舟運に盛んに利用された日本橋川は、川の上に延々と続く首都高速道路が設けられ、由緒ある日本橋の道路元標も現在は暗い高速道路の下にある。
 渋谷川の一の橋公園も水をテーマにした立派な公園ではあるが、高速道路の下なので何となく落ち着かない。
 また流域住民も悪臭のするドブ川をそのままにしておくよりは、蓋をするなり埋め立てるなどして緑道公園にでもすることを望んでいたと思う。
 呑川でも上流の世田谷区や目黒区を流れる部分は下水幹線とし、その上は桜並木の続く緑道にしている。

 しかしこれでは川が本来持っている水とのふれあいや上に広く開いた開放感といった特長はない。その点大田区を流れる部分は川面がみえるようになっているので救われる。

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 石油危機後低成長期になると、行政も住民も経済効率一辺倒でなく、自然環境にもある程度配慮するようになってきた。
 江戸川区の古川親水公園などはその第1号とも言うべきだろう。

 呑川でも世田谷区や目黒区の上流部は桜並木の続く緑道になっているし、大田区を流れる中下流部もあちこちに化粧煉瓦を敷き詰めた並木の続く散策路が作られ、殺風景なフェンスもこげ茶色の落ち着いたものに付け替えられた。
 また旧洗足用水には湧水を利用したせせらぎが作られ、旧呑川の河道には緑道が作られ、河口に近い新呑川橋のたもとには傾斜がゆるやかな護岸の親水公園も作られた。
 更に池上橋の上流には川底に水鳥が止まるための石や魚が住むための窪みが作られたりしており、かなり親水を意識した設計になっている。

 大田区では呑川全体を一つの軸として、ふれあい公園、緑の散策路、橋などの整備を行う一方、水源の確保も行い、緑のネットワークを作るという呑川緑道軸構想を打ち出している。

 神田川の上流では、川底の水の流れを蛇行させたり、せせらぎを作ったり、両岸に水草を植えたり、いろいろ工夫しているが、やや人工的な嫌いがある。野川は幅広い河川敷が一面芦などの水草で覆われ、昔の小川の雰囲気がしたが、大雨のあと見たら一面水草が横倒しになり、ゴミがあちこちに引っ掛って少々見苦しかった。目黒川の大崎ニューシティー付近のコンクリート護岸には青々としたつたが這わせてあった。隅田公園付近も一時カミソリ堤防になり川面が見えなかったが、最近堤防を広くして傾斜のゆるやかな護岸にしたので、再び川面に近づけるようになった。また車の通らないふれあい専用の桜橋も作られていた。


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 都市の川に田舎の川と同じ自然環境を求めるのは無理であろうし、川の土木工事の財政負担にも限度があるだろう。
 住民と行政とが本音をぶつけて話し合い、どこかで妥協点を見出して親水対策は進めざるを得ないだろう。

結言

 以上呑川から東京の川について水害・水質・親水の面からいろいろ考えてみた。

 先ず戦後の復興期には、流域の宅地化が進み、以前は発生しなかったところまで水害が及ぶようになり、行政も水害対策だけで精いっぱいだった。
 次いで高度成長期に入ると川は家庭や工場からの下水の排水路になり悪臭を放つようになる。また下水道が普及すると川は枯渇化してくる。もはや川は無用なものと考えられ、暗渠にしたり埋め立てたりして道路などの産業基盤が次々に作られた。
 やがて低成長期になると、経済成長優先から自然環境にも配慮がされるようになり、川が見直され川沿いに緑の散策路があちこちに作られた。


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 その時代時代により住民や行政の川に対する価値観が変化して来たのだと思う。水害や悪臭がそのままでは親水どころではないが、今後の川に対する施策は、水の持つ本来の自然の循環サイクルや川の持つ本来の自然の浄化作用などと調和する形で進められれば理想的だと思う。
 川を人が征服するのではなく、川と人が共存するという考え方である。

 呑川は大田区の真中を流れるシンボル的な川である。50年近くも呑川のそばに住んでいると、不思議なもので愛着も湧いてくる。
 行政も呑川を中心とする緑道軸構想を掲げているが、呑川が更に区民の良い憩いの場となることを期待している。
 講座(大田区立池上文化センターで行われた「呑川から東京の川を考える」区民講座)は終了したが、引き続き「呑川の会」として都市河川を考える場は残った。
 講座(大田区立池上文化センターで行われた「呑川から東京の川を考える」区民講座)は終了したが、引き続き「呑川の会」として都市河川を考える場は残った。
 これからも都市河川について勉強し、微力ではあるが区のためにお役に立てればと思っている。今回は有意義な講座を企画していただき、心から感謝している。

平成9年4月





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<参考文献>
1.「都市と水」    高橋裕著    岩波新書
2.「都市と川」    三木和郎著   人間選書
3.「神田川」     東京新聞社会部編
4.「河川シンポジウムからの提言:都市河川を知る」 地域交流センター企画
5.「都市河川計画の手引き−−洪水防御計画編」   国土開発技術研究センター発行
6.「だれにもわかるやさしい下水道の話」   本間都著     北斗出版発行
7.「2万分の1地形図(東京近傍南部)」   明治19年製版  陸地測量部発行
8.「5万分の1地形図(東京西南部)」    昭和42年編集  国土地理院発行
 (もう一度読む)
 (「呑川と水質」終わり)

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