1950年頃の呑川
「呑川の会」会員から寄せられた呑川についてのレポートです。
(1997年4月記述)
このページは「呑川とは」の第二パートです。 
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 明治時代に作成された旧陸軍陸地測量部の地図をみると、当時の呑川は田圃の中を蛇行しながら流れており、主として灌漑用水として利用されていたと思われる。またその水源は豊かな地下水を含んだ関東ローム層の台地の崖からの湧水が主だったと思われる。

 池上に戦前から住んでいる人の話では、昔の呑川の川幅は現在よりずっと狭く土手は桜並木になっており、子供が川へ入って魚取りもしたという。こうした風景は昔の写真にも写されている。
(左下から)  蒲田駅手前のJR鉄橋のたもとに旗染屋があるが、神田川と同じように呑川の清流で布の糊を洗い流していたのかも知れない。

 私は戦後の昭和24年に西蒲田の双流橋のそばに引っ越してきた。すでに一応の河川改修は済んではいたが、付近には未だ往時の面影が随所に残っていた。池上橋から上流の方には一面の畑が広がっていたし、私の家の付近にも畑や沼地があちこちに点在していた。川は土手になっており春にはタンポポが咲いた。双流橋のそばには大森方面へ水を引くための取水堰の跡もあった。


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 水はきれいとは思わなかったが、それでも淀むようなこともなく流れていたし、川底に溜まるのはヘドロではなく土砂だったので、ときどきスコップで浚ったりしていた。双流橋は木の橋で、増水すると橋脚に水草がたくさんからみついた。

 昔、堤方橋の少し下流から双流橋の少し下流まで川の真中に中土手があり、流れが2本になっていたので双流橋という名前が付いたものと思われる。
 夫婦橋から下流にはノリ養殖用の小舟がたくさん係留されており、まわりの空地にはノリをよしずに貼って天日干しにしている風景があちこちにみられた。
 もっともロマンチックなことばかりではなく、大雨が降ると呑川へ注ぎ込むドブ川の水が道路に溢れ出して歩行に困ることがよくあった。また沼地や溝が多いこともあり蚊が多く、かやは絶対必需品であった。

 戦後になって、以前は田圃や畑や沼地だったところに住宅や工場がたくさん建ち始めた。そのため降った雨は田圃や沼地に溜まったり地面にしみ込み地下水となったりしないで、一度に川へ流れ出すようになった。道路の舗装が進んだこともこの原因となった。

 その後下水道が普及して通常時の家庭や工場の排水は川へ流れ込まなくなったが、大雨時の雨水は捌き切れず、一気に下水吐から川へ流れ込む。
 なお生活水準が向上し水洗トイレや家庭風呂などで水道水の使用量がふえ、最近では都市河川の流域に降る雨量に匹敵する水量が多摩川や利根川などのダムから水道水として都市河川の流域へ流れ込んでいるのだそうだ。


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(左下から)


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