(30年前の)今月の“Piping Times”《1978年》

1978年1月号

January/1978

Vol. 30/No.4

 夏から秋にかけての重要なコンペティションのレポートが一段落したこの号のメイン記事は、半年前のサマー・スクールのレポート。この当時全部でたった38ページの誌面の内ほぼ1/3に当たる12ページを費やして、主に北米大陸各地で開催されたサマー・スクールの様子をシェーマス・マックニール自身が丁寧に報告しています。

 冒頭、シェーマスはサマー・スクール(夏季の集中講座)がいかに有効であるか、について「我々は1954年以来『4週間連続のサマー・スクールは、残りの一年間に毎週一回行なう練習に匹敵する』と信じてきた。そして、それは見事に実証されている。」と強調します。
 つまり、シェーマスと朋友のトマス・ピアストンは1944年の CoP 設立から10年後には、早々にサマー・スクールを開始していたようです。


 このレポートによると1977年のサマー・スクール・シーズンは、6月中旬に米国テキサスのダラスから始まりました。ダラスのサマー・スクールはそれなりの歴史があるようで、この年のメイン講師である John Burgess に至るまでの歴代の講師として、Duncan Johnstone、John MacAskill、Hugh MacCallum 等の名前が挙げられています。

 7月、テキサスから一旦グラスゴーに帰ったシェーマスは、母国で通常の生徒以外を対象にした平日(月〜金)連続のサマー・スクールで教えます。講師団はシェーマスの朋友の Thomas Pearston を筆頭に、Angus J. MacLellan、Roderick MacDonald、Ronald Morrison といった名前が挙げられています。

 次にシェーマスが向かったのはカナダのオンタリオ。1974年に始まったというこのサマー・スクールに4年ぶりに、教習の2週目が始まったところで合流したとのこと。ここでの講師は John Burgess Jimmy MacIntosh という、これまたなんとも贅沢な組み合わせです。

 オンタリオの次は2000マイル(3200キロ)西方に移動して米国のアイダホ。そして、ここもシェーマスにとっては5年ぶりの訪問だったとのことです。ちなみにこの時の講師は Andrew Wright です。(…って、サラ〜って書くけど、なんとも贅沢な…。)


 7月31日はいよいよ、日本のパイパーに最も親しみ深いカルフォルニア・サマー・スクールの開始です。ここでのこの年のシェーマスのパートナー(講師)は“Big”Ronnie Lawrie です。
 この号の6ページには早々と、'78シーズンのカルフォルニア・サマー・スクールの宣伝が一面に載っていますが、トップに「7回目」とうたわれていることから判断して、このサマー・スクールは1972年から始まったようです。

 このカルフォルニア・サマー・スクールが日本のパイパーに親しみ深いのはなんといっても、東京パイピング・ソサエティーの創設者である山根さんがこのスクールに率先して参加して、シェーマスやその他の講師陣との親密な関係を築いてこられたからです。

 山根さんが一体いつ頃から、そして、のべ何回このサマー・スクールに参加されたのか? は聞きそびれたままになっていますが、少なくともこの年のスクールでは既に十分な存在感を示されています。
 全員集合の記念写真でも前列ほぼ中央近くに位置を取られていますし、なによりも山根さんは今回の記事の中で、唯一、名前が出てくる受講生です。それは、受講生たちが3つのグループに別れてバンド(ドラム抜き)を組んで練習を積み、最終日に演奏を披露し合う際の記述の中で次のように書かれているのです。

 “Dr. Masami Yamene as always was a menber of the best tuned band, proving pretty conclusively that a quick check with the Tuning Trainer is better than the slow business of going round screwing drones and listening.”

 ご存知のように、ハイランド・パイプのハードウェア(特にバッグやリード等)は70年代を境に様々なハイテク素材の導入により劇的に進化(?)しました。そしてハードウェア以外にも、パイプのチューニングに関して《ハンディな周波数測定器》を用いることが出来るようになったのは、特に、複数のチャンターとその3倍の数のドローンを完璧にマッチさせることが求められるパイプバンドの演奏に於いては、19世紀に「パイプバンド」という演奏形態が誕生して以来の画期的な転換点であったといえましょう。

 山根さんがこの時代にハイランド・パイプの世界に初めて持ち込まれた《ハンディな周波数測定器》は京王技研(現在のコルグ)製の“Tuning Trainer”を元に、山根さんが京王技研に働きかけてハイランド・パイプ独特の音階に合わせて設定し直した山根さんオリジナルのハイランド・パイプ・バージョンでした。
 それは、カセットテープ程の大きさしかない現代のデジタル・チューナーとはほど遠く、小さな弁当箱程の大きさがありましたが、それでも片手に持ってドローンのベルの上にかざすことができ、それぞれのドローンをあっという間にぴったり同一の周波数に調整できるのですから、電子機器とは全く縁遠かったと思われる当時のパイパー達にとっては(ロック界に於いてコルグのシンセサイザーが与えたと同様の)、ハイテク先進国「日本」から押し寄せた、正に大津波級の衝撃だったと思われます。
 シェーマスが山根さんの“Tuning Trainer”に触れたこの一文の中に、そのような旧世代のパイパーたちの感慨が表れているようにも思えるのです。


 さて、カルフォルニアが終わっても、この年のシェーマスのサマー・スクールの旅はまだ終わりません。最後のサマー・スクールはこの年に初めて始まったという(1988年に冬季オリンピックの会場となった)カナダのカルガリーだったということ。ここでのメインの講師は再び Jimmy MacIntosh です。

 シェーマスの長〜いサマー・スクールの旅、ご苦労様でした。道理で、長いレポートを書く訳ですね。


 P25に、先月紹介した Grants Whisky Championship の後、年を締めくくる最後の重要コンペである Piping Society of London のコンペティション(11月5日開催)の結果が報告されています。

 Open Piobaireachd の1stは Jack Taylor (“Lament for Patrick Og MacCrimmon”)。2nd は Andrew Wright(“Lament for Donald Duaghal MacKay”)、3rd Kenneth MacLean、4th Murray Henderson、5th Jimmy MacIntosh と続きます。
 1st と2nd が、今年交代したばかりのピーブロック・ソサエティーの新旧チェアマンって訳です。


 続く The English Bagpipe という記事は実はブック・レビュー。
 一旦廃れていた各地の様々なバグパイプが次々復刻され、演奏されている現代と違って、この当時イングリッシュ・バグパイプと言えば、イコール「ノーサンブリアン・スモール・パイプ(NSP)」のことを指します。そして、この記事は“A basic tutor for the Northumbrian small pipes”という教則本のレビューです。著者は
Richard Butler、価格は£6です。

 2ページに渡るブック・レビューですが、その実、シェーマスと NSP との関わり(想い出話?)について大きく割かれているその文章からは、その当時の NSP 界の様子が詳しく伺えます。


 シェーマスが NSP に初めて出会ったのは1950年頃に、NSP の演奏を奨励し発展させることを目的として、ニューカッスル(ノーサンバランドの首都)で開催されたあるコンペティションのジャッジとして招かれた時とのことです。限られた人数しか居ない NSP 奏者同士だけでジャッジするのではなく、中立の立場に立つという意味で、あえてスコティッシュ・パイパーが招かれた、ということのようです。そして、ジャッジとしての前任者があの Willie Ross だったということを知って、シェーマスは驚くとともに大層喜んでいます。

 その時のもう一人のジャッジはかなり年老いた NSP 奏者で、シェーマスがそれまで会ったことのない程に耳(正しい音を聴き取る能力)の悪い人だったとのことです。つまり、NSP には詳しいけど非常に耳の悪いジャッジと、耳は確かだけど NSP については全くの素人、というなんともヘンテコなジャッジ団だった訳ですが、何故か2人の審査結果は大なり小なり似たようなもので落ち着いたということです。
 シェーマスは「たとえそのバグパイプについては詳しく無くても、良いパイピングというものはおのずと解るもの。」と結論付けています。


 そのようなコンペティション等を開催してなんとか NSP 愛好者のレベルを上げようと努力する Northumbrian Small Piping Society の委員たちの努力にも関わらず、その当時から暫くの間は NSP 奏者のレベルはさほど高いものではなかったとのことです。それは、GHB の世界と比較して NSP の愛好者は殆どがアマチュアでその多くが孤立していた(まるで現在のパイパー森のようだ…)ことも原因だった、とシェーマスは分析します。

 しかし、そのような状況も今では(1970年代)すっかり変わって、過去10年間のノーサンブリアン地域に於ける NSP に関する爆発的な関心&熱気の高まりの表れが、シェーマスが最初に NSP と出会った当時はまだ生まれてもいなかったような若者(著者の Richard Butler のこと)がこのような教則本を作ってしまうということに表れている、と非常に感慨深げに書いています。


 通常、Letter to the Editor のコーナーというのは、寄せられた(Eメール全盛の現在と違ってこの当時は本物の手紙)便りを掲載するのが主で、たまにエディターからのリアクションがちょこっと載っていたりする程度でしょう。
 しかし、この号のこの投稿に対しては、シェーマスはスコアを使って非常に丁寧に答えています。つまり、これは読者からの「よくある質問(FAQ)とその回答」という雰囲気で、グリーン・チューターの補足といった記事になっています。今、読んでもためになりますよ。


 さて、今月も広告ページから、当時のパイピング・ワールドを垣間みてみましょう。

 P4左上は(多分)パイプメイカー自身の、そして、P5右下は主にパイプバンドを対象にしたディストリビューターの広告です。各々、当時のパイピング・タイムスでは常連さんでした。

 しかし、今回、私がなによりも注目したのは、P4左下からP5右上に繋がる、E.P. PUBLISHING LTD. の宣伝に載せられているリストです。 

 冒頭の sold out になっている Joseph MacDonald's “Complete Theory”は、私が Canntaireachd - No.15で紹介した Roderick Cannon による最新の復刻本ではありません。1971年に刊行されたその前の復刻版の方で、シェーマスが前文を書いているものです。

 2冊目に Angus MacKay's “Collection”(やはり sold out ですが…)があったり、Donald MacDonald's “Collection”や、ピーブロック・ソサエティー・ブックの元になっている Thomason's“Ceol Mor”などにも注目。
 これらの貴重な楽譜も、今でこそ、CEOL SEAN から CD フォームのものが容易に入手可能ですが、当時としては、非常に貴重な存在だったというのは想像して余りあります。

 さらに、P5にある本のタイトルとそのコメントに俄然、目が釘付けになります。
 曰く
“Some Piobaireachd Studies”by G.F.Ross is now out of print. Still available, by the same author, are some copies of“A Collection of MacCrimmon and Other Piobaireachd” We also have “The Piobaireachd, as performed in the Highlands... till 1808”

 お〜、時間よ戻れ〜! あの時、まだ未熟だった私はこの宣伝の意味が全く理解できていなかった。残念…。
 ちなみに、これらの本は今のところどれも再版等されていません。うむむ…。

1978年2月号

February/1978

Vol. 30/No.5

 今月のメイン記事である P11の Metrication and the Highland Bagpipe の書き出しはこんな具合です。

 We in this country have just barely maneged to survive the decimalisation of our cointage (and the resultant rapid increase in the price of everything, in spite of what the pundits says).

 そうそう、以前、イギリスの通貨の数え方は次の様にとんでもなく複雑怪奇なものだったのです。

1ポンド=20シリング=240ペンス、1クラウン=5シリング、1フローリン=2シリング、1グロート=4ペンス、1ギニー=21シリング

 確かに、これは大英帝国華やかりし頃に由来するそれなりに由緒あるカウントの仕方なのでしょう。しかし、人・モノ・カネが頻繁に行き来する国際社会の中、他の国々がごく当然のように十進法の通貨制度を用いている状況下で、いくらなんでもこんなに複雑な数え方では世の中から取り残される?…と、イギリス人自身が考えた訳ではなくて、多分に米国を始めとする諸外国からの圧力だったと思われるのですが、とにかく、ある時点でやっとこの複雑なカウント方法が一掃されて、1ポンド=100ペンスとするごく普通の十進法に転換しました。
 しかし、その「ある時点」というのはそんな大昔のことなんかではなくて、なんと1970年代に入ってから、正確には
1971年2月13日(Dacimal Day、十進法の日)のことなのです。

 ですから、それなりの年齢の方の中にはイギリス(そして、アイルランド)を旅行した人が、この複雑極まりない通貨の数え方に散々頭を悩まされた、といったような土産話を見聞きした記憶がある方も居ると思います。

 しかし、当然ながら頑固者の当のイギリス人たちは、全く逆のリアクションだったのは想像して余りあります。そして、この記事が掲載された1978年2月というのは、そのデシマル・デイからまだ7年しか経過していなかった頃で、多くの旧世代のイギリス人たちは新しい通貨制度にまだ十分に慣れず、事ある毎に新しい通貨制度の導入とそれに便乗したさまざまな値上げに対する呪いの言葉を吐いていた事だと想像されます。
 そんな気持ちがこの冒頭の「我々は、なんとかやっとのことでこの(通貨の)十進法化を生き延びた」ってな表現になるんでしょうね。


 そして、冒頭の文に次の様な一文が続きます。

 We are now faced with the complete metrification of our weights and measures over the next few years, and most of us view the prospect with considerable dismay.

 つまり、我々はこのやっかいな「通貨の十進法化」に引き続いて数年の内に「重さ&長さのメートル法化」の導入によってとんでもなく狼狽させられることになるんだ、という嘆き節なんですね。

 しかし、重さ&長さについては現代の世界のリーダー国である米国自体がヤード・ポンド法を捨てきれていないということもあって、その後も通貨の十進法化とは違った経緯を経ているというのはご存知の通り。(一応、イギリスに於いては 2000年にメートル法に完全移行したはずですが…。)

 でも、メートル法の導入を控えてパニック状況にある当時のこの文章には「パイピング・タイムスもカレッジ・チューターもいずれサイズを変更せざるを得ないかもしれない。」と書かれていて、当時の彼らがメートル法の導入にいかに戦々兢々としていたかということが伺えます。


 今回の記事は、そのような「迷えるイギリス人たち」をなんとかして無事にメートル法に難着陸させよう、という意図の下に企画された記事です。

 第一部では、主に国際単位系使われる様々な単位(メートル、キログラム、秒、アンペア、デジベルなど)についての説明がされています。
 そして、次にイギリスで使われて来た長さ&重さの単位についてのローマ時代からの歴史が簡単に紹介されます。
 例えば、マイル(mile )といういう単位は、ローマ時代の“mille passus”=1000 paces(1pace=two steps)から由来するとか…(詳しくはここの歴史の項参照)。そして、マイルを分割する furlongs とか、chains とかの単位が出てきますが、分割するファクターとしては 12、10、8、3 ってな数字だそうです。
 また、重さの単位としては、stones、bushels、pounds ってなものがありますが、それらもまた、分割&倍数のファクターとして、16、14、8、20 という数字が使われたそうな…。う〜ん、やっぱり混み入っていますね。
 しかし、実は日本の尺貫法も外国から見たら同様に感じられるはずですから、なんとも言えません。

 歴史の項で笑えたのは、1795年にフランス革命政府によって、世界で共通に使える統一された単位制度の確立を目指して制定された、というメートル法の生い立ちに触れて、「フランスと対立していた当時のイングランドとしては、そのような単位をあえて採用する意図は到底持ち合わせなかった。」という書き様です。う〜ん、両国の確執のために、イギリスでのメートル法導入までに、なんと200年も掛かったんですね〜。スコットランドはフランスと仲良かったんだけどな〜。

 さて、歴史に続いて最後は楽器としてのハイランド・パイプに関する各部分の長さや大きさを実際にメートル法で表記したらどうなるか、ということが具体的に示されます。
 主に、Figure 2 のようなパイプの外観についてですが、中で興味深かったのは、
「ハイランド・パイプの音色が最適の環境下に於いて伝わる距離はおよそ 41 miles と推定されるが、それはメートル法では 65.536km のことである。」という下り。う〜ん、いくら何でもそんなに伝わるもんですか〜? それとも、スコットランドの地形ならあり得るのかな?


 さて、今月も広告ページを幾つか紹介。

 まずは、これ。なんと、先々月号でレポートされていた、前年年10月末に開催されたばかりの Grants Whisky Championship のライブ・レコードのリリースのお知らせです。
 収録されているピーブロックは優勝した
Iain MacFadyen“MacLeod of Colbeck's Lament”だけで、他はライト・ミュージックのようですが、いや〜、当時こんなレコードがリリースされていたなんて気がつきませんでした。それも、コンペ当日からこんなにも短期間で…。
 現在のようなデジタルの時代ではなくて、アナログ・レコードってのはマスターから一枚一枚プレスされて作られる訳ですから、これって信じられない程の超スピードな仕業だと思いますね。


 そして、もう一つはこのページ。

 上は、お〜、なつかしい John MacLellan“The Piper's Handbook”ですね。
 とにかく、現代のようにハイランド・パイプに関する情報が極めて限られていた時代ですから(それは何もハイランド・パイプだけに限りませんが)、このような本はなんでも手に入れたものです。

 1964年にリリースされたこのブックレットは、僅か35ページのハンディなもので値段も 75ペンスと手頃ですが、内容はそれなりに濃くて、ここに書かれた“A Complete non musical guide for the piper to all aspect of The Great Highland Bagpipe”という宣伝文句に偽りの無い、充実した内容の手引きです。

 最初の3章はハイランド・パイプの仕組み、そしてメンテナンスやセッティングにさかれていますが、Chapter 4“The mejor piping competition”、そして、Chapter 5“The development of bagpipe music”など、後半の3章では歴史や組織などについて詳しく(かつ、手短に)書かれています。
 多分、私が初めて The MacCrimmons に関する記述を読んだのはこの本の Chapter 5 に於いてだったと思います。そして、それは当時の私の知識レベルに対しては、ちょうど相応なレベルの記載だったと思われます。

 ただ、今になって再び目を通してみると、“Lament for Donald Doughal MacKay”の作者が Donald Mor とされていたり、“Lament for Mary MacLeod”の作者が Patrick Mor とされるなどの記述があるところを目にすると、さすがに時代を感じさせます。


 最後に、下半分の告知 Situation Vacant も興味深いですね。つまりは、カレッジ自体の求人広告って訳です。なんか、妙に微笑ましい感じがしませんか?

1978年3月号

March/1978

Vol. 30/No.6

 この号はいよいよ目次に MacCrimmon の名が登場。P22からの Reiving MacCrimmons です。

 Reive という単語を辞書で引くと、スコットランド方言で「〜を略奪しながら進む」と出ています。
 「略奪するマクリモン?」とくれば、ピーブロック通なら誰しもがすぐにあの気性が激しく荒々しい振る舞いで有名な Donald Mor のことかな、と想像しますが、ところが実はそうではないようです。


 この記事は、Ruairidh Helford-MacLeod という人が、MacLeod 一族に伝わる文書を調べていて見つけた、ある訴状の内容に関するものです。それは、1599年の6月21日付けで Rory Mor MacLoed から提出されたもの。

 それによると…、と引用されているその訴状の内容について詳しく紹介したいところですが、その文章がとてつもなく難解なんです。何故かというとそれは当時の訴状文書そのものなので、書かれているのが古い英語というか、ゲール語にも似た古いスコットランドなまり(らしい)奇妙な英単語(電子辞書の ODE を引いても出て来ない)が入り混じった文章で、私の英語読解力では到底細かいところまで理解しきれないのです。

 それでもまあ、なんとか大雑把に読解したところでは…、
 
最近、Glenurquchy(Glenorchy)や Tullibardyne エリアに於いて、Duncan McGrymmen と Donald McGrymmen という兄弟が国王陛下の命により(という言い訳の下に)、申し立て者(つまり Rory Mor MacLeod)やその他のクランの様々な所有物を略奪するために、各地の市場に出没している。
 10月末に、彼らは Glammis market に於いて、 Duncan McEan McGillicallum(Duncan the son of John the son of Malcolm)と Donald McKhuchteen Vic Coneil Vic Farquhar(Donlald the son of Hugh the son of Donald the son of Farquhar)の24頭の太った雌牛を、そして、John Doway からは£120 を奪った後、さらに、申し立て者とその部下たちの品物の略奪を試みた。〜ウンヌン、カンヌン(以下、至って難解な文章が延々と続きます。)

 訴状文の引用の後、著者は当時のスコットランド王ジェームス6世は、終末が近付いたエリザベス1世(在位1558〜1603)からのイングランド王位継承を待ちわびつつ、急場しのぎ的に手持ちの債券等を売り払うことによって、なんとかやりくりせざるを得ないような極度な財政難に陥っていた。正にそのような混乱した政治情勢が、この Rory Mor の訴えにあるような社会不安と治安悪化をもたらしていたのだ、と当時のスコットランドの社会状況を分析します。

 そして、著者は、その荒々しい行為から、この Donald McGrymmen(MacCrimmon)という人物が Donald Mor MacCrimmon と同一人物と短絡的に思い込みがちだが、幾つかの点からそれは到底考えにくいことである、と推論します。

 何故なら、Rory Mor MacLeod に仕えていた Donald Mor が領主の所有物を略奪する訳は無いはずだ。また、その当時、Donald Mor は逃亡中で Sutherland 地方に居たはずだ。
 もしも、この
Donald MacCrimmonDonald Mor であったとしたら、彼は Rory Mor がこの訴状を提出してから程なくすっかり友好的な関係になっていた、ということになる。何故なら、 Donald Mor は3年後の1602年に MacLeod 一族と MacDonald 一族の長年に渡る確執の終りを記念して“The Battle of Bencuillin”“MacLeod's Salute”“MacDonald Salute”“MacLeod's Controversy”の4曲を Rory Mor のために作曲しているからである。まさか、彼は「24頭の太った雌牛と£120」の損害を償うためにこれらの曲を作曲したというのか?
 さらに、
Donald Mor には2人の兄弟がいてその内の1人が暗殺された Patrick であるが、その他の兄弟の名が Duncan であったという記録は何処にも存在しない…。

 つまり、著者はこの記録に残る略奪者たる DuncanDonaldMacCrimmon 兄弟は、Rory Mor に仕えていた MacCrimmon 一族とは異なった MacCrimmon の者であると結論づけている訳です。


 これまで、マクリモン一族というのは、Dunvegan のマクロード家に仕える一族だけだと思っていたのですが、そうではなかったということなのですか? う〜ん、またまた、ピーブロックにまつわる不思議発見ですね。


 今月号の表紙の写真は、バレエ・ダンサーのコスチュームに身を包んだ人物ですが、P24 の On the Cover でこの人物のことが詳細に説明されています。

 19世紀の著名なパイパー G.S. MacLennan の従兄弟に当たるこの William MacLennan(1860〜1892)は、artist、architect、paiper and dancer(芸術家、建築家、パイパー、ダンサー)であり、1878年の Oban と翌年の Inverness でゴールドメダルを獲得しました。Oban でゴールドメダルを獲得したときは僅か18才。そして、コンペに於いて 2/4 マーチを演奏すること最初に始めた彼は、19世紀最高のマーチ・プレイヤーと言われているとのことです。

 建築家として暫くの間エディンバラで働いていた彼は、その後、ダンスを学ぶようになり、ロンドン、パリ、イタリアなどで複数の名手に師事して学びました。ハイランド・ダンスと融合された優雅で洗練された彼のダンスは、均整のとれた男性的かつ優雅な彼の容姿と相まって、英国中のあらゆる賞を獲得したそうです。

 彼はモントリオールに於いて32才で突然亡くなってしまったそうですが、それはパイピングとダンシング双方の世界に於ける悲劇的な損失だったと書かれています。


 さて、今月も広告ページに興味深いモノが登場。

 P5にあるのは、エディンバラ大学の School of Scothish Studies(現在は Celtic and Scothish Studies)が監修した Tngent レーベルの SCOTTISH TRADITION Cassette Series “Piobaireachd by the Great Masters”の宣伝です。

 Vol.1 William MacLean、Vol.2 Robert Brown、Vol.3 Robert Nicol という3巻で、いずれも90分カセットですから、当時の標準的な LPレコードなら2枚組アルバムのヴォリュームに相当します。そして、宣伝にあるように、収録されている曲目リストを見ても、その中身の充実度は非常に高いものがあります。
 現在ではとても想像できない程にピーブロックの音源自体が著しく乏しかった当時としては、この3巻のカセットの存在はとんでもなく貴重なものでした。

 そして、山根さんのスゴイところは、これらの貴重品をあの時代にちゃんと手に入れていたということです。私はもちろんそれらをダビングさせてもらいましたが、何故か山根さんの手元にあったのは Vol.2 と Vol.3 だけだったので、Vol.1 William MacLean のカセットについては、後日、大分時間が経ってから自分自身で取り寄せました。

 ブラウン&ニコルの音源については、デジタル化された新しいマスターズ・シリーズがリリースされているので、いまさらカセット音源を聴くまでもありませんが、William MacLean の録音については、未だにデジタル化されていないようですので、今でも貴重な音源だと言えそうです。

1978年4月号

April/1978

Vol. 30/No.7

 P11の The Effect of Oxprenolo on Stage Fright in Musiscians1977年11月号のここで「詳しくは来月号で」と予告されていた記事です。来月というのが実際は5ヶ月後だった訳ですね。相変わらずの CoP タイム。

 まあ、それはともかく、この記事は“Lancet”という1823年創刊(!) の英国の医学専門誌に掲載されたレポートの要約とのこと。24人の健全な若手音楽家を使って「Oxprenolo という“beta-blocker”(血圧降下剤)が、ステージでの緊張感をどのように和らげる効果があるか?」 ということをテストした結果が紹介されています。

 被験者は2つのグループに分けられ、各々のグループ毎にステージに上がる30分前に Oxprenolo の錠剤とダミーの錠剤とを飲まされます(もちろん、半分がダミーであることは当人たちには知らされていない)。そして、マイクやテレビ・カメラが設えられたステージで、観客だけでなく2人の高名な音楽家に審査を受ける、という極度に緊張を強いられる状況下で演奏する際の各々の緊張状態を観察したという訳。テストは2日間かけて行なわれ、2日目には、各々のグループには前日とは逆の錠剤が施用された後、同様のシチュエーションに臨ませたということです。

 結果は、Oxprenolo を飲んだ演奏者の方は冷静さを保つことが出来、パフォーマンスも明らかに優れていたのに対して、ダミーの錠剤を飲んだ演奏者の方は、上がってしまって演奏がメチャメチャになる傾向にあったようです。そして、この薬の最も顕著な効果は、緊張から来る震えが明らかに減少していたということだそうです。(譜面の)記憶力には差は見られなかったということですが、抑揚の効いた表現力については、本物の薬を飲んだグループの演奏者の方が上回っていたと観察されています。

 ニ日目にダミーの錠剤を飲んだ演奏者たちは、第一日目にダミーの錠剤を飲んだ演奏者たちよりも、優れた演奏が出来たそうですが、それは、既に一日目に舞台を上首尾にこなしたという自信に基づいて、たとえ飲んだのが本物の薬ではなくても、舞台負けすることがなかったのであろう、と分析しています。

 それにしても、この「血圧降下剤が舞台上がりに効く」という話は、その後、余り聞いたことないですね。


 P16 の The Breton School of Piping 1977 はタイトル通りのスクールのレポート。
 ブレトンに於けるこのスクールは、この年で6年目を迎えるということですが、歴代の講師がなんともスゴイ。
 1972〜1973年:
R.B.Nicol、1974年 & 1976年:James MacIntosh、1975年:Peter Forbes(この人は知りません)、そして、この1977年が Murray Henderson とのこと。

 蒼々たる講師陣ですが、6年目のこの年でもブレトン中から集まったという受講者の数は(現在ではとうてい想像できませんが)たったの15人とのこと。なんとも濃密な教習が受けられたことでしょうね。

 そして、歴代の講師陣の顔ぶれを見ても想像されますし、また、文中でも The Breton Piobaireachd School と表記されているとおり、このスクールの教習はピーブロックに重点が置かれているようで、この年の教習でも受講生は“Salute to Donald”“Rory MacLeod's Lament”“MacKay's Short Tune”“Donald of Laggan”“Viscount of Dundee”“The Glen is Mine”などを教わった、と書かれています。

 しかし、注目して欲しいのは、この写真。中央がかの Murray Henderson ですよ。いや〜、なんとも、若い! まるで、どこかのロック・ミュージシャンの様です。


 なお、ブレトン繋がりなのでしょう、今月号の表紙イラストの解説文の代りに、ブレトンのことわざが紹介されています。コンテンツ・ページの下方をご参照あれ…。


 さて、このレポートは P16〜17の2ページに渡っていますが、P17 の下1/4程に ROBERT B. NICOL とタイトルされた短い記事があります。奇しくも、このレポートに 1972年の最初の講師として名前の出て来ているあのマスターズの一人、R.B. Nicol の死亡記事なんです。それによると、4月4日にアバディーンの病院で死去。4月8日に葬式が催される予定とのこと。

 しかし、この号、どう考えてみても4月号なんですよね。一体、いつ発行されたんでしょう。例によって CoP タイムなんでしょうね。


 さて、先月号に続いて、今月もピーブロックネタがあります。それも先月よりもさらに正統的に、Tune of the Month として“Cha Till Mi Tuille”−英語直訳“I return no more”/英語タイトル“MacCrimmon Will Never Return”−です。さらに、記事の書き手がかの Roderick Cannon と来れば何をか言わんやです。

 この曲に関するエピソードは Canntaireachd No.17 を参照して頂くとして、今回の記事の趣旨は、P19 に Ex.1 として掲げられている Patrick MacDonald が1784年に出版した“A Collection of Highland Vocal Airs”に収められているこの曲の楽譜を取り上げて解説しています。(Patrick MacDonald はあの Joseph MacDonald の兄弟で、1803年にジョセフの“The Complete Theory of the Scots Highland Bagpipe”を出版した人物。)
 キルベリー・ブックを持っている方は No.103 の楽譜と見比べて見て下さい。(1784年に出版されたこの楽譜自体の著作権はとっくに切れているので、堂々と大きなサイズの楽譜にリンクしています。)

 その楽譜集によると、パトリックはこの曲を「Lochaber に住む非常に優れた演奏者」から採集したということですが、パトリック自身はパイパーでは無かったため、装飾音を書き記すことができなかった、ということです。しかし、メロディー・ノートについては、大変な注意を払って忠実に書き起こしたので「後世になって、もしこの書き起こしに何らかの不正確な部分が見つかったとしても、それは本質的なものでは無いであろう。」と自信たっぷりに書き記してあるそうです。

 それでも、例によって R. キャノンは重箱の隅をつつくようにミスやら何やらを見つけながら、ここでは省略されている装飾音などについても補足しつつ、この古いスコアと、Angus MacKay の楽譜(1838年)や現在使われている一般的なスコアとを比較して解説していきます。
 細かい解説は省きますが、興味深いと思ったのは、この楽譜では Crunluath バリエイションが示されていない代りに、バリエイション3、5、6の後に再びウルラールを演奏するように指示されている、と(キャノンは書いている)いうことです。(右肩の‘s’の文字がその意味なのでしょうか? でもそうだとしたら、バリエイション6 にはその指示は無くて、あるのはバリエイション7 なんですが…。)

 もう一つ、さらに興味深かったのが、ウルラールの冒頭の B 音の解釈です。つまり、これは、スコットランドで広く歌われているこの歌の歌詞、

Cha till, cha till, cha till mi tuille

(最後の節はキルベリーのタイトルのように、〜 cha till MacCruimen と歌われることもある。)

に呼応しているというのです。つまり、 chaB 音に、そして、tillE 音に合っていると…。スコティッシュ・シンガーのアルバムなどでこの曲が歌われるのを聴いたことがある人は意味が直ぐに理解できると思いますが、言われてみれば確かにそのとおりです。キルベリーの楽譜では、歌に合わない。

 様々な解釈を経て、最後に R. キャノンは P20〜21の見開きページを使って、パトリック・マクドナルドの採譜したこのスコアをベースにして、キルベリーとは異なったキャノン・バージョンのスコアを書き起こしています。貴重なスコアですが、残念ながら、こちらは著作権に留意してこの大きさまで…。


 最後に、P29 の Real Ivory とタイトルされた記事ですが、これは、いわばエディトリアルとは別にこの号でのシェーマスのもう一つの意見表明といったところ。

 パイプのかおり第18話の冒頭で書いたとおり、乱獲がたたり絶滅が危惧されたアフリカ象を保護するため、現在ではワシントン条約(CITES)により象牙の国際取引は禁止されています。条約が発効したのは1975年7月1日ということですが、日本がこの条約を批准したのは1980 年ということですから、多分イギリスも1978年のこの当時はまだ批准前だったと思われます。

 シェーマスはまず「最近、ハイランド・パイプのアイボリー・マウントのコストが劇的に上昇しているが、様々な決定(CITES を指している?)から近い将来、それらは完全に入手不可能になるだろう。」と書き始めます。

 そして、アフリカ象が絶滅の危機に陥っている状況について簡潔に解説します。曰く、都市化の進行と象牙需要の高まりに応じて、アフリカ象はおよそ150万頭程に減少し、さらに年間10万頭以上が密猟者たちの手に掛かっている状況にあり、近い将来絶滅する方向に突き進んでいる、と…。

 そして、シェーマスの主張は明快です。

 こんな時代になったのだから、いつまでもアイボリー・マウントに固執するのは止めよう。これからは命の代償を支払わなくても良いシルバー・マウントに向かうべきだ! 多くの人は、当初は美しく光り輝いていても、年月を経れば黄色く薄汚くなってしまうアイボリーが手に入らなくなってしまうことを嘆く事はないはずだ。いずれにせよ、現代はプラスティックの時代なのだから…。

 お〜、お〜、シェーマス、そうは言ってもシルバーはコストが掛かりますよ〜。それに、年月を経たアイボリーの趣(おもむき)はプラスティックでは到底再現不可能ですがね〜。
 まあ、私自身はこれに先立つ1976年にアイボリー・マウントのパイプを入手していましたので、ごくごくエゴイスティックながらも、安らかな気持ちでこの主張に頭を垂れることが出来ますが…。

1978年5月号

May/1978

Vol. 30/No.8

 今月号はまずは、珍しい2本ドローンのパイプを抱えたパイパーが写っている表紙写真の話題から。
 いつもの様にコンテンツ・ページの下方に説明があります。曰く“Finlay MacRae in Glen Affic, with Black Finlay's bagpipe.(see page 25)とあり、そして P25 の記事のタイトルは“An Old Bagpipe”

 この Finlay MacRae 自身による僅か半ページ程の記事ですが、それによると彼が過日、Capt. Alex Matheson of Brahan という人の葬式でパイプを演奏した際に、Alex の息子さんから「うちの城に、非常に古くから伝わるパイプが一台あるのですが、よかったら一度見に来ませんか?」と誘われて見に行った、…とのこと。

 そうしたところなんとそのパイプは、5th Earl of Seaforth に仕えて、あの“Earl of Seaforth's Salute”を作曲したパイパー、Finlay Dubh MacRae(又の名を Black Finlay と呼ばれるそうな…)が演奏していたパイプそのものであったということを発見。さらに、その Black Finlay は自分自身の遠い祖先に当たる人物であることを知ってさらに興奮したということです。

 そして、さらにさらに、実はこの古式ゆかしきパイプは、Black Finlay によって、1st Jacobite Rising に於ける Sherriffmuir の戦い(1715年11月13日)と、Jacobite たちの最後の戦いとなった、2nd Rising を締めくくる Culloden の戦い(1746年4月16日)の両方で演奏されたということだそうで、う〜ん、言われるまでもなく、なんとも由緒正しき名器、正に国宝級の逸品だったのです。

 Finlay MacRae はそのパイプを自宅に持ち帰り、仔細に点検。使われた木は laburnum(キングサリ)か同種の木で、マウントは「(何かの?)骨」と見立てています。

 そして彼は、手持ちのありとあらゆる(ドローン)リードを試して、なんとか音を鳴らすまでに至ったということ。もちろん、チャンターは失われていたにので、 Hardie やら Sinclair のもので何とかやり繰りしたということです。

 そして、この表紙の写真の如く、Glen Affric の丘の上で演奏するというシチュエーションに至り、「Black Finlay が 15年と45年の蜂起に馳せ参じるために歩んだはずの正にその場所で、300年前の彼の楽器そのものを演奏するという経験に、身震いがする程に興奮させられた。」と、レポートを締めくくります。


 ところで、ここに書いてある訳ではありませんが、この Finlay MacRae という人は、ピアノ・アコーディオンの名手であり、かつ、当代最高のスコティッシュ・コンポーザーとも言える Phil Cunningham の義父に当たる人物。つまり、フィルの奥さんの実父という訳。
 1989年リリースの“The Palomino Waltz”というフィルのソロ・アルバムには、義父たる Finlay MacRae に敬意を表して、Finlay が作曲した“Leaving Glen Affric”という心に染み入るようなスロー・エアーが、Finlay のパイプにフィルがギター、ホウィッスル、オルガンで加わる形での演奏が収録されてます。


 「いや〜、なんとも若い!」シリーズ第2弾。今回は、大先生方。

 夏に向けて毎号掲載されているカルフォルニア・サマー・スクールの宣伝ページです。

 真ん中がシェーマス・マックニールであるのは言うまでもありませんが、一番左はジョン・バージェスで、右端は(多分)イアン・マクファジェンでしょう。う〜ん、皆さんホントに若々しい!


 さて、紹介は最後に取っておいたのですが、実はこの号を読み返していて、今回私が最も興味を引かれた記事は、巻頭 P11〜に報告されている、3/31〜4/2に開催されたばかりの1978年 Piobaireachd Society Conference のレポートです。P9 Editorial に於いても、シェーマスがこの時の一つのレクチャーについてびっしり書いているので、本文のレポ−トに入る前から興味津々状態でした。(ちなみに、このコンファレンスが毎年開催されるようになってこの年で7回目とのことです。)

 Piobaireachd Society Conference の年次報告書については、リリースされている最初の年である1973年のものから30年以上に渡って全て揃えてあります。毎年、概ね4つのレクチャーがある訳ですから、それらに掲載されているレポートの総数は優に120件を超えています。隠すまでもありませんが、怠け者の私がそれら全てに目を通した訳ではなく、タイトルを読んでとりあえず特に興味を引く記事からボチボチ読んでいる状態。まあ、じっくりと全てに目を通すのは、仕事をリタイアした後にでもゆっくりと…、と思っています。

 そんな具合ですから 1978年の報告書についても、入手以来どのレポートも全く読んだことはありませんでした。“Piping Times”のこの号の記事は年次報告書がリリースされるまでのつなぎの速報といったところですから、どうせなら本物の報告書に目を通そうと、書棚から古びた報告書を取り出してきました。

 シェーマスが Editorial で特に取り上げているのは Dr. Alex C. MacKenzie による“Comparsion of Bagpipes by Harmonic Measurement”というレクチャー。訳すと「倍音測定によるバグパイプ(の音色)の比較」ってところでしょうか。

 いや〜、実に興味深いレポートでした。そして、こんなレクチャーが 1978年当時に行なわれていたなんて本当にビックリ。言うまでも無く、詳しく紹介しようとすればパイプのかおりの記事1回分に十分相当する内容なのですが、今回はそんな余裕はありませんので、ほんの概要だけをざっと紹介します。

 Dr. Alex は4台のパイプを無反響室でごく精密な計測機器を使って測定したということですが、それらは(1)1925年の Lawrieドローン& Sinclair チャンター、リードは非常に古いものを装着、(2)1906年の Henderson ドローン& Sinclair チャンター、リードの状態は不明、(3)Henderson ドローン& Grainger チャンター、リードはピークの状態のものを装着、(4)1886年 Henderson ドローン& Sinclair チャンター、新品のリードを装着、という組み合わせ。(1)と(4)のチャンターは同じものだが、リードが異なっているということ。

 レポートの最後には、当日提示されたのべ20葉にもなる表やグラフが掲載されています。レクチャーの内容を読み進めながら、それらの測定結果を眺めると一目瞭然なのですが、それぞれのパイプの音色の倍音の状態が見事に異なっているんですね。それも単純に倍音が多い少ないというのではなく、倍音が発生している特定の周波数の分布状態がパイプ毎に非常にバラエティに富んでいるのです。メイカーが異なる、或は同じメイカーでも年代が異なるパイプの音色の個性が、こんなにもはっきりと科学的に分析できるものなのだと、正に目から鱗が落ちる思いでした。
 それと同時に、ハイランド・パイプの深みに嵌った(例えば山根さんのような)人が、次々と年代物のパイプを漁るようになることの理由が、少しだけ理解できたような気がしました。

 参考までに例によって著作権に配慮してほんの小さく縮小したグラフを一つだけ載せておきます(紙の黄ばみ具合が年代を感じさせるでしょ…)。
 ちなみに右のグラフは、レクチャーの後半部分で参照されている
(1)1925年の Lawrieドローン& Sinclair チャンターの測定結果を例に「チャンター(の各音)とドローン(の倍音)がどのように調和しているか?」が解る様に強調ライン(黄色のマーカー部分)を入れたものです。


 いや〜、私の様な音響に関する科学的理解力が著しく乏しい者にとっては、正に「猫に小判」状態のレポートです。山根さんのような音響の専門家にこそぜひ読み解いて欲しいレポートだと、切に思うところです。

1978年6月号

June/1978

Vol. 30/No.9

 表紙の写真が良いですね。
 いつものコンテンツ・ページ下方の表紙の解説文には、ごく簡単に“Inspiration at Boreraig”とあるだけで、特に「誰?」という説明は無し。

 ハイランド・パイパーなら誰でも憧れる《聖地》Boreraig での無我の境地。この写真の主が「誰」であろうと、勝手に「自分自身」と重ねればいいのです。
 それにしても、この場所はこの表紙の《聖地》の雰囲気に良く似てますよね。

 P24 Robert B. Nichol は、4月4日に亡くなったこの方の愛弟子 James MacIntosh による追悼記事。
 多くの友人やパイパーにが参集した葬式では、“I got a Kiss of the King's Hand”“Lament for the Children”“Lament for Donald Duaghal MacKay”“Lamant for Donald Ban MacCrimmon”が演奏されたということです。(これだけで1時間を超えますね。)


 さて、このコンテンツ一覧の中、P19 に先月と同様の The Piobaireachd Society Annual Confernce という見出しがありますね。しかし、これはレポートの後半って訳ではなくて、「詩」です。
 Muriel Clayton という人が、自作のこの詩を夜の Ceilidhs(ケイリー)の時にストラスペイとリールのメロディーに載せて歌って、大いに受けたとのこと。

 そして、P5 にはちょうど一年前の1977年の年報がリリースされたところだということで、過去の“The Proceedings of the Piobaireachd Society Coferences”の宣伝が出ています。この時点で Vol.3(1975年)は売り切れ、Vol.2 と Vol.4 が残り僅かということです。


 さてさて、実は、本家“Piping Times”でも、過去の記事を振り返る FROM THE“PIPING TIMES”というコーナーが時々誌面に登場します。私が定期購読し始めてからは、この号が初めてでした。
 ちなみに、本家では 20年前と 10年前(つまり、今から50年前と40年前)の記事が紹介されるのが常でした。

 さて、今回 20年前(1958年)の誌面からは「我々が過去13年間(パイピングの)教室を運営してきたところから考えるに『少年たちは、どういう理由から教室に来るのか?』ということついて、7つの理由があることに気が付いた。それは、次の様なものである…」という記事が紹介されています。例によってイギリス人らしいウィットに富んだ文章を楽しんで下さい。


 P22 Donald MacPhee はシェーマスによる書き下ろしの記事で、“The Forgotten Man in Piping”というサブタイトルが付けられています。19世紀のパイパーで非常に多才な人だけど、今では殆ど忘れ去られているとのこと。今月はとりあえず2ページだけの記事が掲載されていて「次に続く…」ということなので、全文に目を通したところで紹介しましょう。
 ただし、これまでも紹介したとおり、パイピング・タイムスでよくあるのはこの「次に続く…」というのが必ずしも翌月号を示すとは限らないので、はてさて、その「次」というのがいつになるやら…。

1978年7月号

July/1978

Vol. 30/No.10

 P16 The Breton Piping School は、4月号の記事と同じスクールのレポート。ただし、4月号の記事は1977年のレポートですが、今回のは1978年のもの。例年6月開催だったのが、本年は4月に開催されたということで、早々にレポートが掲載されたようです。
 リポーターはつい先日(2008年6月)新しいピーブロック・アルバムをリリースしたばかりの、ブレトンパイプ界の重鎮、
Jakez Pincet です。

 7年目になる今年の講師は、 74年&76年に続いて James MacIntosh。この人、このスクールの講師を隔年で務めているようですね。
 参加者は前年よりは若干増えて、記念写真に写っている人数は20人を超しますが、それでも、なんともこじんまりとした和やかな雰囲気が伝わってきます。


 案の定、前月号の Donald MacPhee の記事のその「次」というのはやはり今月ではありませんでした。今月号には陰も形もありません。
 その代わりといっちゃなんですが、P22 〜は「続編がある」とは予告されていなかった、2月号Metrification and the Highlande Bagpipe Part2 です。

 前回は、Lengths、Mass and weight、Volume、Force、Time、Pressure、についてでしたが、今月号では、Frequency、Speed or Velocity、Tmperature、Energy、Power、Level、について。

 Frequency の項はハイランド・パイプの音色の周波数について。ちなみに、それはベース・ドローンの 114Hertz からチャンターの High-A の 914Hertz の範囲だということです。
 Hertz の単位はドイツ人の電波学者
Heinrich Hertz(1857〜1894)というようなことが紹介されています。

 Speed or Velocity の項は、音の伝わる速度についてで「平均的には 334m/s だが、気温によって微妙に変化する。」と、まるでどこかの中学理科の教科書のような記述が…。

 Tmperature の項はメートル法による摂氏(度C)の概念について、結構詳細に書かれています。なんせ、英国では華氏(度F)が使われていた訳ですから。
 (マイナス273度C=0度Kとする)絶対温度の単位となる Kelvin の単位の由来となった
Lord Kelvin(1824〜1907)は、ベルファスト生まれで、長年グラスゴー大学の自然科学部門の代表を務めたということです。

 Energy の書き出しは「我々は皆、石油や燃料の枯渇によるエネルギー危機について認識している。」とあります。う〜ん、1973年のオイル・ショックからまだ日が浅い頃ならではの記述。しかし、ちょうど30年後の現在はそれどころじゃないですね。

 まあ、それは置いといて、人間が歩くという行為においては消費されるエネルギーは、男性で 22,200joules/m、女性では 15,100joules/m だということですが、実はハイランド・パイプの演奏による消費エネルギーもこの徒歩行動とほぼ同等とのことです。(ウッソ〜!?)
 一方で、ハイランド・パイプから発せられる音のエネルギーの内、耳の鼓膜を震わせるエネルギーは僅か 2joules/m ということで、ハイランド・パイプという楽器は非常に「効率が悪い」楽器だとのこと。そんなこと、言われなくてもパイパーなら誰でも知っているワイ。

 エネルギーの単位 joule の基となった James Prescott Joule(1818〜1889)はイギリス人(イングランド人)の科学者とのこと。

 Power の項。パワーとは「一定の時間に発せられるエネルギーの量」ということで、ハイランド・パイプの音のパワーは、0.01〜0.02joules/s とのこと。1joule/s=1watt なので、つまりはそれはおよそ 0.02ワットに当たるという解説ですが、これだとエネルギーの項の説明との関連が解ったような解らないような…。

 どうやらここで言いたかったのは、ワットという単位の基になったお馴染みの James Watt(1736〜1819)が Greenock 生まれの生粋のスコットランド人だということらしい。

 Level の項では、エネルギーよりももっと分かり易い音の尺度「音のうるささ」の単位として、decibel(dB/デシベル)について解説。そして、ここでも、この単位の基になった科学者であり電話の発明者でもある、Alexander Bell(1847〜1922)は生粋のスコットランド人だと強調しています。

 このレポートの結論がふるっています。つまり「スコットランド以外の国々の人々から、ハイランド・パイプに対する関心が今後ますます高まる中で、この楽器のことを出来るだけ多くの人に理解してもらうためには、このような国際規格での表記の重様性が益々重様になるのです。」という風に締めくくられているんです。

 メートル法の基準になった様々な単位には、スコットランドの科学者が大いに関わっている、ということを知らしめることによってナショナリズムをくすぐることによって、頑固なスコットランド人になんとかメートル法に馴染んでもらおうという、ある意味涙ぐましいレポートといえるのではないでしょうか。

 最終ページには、代表的ないくつかの単位の対比スケール図が掲載されていました。


 1977年11月号(Vol.30/No.2)中とじ部分に、それまでの一年分(Vol.29)の総索引が綴じ込まれていたことは既に紹介しましたが、Vol.30/No.10 たるこの号に何故か Index to Volume 27 つまりほぼ3年前の 1974/10〜1975/9 一年分の総索引が綴じ込まれています。何故この号なのか?さっぱり訳が解りません。

 …ま、それはともかく、その一覧に目を通してみるとやはり興味を引く記事がいくつも目に付きます。

The Act of Proscription(75/8,9)→カローデンの戦い(1746年)に敗北しイングランドの支配下に入ったスコットランドは、この法律によりキルトの着用や全ての武装解除を命ぜられます。ハイランド・パイプも武器の扱いを受けてその演奏が禁じられ、それは法律が廃止される1782年まで続きました。スコットランドの人々の誇りを打ち砕いたこの法律に関して2回シリーズで扱っていますが、どのような記事だったのでしょうか? 読んでみたいものです。

・The Bagpipe in stone ; F. Collinson(74/10)→著名な民俗音楽研究者 Francis Collinson による記事。タイトルからして、石の壁面に彫られたバグパイプ奏者のレリーフに関するレポートのようですね。これも読みたい。

An analiysis of “A Complete Theory of the Scots Highland Bagpipe”; C. H. Woodward(75/3,4,5,6,7)→なんと5回シリーズで Joseph MacDonald のあの名著を解説しています。もちろん、現在では、Roderic Cannon の解説による復刻本がリリースされていますが、当時としては貴重なレポートだったことでしょう。

・5000 years of piping ; S. MacNeill(75/2)→ふ〜ん、「バグパイプの5000年の歴史」? 一体どんな内容だったんだろう。あ〜あ、これも読んでみたい。

・The pitch of the pipe ; S. MacNeill(74/12)→科学者としてのシェーマスの面目躍如なレポートでしょう。内容的には、後日、シェーマスの著書に引用されているものだと思います。

・The Park piobaireachd No.1& No.2 Historical note ; A. J. Haddow(75/2)→ Haddow の名著“The History and Structure of Ceol Mor”のリリースは 1982年ですし、それにはこの2曲のヒストリカル・ノートも収録されていますから、多分、その内容そのものだと思われます。

 う〜ん、それにしても、当時のパイピング・タイムスの中身ってのは、とにかく濃いですよね。

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