1977年の中国

 1977年10月に中国へ行った。その当時はデジカメはなかったのでアルバムだけ残っている。本文はその写真を見ながら記憶を掘り起こして、2017年に書いたものである。

 訪問先は、北京・大寨・杭州・上海。この頃はまだ自由に中国に渡航できる時代ではなく、中国からの招聘状がないと入れなかった。そこで中国が外国向けに発行している雑誌(人民中国、中国画報など)を定期購読している者の団体に参加して訪中する機会を得た。団の名前は「三誌友好の翼」で参加者は130人。

 期間は3週間だが、頭の2日は代々木のオリンピック村に合宿して、訪中マナーの教育があった。参観先では必ず歓迎会を開いてくれるので、その答礼に日本側も何か披露しなければならないとのことで、365歩のマーチなどを合唱できるように練習した。

 国慶節は参観先もそれぞれ祝い事があるので、それが過ぎてから北京秋天に合わせて、羽田から中国民航機で北京に飛んだ。機体はソ連製かと予想していたがボーイングの707型機だった。スチュアーデスは人民服。朝鮮半島の上を飛ばずに上海の上空を経由していった。上海の夜の灯りが薄暗いのに驚いた。灯火管制か、それとも電力事情が悪いのか。

 北京空港について受け入れ機関の人が出迎え。飛行場内の建物の照明が薄暗いのに驚いた。受入機関の人は、ほとんどが日本語が話せる人だった。マイクロバスに分乗して宿舎の友誼賓館に向かう途中、中国人同士で話すときも日本語で話していた。これはお客様(日本人)が心配しないようにという配慮かも知れない。

 友誼賓館に着いて、まず、「生水は飲まないよう、必ずポットのお湯を飲むよう」との注意があった。フロント脇の外貨両替コーナーは長蛇の列なので、先に部屋に入ることにした。荷物は各自が持って割り振られた部屋に入る。ボーイの姿は見えなかった。その後、外貨両替コーナーに行ってみたら、使っている電卓は東芝製だった。

 北京市内・上海市内とも銃剣付きの小銃を背負った2~4人連れの人民解放軍兵士が頻繁に巡察しているのに驚いた。鉄道の鉄橋も少々長いものは、両側に解放軍の歩哨が立っていた。まだ国民党分子が反革命の武力闘争を起こすことを警戒しているようだ。我々日本人の感覚としては、もう大陸で国民党が武力闘争を起こすことはないと思うのだが。

 北京市内の広い通りには、1年前に発生した唐山地震(公式発表でも死者24万)の際、被災者を収容した掘っ立て小屋が多数みられた。訪中したときはもう人は住んでいないようだった。


北京での見学場所

 朝早くホテル前に出てみたら自転車の大群が走っていた。道路の反対側はもう畑だが、そこにござで囲った公衆便所が建っていた。ござには「女厠」と大書してあった。反対側に回れば「男厠」と書いてあるのだろう。

北京大学
 入口は清時代に建てられたらしい赤門。中に入ると大きな毛沢東像が立っている。瓦屋根の三階建て位の建物が続いている。図書館を見学し、つづいて、小人数に分かれて日本語学科の学生と懇談会。こちらも覚えたての中国語を使いたいので中国語で話しかけたら、「勉強のため日本語で話してくれないか」と言われてしまった。参観を受け入れるには受入側にもそれなりの理由があることが分かった。最後に彼らと記念撮影をしたが、彼らも現在では国家の枢要な人材になっているのであろう(写真02)。

写真02 北京大学日本語科の一年生と座談会後の記念撮影

精華大学
 中国一の理工系大学なので実験設備等が見られるかと期待していったのだが、学生抜きの大学側との座談会だけでがっかりした。大学全体の年間予算と学生一人当たりの年間予算を質問したが、そういう定量的なことは一切答えてくれなかった。

故宮
 天安門広場から故宮に入るアーチ形の城門の大きいのに驚いた。日本の城郭とはスケールが違う。その通路の脇で地面に腹ばいになって小銃の射撃訓練をしているのにも驚いた。人民解放軍か民兵か。故宮に入ってからも各建物の大きさや広さに圧倒されながら参観した。大和殿前の階段の龍の彫り物は、大理石から彫り出したもので精巧だった。

歓迎宴
 北京烤鴨店で北京ダックの歓迎宴(写真04)を開いてくれた。北京ダックは最高にうまかった。10人の丸テーブルに日本側が5人、中国側が5人座っている。日本人の隣には必ず中国人がくるように配置してホスト役を務めてくれる。当方の皿が空になるとすぐさま料理をとってくれる。招聘状を出して招待するというのは受け入れる側も大変なのだ。

   写真04 ペキンダックでの歓迎晩さん会

 メインテーブルでは、中国側の歓迎の辞、日本側の感謝の辞、乾杯が型どおり進んでいる。これ以降の参観先でも同じパターンの繰り返しが続いた。歓迎の辞と感謝の辞が長いのが玉に瑕だ。

毛沢東記念館
 朝10:00頃天安門広場の毛沢東記念館(写真06)に着いたら、入場を待つ中国人民の長い列が延々と続いている。その脇を外国からの参拝者は優先して入ることができる。申し訳ないようだ。立ち止まらずに参拝してくださいとのことなので、ガラスケースに入った太い毛沢東の遺体を歩きながら眺めて記念館を出た。さすがに合掌している者はいなかった。 

毛沢東は1976年9月に亡くなったが、我々が訪中したころはまだ権力承継の過渡期で、「あなたがやれば私は安心だ」と書かれた、華国鋒と毛沢東が握手している大きな看板が、北京市内のあちこちに建てられていた。

写真06 毛沢東記念館(入場を待つ中国人の長い列ができていた)


歴史博物館
 人民大会堂は外から見ただけ。その対面にある歴史博物館は、半日見て回った頃、ようやく日本が出てきたので、歴史の長さの違いを実感した。

張香山講演
 中日友好協会会長の張香山の講演会が友誼賓館であった。通訳がついたので一時間に及ぶ長い講演だった。それを聞いていた、この友好訪中団を主催した書店の人は、「なかなかいい新しいことを言いましたね」と言っていたが、当方にとってはすでに聞いたことがある事柄の寄せ集めとしか感じなかった。まだ行間を読むことができないようだ。

頤和園
 ここはあまり時間がなかったので、長い回廊を通って石船を見た程度。万寿山に登るかと思っていたのに残念だ。北京市民にとっても手ごろな遊覧場所らしく大勢の人が来ていた。

前門・大柵欄の地下壕
 故宮から真南にある城壁の門だが、なかなか大きく高さもある。城門の上に五層の櫓が乗っている。周辺を歩いているのはみな人民服姿である。現在ではもう見られない光景である(写真10)。

 写真10 前門(当時の中国はみな人民服)

「この近くの大柵欄商店街の地下に外国から核攻撃を受けたときに避難する地下壕を作ってある」と案内された。外国人によくそんなところまで案内するなと思ったが、「そんな攻撃をしても我々には備えがある」ということを外国に知らしめるのが目的で案内しているのかもしれない。その地下壕で発電機と思われる機械の銘板を覗いていたら、「早く来い」と急き立てられた。発電能力を知られたくなかったのであろう。

天壇
 写真でおなじみの丸い伽藍だが、内部に入ってその大きさに驚いた。日本の神社仏閣とはサイズが違う。内部は極彩色に塗り分けられ、そこかしこに精巧な彫刻や螺鈿がちりばめられていた。

万里の長城(八達嶺)
 当時はロープウェイなどなかったので、麓の居庸関から高低差200mを歩いて登った。北からの匈奴の侵入を防ぐため、城壁には北側のみ矢挟間が設けられている(写真12)。途中で下ってくる解放軍兵士とすれ違ったが長城の傾斜はかなり急である(写真14)。頂上の堡塁に立つと、その先はまだ補修していない長城が続いていた(写真16)。

写真12 八達嶺の万里の長城(現在ではあの堡塁まで登るロープウェイがある)

写真14 万里の長城はこんなに急なところもある

写真16 堡塁から先はまだ補修されていなかった

明の十三陵(定陵)
 万里の長城の帰りに明の十三陵と十三水庫に寄った。見学したのは定陵の地下宮殿だけ。十三水庫に寄ったときは、随行員が「ここでは魚の苗を放流して育てています」と言ったので、申し訳ないが我々が大笑いしてしまった。稚魚という日本語を知らなかったのであろう。中国語では稚魚のことを魚苗というので、そのまま訳してしまったのかも知れない。

 定陵前の休み場所で紅衛兵がトランプをしていた(写真18)。同行した随行員氏の話によると「入学試験復活」が話題になっていたとのこと。文革が始まってから高等教育の入学試験は政治意識だけで決めていたが、やはり学力が必要という認識に戻ったようだ。

写真18 トランプに興じる紅衛兵(来年から入試復活が話題になっていた)

北京地下鉄
 北京駅から苹果園までの地下鉄1号線ができたばかりなので見学コースに入れたらしい。エスカレーターはかなり深く降りて行った。核攻撃時の地下壕も兼ねているとのこと。第三軌条式の地下鉄で、運転台には男女2人乗っていた(写真20)。1人は指導員かも知れない。車内の構造は窓側に一列の椅子が並んでいる(写真22)。日本のような長椅子ではない。中国の子供料金は年齢ではなく身長で決まるので、切符売り場には大人料金になる高さに線が引いてあった。

   写真20 北京の地下鉄1号線(運転士が2人?)

    写真22 地下鉄の車内

自由時間に行った所
・黄寺
 同行者に日本のお寺の住職の息子がいたので、北京に行ったら「黄寺」という名刹の様子を見て来てくれと頼まれていたらしい。私も文革の影響がどのように表れているか興味があったので、彼と一緒にその寺を尋ねた。ホテルの前に待機していたタクシーで出かけた。トヨタの車だったので、「日本の車はどうか」と聞いたら、「(中国の車と)同じだ」とぶっきら棒な返事が返ってきた。やはり中国人としての誇がそう言わせたのだろう。

 黄寺(ホワンスー)に着いたら(写真24)、名刹の面影は残っていたがかなり荒れ果てた感じだった。
入口には「工人大学」という看板がかかっていた。入って行ったら管理人らしき人が出てきて、ここは外国人は入れないところだという。彼が「父からかくかくしかじかと言われたので是非見せてもらいたい」と頼んだら、「説明はできないが境内を一回りするだけなら良い。ただし写真を撮ってはダメ」と言ってくれた。一回りして出てきたがその管理人はもう姿を見せなかった。

写真24 黄寺(文革で工人大学が置かれていた)

・広安門駅
 次に貨物駅の広安門駅に行った。まず駅本屋と思しきところに行って「日本の国鉄職員だが駅を見せてくれ」と頼んだ。技師という肩書の人が案内してくれた。アポイントなしに突然行っても見せてくれるあたり中国も懐が広い。

 5動輪の前進型SLに有蓋車・無蓋車が長々と連結されていた(写真26)。その後ろには冷蔵貨車らしきものが見える(写真26)。見たところエンジンを積んで走行中も冷蔵できる貨車のような気がする。日本は断熱構造の貨車に氷やドライアイスを積んで冷やす形式の貨車しかない。中国の方が進んでいるようだ。もしかしたらソ連からの国際貨物列車かもしれない。

写真26 広安門駅(貨物駅):前進型SLの後ろに冷蔵貨車も見える

 中国はまだコンテナ輸送はやっていないと思っていたが、木造の小ぶりなコンテナが並んでいた(写真28)。コンテナを積み下ろしするクレーンも設置されている。中国の貨物輸送は進んでいるようだ。旅客輸送より貨物輸送の方が圧倒的に需要が大きいからかもしれない。

    写真28 広安門貨物駅のコンテナヤード

 2か所の見学が終わりホテルに帰る途中、中国製・日本製・ソ連製の乗用車が並んでいるところに出くわした。すかさず写真を撮った(写真30)。

  写真30 左から中国製、日本製、ソ連製の乗用車

 ホテルに戻ったらホテルの前で全員揃った記念撮影の時刻ぎりぎりだった。早くその列に参加したいので、「おつりは不要」と言って少し余分なお札を差し出したら、「釣銭のないようにしてくれ」と言って受け取らない。「チップなどいらない」という中国人の誇りか? 頑固な運転手のおかげで列に並ぶのが遅れ、他の仲間に迷惑をかけてしまった。

 夕食の時、中国側の随行員から「黄寺でこれを落としたでしょう」と言ってシャープペンを渡された。相棒が落としたらしい。よく我々の所在が分かったなとびっくりしたが、訪中参観団には、全員、どのような団体で訪中しているかが分かるように胸に団体名をつけさせているので、外事弁公室に問い合わせれば直ぐわかるらしい。言い換えれば、誰がどんなところに出没したか、把握されていることが分かった。

中国側三誌との意見交換会
 人民中国の記事の書き方で次のような点を改良してもらいたい。
・生産高などの書き方が「昨年に比べて何倍になった」となっているが、これでは小学生扱いされた感じがするので、実数を書いてほしい。
・毛主席の書き方に必ず「偉大な指導者」などの枕詞が着いているので文章が読みにくい。枕詞をとってもっと読みやすい文章にしてほしい。
 と言ったら、会場がシーンと静まり返ってしまい、誰も答えなかった。

買い物
 その頃の為替レートは1元=25円ぐらいだったと思うが、中国での買い物は基本的に外国人用の友誼商店で買うよう言われた。友誼商店は元を兌換券に変えてから買うようになっていたので、実際価格の2倍ぐらいになるようになっていた。

テレビ
 テレビは半日分ぐらいしか放映時間がなく、どのテレビにも「節電」の注意書きが貼ってあった。番組は、ほとんどが革命京劇のように、解放戦争を賛美する内容のものばかり。四人組や文革批判が始まったと言っても、番組まではすぐに作り直すことはできないようだ。

琉璃廠
 書画・骨董の町、琉璃廠のたたずまいは清の時代の民家がそのまま残っている感じ(写真31)。文物には必ず国家の検定印が張り付けられていた。級が高くなるほど値段もぐんぐん高くなっている。私にはこういうものを見る目はないので、玉の蔵書印を買っただけで後はひやかし。

写真31 当時の琉璃厰(現在のように極彩色の店はほとんどない)


大寨の見学場所

夜行寝台で陽泉へ
 明日は大寨に行くので、北京西駅(?)から夜行寝台列車に乗って山西省の陽泉へ。北京西駅で出発まで時間があったので、寝台列車を牽引する機関車まで行って、「私は日本国鉄の労働者だが機関車を見せてくれ」と頼んだら、機関士が握り棒を拭きながら降りてきて、「さあ登れ」と合図する。出発待ちの緊張している時間に見せてくれるとは思わなかった。あとで写真を送るからと住所を聞いたら、勤務先(保定機関区)と名前を教えてくれた(写真32)。このあとも何回か中国人の写真を撮ったので送ると言ったら、皆、勤務先を書いてよこした。外国から個人宅へ手紙が着くと怪しまれるのかも知れない。

写真32 寝台列車を牽引するSLの機関士

陽泉駅
 陽泉は駅構内が石炭だらけという感じの駅だった(写真34)。駅本屋には「工業学大慶 農業学大寨」と大書されている。ホームには我々の乗るマイクロバスがすでに到着しているにもかかわらず、わずかな時間内に線路を横断して、解放型機関車と駅本屋とマイクロバスを納めた写真を撮る。当方のようにチョロチョロ動き回る参観者は、中国側随行員にとっては迷惑なのだろう。

写真34 陽泉駅構内の様子(赤い看板に「工業学大慶 農業学大寨」と書いてある)

天平の甍
 大寨に向かうバスの中から見えた農村のたたずまいは、歴史から抜け出してきたようだ(写真36)。このままで「天平の甍」のロケができる。

   写真36 大寨へ向かう途中の村落(昔のまま)

大寨
 大寨は農民が自力で、荒れた黄土高原を段々畑に改造して、自給自足できる以上の農産物を生産できるようにしたところだ。共産党が「農業は大寨に学び、工業は大慶に学べ」として宣伝したため一躍全国的に有名になった。これを手本に人海戦術による大躍進政策が推し進められた。この時期の外国からの中国参観団を必ず案内する場所となった。

 大寨に着いたら、自力で建てた煉瓦造りの集合住宅がビッシリ立っていた(写真38)。まずバスで現地に行き、その改造工事の数々を見学する。現地では写真40のように黄土の土壁の上に立ってメガホンで説明を受ける。水路橋(写真42)、直径40mの貯水池(44)、段々畑の石垣(46)。これをすべて村民が自力で作ったとは恐れ入るほどの規模だった(実際は共産党がテコ入れしている?)。すでに、黄土の壁に掘った洞窟住居(窰洞:ヤオトン)はなくなっていた。

   写真38 レンガを積み上げた大寨の集合住宅

     写真40 段々畑の現地で説明を聞く

  写真42 石とレンガを積み上げた大きな水路橋

     写真44 直径40mの大きな貯水池

  写真46 この石垣も人海戦術で作った(狼窩掌)

 貯水池の近くに発電小屋があった。貯水池の水を灌漑用に流す際の落差を利用して発電しているとのこと。発電機の銘板を見たら発電容量は30kwだった。昼間は農作業の動力として利用し、夜は各家庭の灯火として利用しているのであろう。各家庭60w電灯2灯として250軒に電灯をともすことができる計算になる。

 現地参観が終わると集会室に入って、締めくくりの意見交換会に入る(写真48)。この集会室の入口付近にいた幼児が、歓迎という意味か手をたたきながら「我愛北京天安門」を歌っていたのには驚いた(写真49)。この子たちが自然に歌いだしたのか、やらせなのか。通常、歓迎部隊に抜擢される子は可愛い子がほとんどなので、この子たちは自分たちで自然に歌い出したのであろう。この子たちの現在がどうなっているのか知りたいところだ。

      写真48 大寨での意見交換会

写真49 会場入口付近にいた幼児まで毛沢東をたたえる歌を歌っていた

    写真50 会場入口には幹部の心得が貼ってあった(幹部は人民に滅私奉公すべし)

 意見交換会の会議室に入る所に「幹部の心得」ともいうべきものが貼ってあった(写真50)。
「三条守則、两个必須、三个一样、四个不算、五个不准」と題して、幹部が従うべき掟が書いてあった。①私することをしない。幹部は特別な存在ではない。積極的に生産労働に参加する。②重病と長時間の外出会議を除き、男幹部は年340日以上、女幹部は300日以上、労働に参加すること。③幹部は一番早く出勤すること。会議は労働時間には参入しない。村での幹部としての執務時間は労働時間として数えない。等々・・・・

 「幹部は滅私奉公で人民のために尽くすこと」という新中国成立直後の共産党の精神がにじみ出ている。最近は大分堕落してきたようで、腐敗幹部摘発の報があとを絶たない。日本にいる中国人と飲んだ時、いみじくも言っていた。日本の役人は辞めても「渡り」で給料がもらえるが、中国の役人は辞めたらもう収入はないので、現役時代にせっせと袖の下を稼ぐのだ。

 この意見交換会でお菓子やたばこの接待があったが、たばこについてきた「大寨」というラベルを張ったマッチ箱を、参観者みなが記念品代わりに持ってきてしまったので、後で中国側随行員から「大寨にとってマッチは貴重品です。今後はそういうことをしないようにしてください」と注意を受けた。
その日の夜、また夜行寝台で北京に戻った。


杭州の見学場所

 北京から杭州までは飛行機で移動。随行員から「飛行機から写真を撮らないように」と注意事項が伝達された。雲は千切れ雲なので下界も見える。幅の広い茶色の水の帯が見えたので、あれが揚子江だろう。杭州空港にはミグ戦闘機も並んでいた。

杭州飯店
 まず、西湖のほとりにある杭州飯店に入り荷物を置く。入口には解放軍兵士が歩哨に立っている(写真52)。中国側随行員の説明では「外賓を守るため」とのことだったが、本当は、中国人民と外国人を直接接触させないため、中国人民がホテルに入るのを見張っているのではないか。
 部屋に入ったらベッドに中国の蚊帳がかかっていた。なかなか風情がある(写真54)。空調が入っていないので、夜は窓を開けて寝るらしい。確かに、夜になったら大きさ10cmぐらいのゴキブリが飛んできた。これでは蚊帳が必要だ。

写真52 ホテルの門には人民解放軍兵士が歩哨に立っている

 写真54 ベッドにかかる中国の蚊帳(なかなか優雅)

西湖
 まず西湖見物に出かけた。遊覧船で一回りし、柳が生えた西湖の堤防を散策した。ここは古より文人墨客が愛でたところなので作品も多い。訪中団の参加者の一人に画家がいる。彼が写生を始めると行く先々で中国人が集まってくる(写真56)。プロの画家なので人を惹きつけるものがあるのだろう。

写真56 団員のプロの画家が描き始めると中国人が寄ってくる

六和塔、雲隠寺
 六和塔は階段を何回転も廻って最上階まで歩いた。すぐ足元に銭塘江を渡る鉄橋が見えた。かなりの長大橋だ。雲隠寺は石灰岩の山が複雑に溶食されて、洞窟やら奇岩やら石仏やらが連なっていた。石灰岩を彫り込んで布袋様のような寝姿の仏像があった。頭がテカテカに光っているので中国人は皆、登って仏様の頭を撫でるのであろう(写真57)。

写真57 摩崖仏(中国人は仏像の頭を触りに登るので、頭はテカテカ)


杭州織物工場
 まゆを選別する工程、絹糸をつむぐ製糸工程(写真58)、糸から布を織る工程、布を織る工程では連続する型板をつかって自動的にかなり精巧な模様まで織り込めるようになっていた。さらに手作業で刺繍を施していた。手作業による刺繍はここでしかできない超精巧なものだった。 

        写真58 絹の製糸工場

 織物工場には模範労働者(労働英雄)を表彰する光栄台というのが設けられていた(写真60)。内容を見ると、生産実績が高い、政治思想が堅固であるというものだった。生産実績より政治思想の方が上位にランクされていた。文革の影響だろう。

     写真60 労働英雄の表彰台(光栄台)

鉄道サナトリウム
 中国国鉄の療養所とのこと。風光明媚な杭州でゆっくり静養と治療に努めてくださいという意味なのだろう。漢方の治療が主体らしく、竹筒治療(写真62)、四槽治療、針治療、蝋治療などを参観した。最後の意見交換会で、「SLの機関士や保線区員の仕事は特殊なので何か職業病のようなものはあるか」と質問したら、サナトリウム側の人も説明に窮していた。あまりそのような観点からは分析していないようだった。

    写真62 鉄道サナトリウム(竹筒治療)

 参観後、鉄道で上海まで移動。乗務していた女性列車員(写真64)が陽気で親切で、後々まで団員の間で話題に昇った。

写真64 陽気でよく気が付く列車員


上海の見学場所

 上海では和平賓館(写真66)に泊まった。歴史のあるホテルだけに内装も立派だった。ホテルの部屋からバンド公園が見下ろせる。太極拳の輪がいくつもできていた(写真68)。朝早くバンドに出かけたら、川岸の煉瓦塀の上に教科書を置いて勉強している若者がいっぱいいた。中国人はみな勤勉だ。明治時代の日本人のように「青年よ大志を抱け」の精神に満ち満ちているのだろう。
 女の子に教科書を見せてもらったら、三角関数の加法定理などのページだった。学年を聞いたら中学3年とのこと。日本より進んでいる。

  写真66 上海の宿:和平賓館

  写真68 部屋から見下ろせるバンド公園の太極拳

 和平賓館の出入り口には中国側随行員が四六時中待機していて、自由行動で外に出かける者には通訳としてついてきてくれた。これは有り難いが、本音は、外国人と中国人民を直接接触させないためではないか。中国の良いところだけを見て行ってくれということなのだろう。



上海工業博覧館
 工業製品を並べてある会館。日本人から見ればどれも陳腐な物ばかりなので、面白くなかった。「中国もここまで発展しましたよ」という目で見るべきだったか。

中国共産党第一回大会会場
 西洋風な建物の中の会議室には出席者12人分の湯のみが並んでいるだけ。当時は秘密裏に開催する必要があったので何の変哲もない建物をつかったのだろう。毛沢東が1917年に行った農村調査の経路図もかかっていた。

魯迅の墓・魯迅記念館
 魯迅の墓に花輪をささげてから、魯迅記念館に行った。記念館の看板は周恩来の字とのこと。
 ここに行く途中に、内山書店だったという建物の前を通った。いまは人民銀行になっていた。

孫中山故居
 ここは大きくて立派な邸宅だった。中華民国総統だったのだから当然だろう。日本人との交流を示す遺品も数々展示されていた。中国鉄路全図という、孫中山が考えた将来計画も含めた鉄道路線図がかかっている部屋があった。現在の中国鉄路と比べてみたいのだが写真が小さすぎて字が読めないのが残念だ(写真70)。

写真70 孫文故居にかかっていた将来の鉄道網(孫文が考えたものだという)


万年筆工場
 ペン先を作る工程では、①ペン先を金属板から打ち抜く、②ペン先に超硬金属を溶接する、③ペン先を適度に曲げるなどの工程が自動化され、ペン先の完成品が続々と出来上がっていた。
 意見交換会の際、「この工場は自動化が進んでいるが今後はどのようなところを改善するのか」と質問したところ、うれしい質問をしてくれたと言わんばかりに、工場側の技師が「今後は各工程間の製品の移動も自動化したい」と言っていた。ここは元、パーカーの工場だったとのこと。
 このように自動化された流れ作業で生産する工場では、工員の作業量に個人差がつけられないので、労働英雄はどのように決めるのかと質問したら、即座に「政治思想だ」という答えが返ってきた。

工人新村
 労働者用の4階建てアパートの団地を参観した。我々参観団の人数が多いので、10人ぐらいずつに分かれて参観した。数多くの家が参観対象になったと思われる。我々が参観した家は、奥さんが昨年退職してご主人はまだ勤めているとのこと。部屋に入ったら退職記念の額が飾ってあった(写真72)。退職のことは退休と書くらしい。男性は60歳定年、女性は50歳で定年とのこと。

写真72 退職記念の額(中国では退職のことを退休という)

 「お国にいるようにくつろいでください」というので、靴を脱いでベッドに上がり、日本式に胡坐をかいて話を聞いたが、後にして思うと、これは外交辞令で、日本式に座ってくれという意味ではなかったようだ。お恥ずかしい。部屋は2つで、1つが夫妻の部屋(写真74)、もう1つは子供達の部屋。台所は2軒で共用とのこと(写真76)。

 写真74 親(夫妻)の部屋、このほか子供部屋が1つ

        写真76 共用の台所

 団地内には共同作業場があり奥様方がブリキのおもちゃを作っていた。これを売って団地の共用費用に充当するそうだ。空襲を受けたときの退避壕も作ってあった。国の施策として常に臨戦態勢で臨んでいるのだろう。

郵便局
 団地内の郵便局も案内してくれた。「為人民服務」という標語がまず目につく。4種類の貯蓄コースが壁に貼ってあった。それぞれ利息が書いてあったので、中国側随行員に「利子はどこからでてくるのか」と意地悪な質問をしたら、「もう忘れた」と議論を回避していた。

崋山病院
 ここは漢方系の病院らしく針麻酔で外科手術をしていた。手術室の真上に覗き窓があり、二階からガラス窓越しに手術の様子を見学できるようになっていた。手術中を覗かせるとは驚き。

中学校、小学校、幼稚園 少年宮
 中学校には工場(電気部品の組み立て)や農場(アヒルの飼育)があり、それを売って学校の経費の一部にしているとのこと。これも文革の自主独立の精神に由来するものらしい。廊下にかかっていた黒板には同じ週内に「外賓参観」と2回書かれていたので、この学校は模範校としていつも参観の対象になっているのだろう。

 少年宮に行ったときは、四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)打倒の寸劇を、子供たちが演じていた。まだ何も意味が分からないまま、教えられたとおりにやっているのだろう。

 幼稚園に行ったら可愛い子供たちが「出た出た月が」を踊ってくれた。外賓に合わせて出し物を変えているのであろう。ホールの壁に「不喝水喝开水(水を飲むな、お湯を飲め)」と書いてあったので、「幼稚園生が漢字を読めるのか」と質問したら、「わが国には漢字しかありません」と言われてしまった。

自由時間に廻った所
・食堂
 一度は随行員の見張りをちょろまかして一人で外に出た。当方の中国語はたどたどしいが標準中国語なので上海人も分かるが、上海人が話す中国語はさっぱりわからない。筆談が多くなった。セルフサービスの食堂に行ったら、食べ終わったあとの食器の置き場所が、病気のない人、伝染病の人、の2カ所に分かれていた。これには驚いた。中国は何でもあけっぴろげにしてしまう社会だ。日本人だったら自分が伝染病だというのを隠したがるのではないか。

・ビル工事
 あちこちでビル建設工事をしていたが、外壁の足場は丸太で、作業員がかぶっているヘルメットは籐のつるで編んだものだった。まだ鉄鋼生産が追い付かないのだろう。

・本屋
 空き時間に街に出て本屋(写真78)に行ったら、本の陳列棚の前にカウンターがあり、その中は店員しか入れない。本を見たいときは店員に頼んで取ってもらう方式になっている。不便なものだ。この方式は北京でも上海でも同じだった。

写真78 本屋は客が本を自由に取れない形式(店員に頼んでとってもらう)


・意見交換会で出される茶菓
 一般的には写真80のようなものである。左から、タバコ+マッチ、ヒマワリの種、南京豆、リンゴ、飴、お茶。お茶は花茶(ジャスミン茶)で、浮いている茶葉を飲み込まないよう、蓋をわずかにずらした隙間から飲むのが上手な飲み方のようだ。

写真80 ヒマワリの種やカボチャの種がよく出たが、口に含んで皮を剥ぎ取るのが難しい(中国人は上手)


 1977年の訪中を一言で締めくくるならば、解放前に比べれば格段に豊かな生活になった。それでも日本よりはかなり貧しい生活水準だが、皆同じように貧しいので、いがみ合いは少なく、心豊かに人生を楽しんでいる感じだった。

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