ヨーロッパの戦跡(ノルマンジー)

 2012年9月に第二次大戦のノルマンジー上陸作戦の舞台となった戦跡をフランスの知人の案内で見学した。ガラクタの残留武器を展示したミュージアムや土産物屋が多く、商業主義に押し流されている感じの戦跡だった。

 

第1日目(曇りのち晴れ)

 成田発10:25のスイス航空チューリッヒ行きに乗った。スイス人と結婚し、現在はチューリッヒに住んでいるという奥さんと一緒になった。男の子を2人つれて乗っていたが、上の男の子は5歳だというのにドイツ語と日本語がペラペラ。日本語は今回の里帰りで2ヶ月日本の幼稚園に通っている間に覚えたとのこと。子供の言葉を覚える能力に驚いた。

 座席は翼の上で下界が見えない。暇つぶしに機内の気圧が平地と同じかどうかを気圧式の高度計で調べた。高度計が1500mになるまでは15分だったが、1800mまでは2時間ぐらい、2000mまでは5時間ぐらいかけて上昇していた。旅客機はいつも平地と同じ気圧になるよう与圧しているのかと思ったがそうではないことが分かった。

 

第2日目(晴れ)

 今日はパリ市内を見物。軍事博物館(写真01)とナポレオンの棺を見て、午後はモンマルトルに石灰石採掘跡の洞窟を見に行った。サクレクールの前では、ピンクのドレスの女性と白い礼服の男性が、プロのカメラマンに写真を撮らせていた(写真02)。話し言葉から中国人であることが分かった。中国人もこんなところで晴れがましい写真をとることにあこがれるようになったか。毛沢東の頃と大違いだ。

         写真01 パリの軍事博物館

  写真02 モンマルトルで結婚記念写真を撮る中国人カップル

 

第3日目(曇り)

 今日と明日はノルマンジーの戦跡をまわる予定である。出発駅のサンラザール駅で構内の写真を撮っていたら、黒人の係員が来て「写真撮影は禁止だ」というジェスチャーをした。ターミナルホームの写真を撮っているだけなのに信じられない。フランスもテロ警戒で神経質になったのか、単なる嫌がらせか。

 2時間ほどでカーンについた。フランスといえど結構暑い。Hertzに行って自動車をレンタルする。係員が一人しかいないので時間がかかる。約1時間近くかかってやっと車に乗れた。まずペガサスブリッジを見にゆく。

 この橋はノルマンジー上陸作戦のとき、英国の空挺部隊が、グライダーで強行着陸して占領したところだ。ドイツの援軍が来るのを遮断すると共に、上陸した連合軍がパリに向けて進撃するために、真っ先にこの橋を確保する必要があったのだそうだ。

 落下傘ではなくベニヤ板のグライダーを使ったところが面白い。近くの博物館で写真を見ると、落下傘では運べない、ジープや小さな山砲もおろす必要があったのでグライダーを使ったとのこと。ベニヤ板なので着陸時に大破したグライダーも多かったようだが、乗員・積荷はほとんど無傷だったようだ。橋のそばにある記念博物館には当時の大破したベニヤのグライダーも展示してあった(写真03)。

   写真03 強行着陸したベニヤ製のグライダー

 

 ペガサス橋は新しい橋に取り替えられているが、昔とほぼ同じ形の鋼鉄製跳ね橋(写真04)である。この下はカーンにゆく運河なので、昔から船が通れるよう跳ね橋にしていたらしい。この橋の名前は元は別の名前だったが、強行着陸した英軍部隊の腕章がペガサスだったことからペガサスブリッジと名前を変えたそうだ。

         写真04 ペガサスブリッジ

 強行着陸して、橋を守るドイツ軍を鎮圧した後、最初に行ったのは橋に仕掛けられた爆薬を取り除く作業だったそうだ。ドイツ軍がこの橋を爆破して撤退したら、ノルマンジーに上陸した部隊がパリに向かうのが困難になるからだ。

 駆け足でペガサスブリッジを見て、次はノルマンジー中央部のバイユーに行き、有名なカテドラルを見た。昼食後、カテドラルを一回りしてみたが、彫刻が凝っていて、教会の尖塔も恐ろしく高い。内部は天井も高く内装も美しい(写真05)。よくまあ、こんな田舎町でこんな立派な教会が建てられたものだ。教会の周囲を歩いていったら、教会の壁に何か悪魔の飾り物が貼りついている。近づいてよく見たら本物の人間が魔法使いのような格好をして壁にへばりついているのだ。これもパフォーマンスらしく、前に小銭を入れる空き缶が置いてあった。

   写真05 バイユーの美しいカテドラル

 

 午後はノルマンジーに上陸した連合国軍の中で最も苦戦したという、米軍担当のオマハ海岸に行った。海岸付近の農家はみな灰色のくすんだ日干し煉瓦づくりで、いかにも当時そのままという感じ。海岸に出たら砂浜に剣の刃のようなオブジェが出来ていた。戦争当時の姿を見たい者にとって、これはかえって邪魔だ。海に面した斜面に、ドイツ軍の対戦車砲のトーチカが残っていた(写真06)。この重砲で狙われたのでは上陸部隊も大変だったろう。そのトーチカの上に米軍の勝利のモニュメントが作ってあった。

     写真06 ドイツ軍の対戦車砲が入ったトーチカ

 丘の道に上がったら、道路沿線は多少の残置兵器を見世物にした土産物屋や自称ミュージアムばかり。まさに戦争を売り物にしている感じで、なんともいただけない。あるミュージアムの店先に高さ3mぐらいの錆びた釣鐘状の砲塔らしきものが置いてあった。その厚さ20cmもあるような砲塔に、あちこち砲弾が命中した穴が開いていた(写真07)。その穴が中にめりこむ形ではなく、内から外に弾けるような形になっていたのには驚いた。鉄は一瞬にしてこのように塑性変形するのか。

      写真07 金属製砲塔に命中した弾の跡

 

 ここから西方に20分ほど走って、米軍が一番苦戦したというドイツ軍のトーチカに向かう。その砲台の名前はPoint of HOCと呼ばれている。HOCはフランスの地名でオークと発音するらしい。このトーチカは上陸作戦のときに沖合いの米軍艦艇から徹底的な艦砲射撃を受けたので地面が大きな穴だらけになっている(写真08)。それでもトーチカの分厚いコンクリートは持ちこたえ、しかも海側は50m近い垂直な崖となっているので(写真09)、上陸部隊を苦しめたようだ。

   写真08 最も激しい戦いとなったHOC  艦砲射撃や空爆で穴だらけになっている

写真09 この崖をロープで登ってゆくとドイツ軍の狙い撃ちにあった

 ここの上陸作戦の話は、映画「史上最大の作戦」にも描かれている。上陸用舟艇から、敵の弾雨の中を、なんとか垂直な壁の下までたどり着いたコマンドが、先端に鈎をつけたロープを打ち上げて、崖上端の鉄条網に引っ掛け、そのロープを一人ずつ登って、トーチカに肉薄するというものだった。上にはドイツ兵が待ち構え、機関銃で撃ちまくっているのだから犠牲も多かったろう。この海岸防衛施設はロンメル将軍の指揮で作ったものだそうだ。

 もっとも、オマハ海岸で米軍が苦戦したのは、作戦面でもチョンボがあったと解説されている。5kmも沖合いから戦車に浮き袋をつけて海に浮かべて上陸作戦をしたので、海岸に着くまでに多くの戦車が沈没してしまった。トーチカの正面で上陸するものだから、上陸用舟艇の前扉を開けるとドイツ軍から狙い撃ちされ、上陸用舟艇から飛び出すところで大量の戦死者を出した。あまりにも犠牲が多いので、上陸作戦を途中で見直そうとしたため、指揮不在の時間帯があった。など、など。資料によるとノルマンディー上陸作戦での米軍の死者は4400人とされている。硫黄島の米軍死者数は6800人なので、硫黄島の闘いの熾烈さが推し量られる。

 HOCのトーチカは、砲撃結果の監測用トーチカ(写真10)と砲座用トーチカ(後にロン・シュメールで紹介)と高射砲用(写真11)の3種類があるようだ。監測用と砲座用はともに分厚いコンクリートの屋根に覆われているが、高射砲用はむき出しである。監測用のトーチカには高さ20cmほどの横に広い監測窓があるが砲塔はない。

         写真10 監測用トーチカ

         写真11 高射砲砲台の跡

 

 そこを出てからまた一時間ほど走ってサン・トメール・エグリーズについた。もう18:30だが、日も高く明るい。日本とは違う。ここは、米軍の空挺部隊が降下したとき、運悪く町の真ん中に降りてしまい、ドイツ軍から狙い撃ちされ、多数の犠牲者がでたところだ。ある隊員は落下傘が教会の塔に引っかかって宙吊りになり、そのまま一昼夜、死んだふりをしていて助かったとのこと。

 その教会がこの町の名所となっている。小さな町なので教会も豪壮とはいえないが、それでも塔の高さは30mぐらいある。その20mぐらいのところに宙吊りになっていたようで、本物の落下傘とマネキンで当時の様子を再現してあった(写真12)。教会に入ってみたらステンドグラスも、マリア様を中心にして、落下傘で降下する空挺隊員の姿が多数描かれていた。あまりにも観光に利用しすぎている感じだ。

    写真12 教会の塔に宙づりになった空挺隊員

 この町の名所はここだけなので、そうそうに切り上げて、今日の泊まり場所カランタンには21:30頃ついた。それでもまだ明るい。今日の宿は街角にあるピンク色の可愛らしいホテルだ。近くに、町の地図を書いた看板が立っているが、現在地の印が入っていないので、ホテルが何処にあるか分からない。フランスではこんな地図で文句が出ないのか。日本の案内図の方が合理的だ。

 

第4日目(曇り)

 カランタンの付近は、道路わきに広がる牧草地の境界が、すべて潅木の茂みになっている。ノルマンジー上陸後、内陸に進軍する連合国軍を、ドイツ軍がこの茂みに潜んで攻撃を繰り返したので、連合国軍も大層手を焼いたらしい。

 一般道路でも国道は制限速度が110kmになっている。日本人としては「そんなに出して大丈夫か」と心配になるが、道路は空いている。交差点はすべてロータリー式であり信号はない。各分岐ごとに○○方面と書いた看板が建っている。道不案内なところではロータリーを2周も3周もして看板を確認している。

 

 車で一時間ほど走って、今日の最初の見所「ロン・シュル・メール(Longues-sur-mer)」についた。駐車場に車を止め、少し歩いたところに砲台用のトーチカが4つほどあった。トーチカの屋根は1m以上の分厚いコンクリートで、前面が開いて、口径150mmほどもある大きな砲が残っている(写真13)。砲身も長い。厚さ1cmほどの装甲板で囲まれた操縦席も残っていて、当時の状況が良く分かり生々しい。

  写真13 砲座用トーチカ(コンクリートの厚さがすごい)

 砲座用トーチカは前面のコンクリートが大きく開け、巨大な砲が突き出している。そのトーチカの中に入って見ると、入り口の階段を狙える位置に銃眼がついていて、トーチカ一つ一つが独立した陣地という構造になっている。

 海岸の東側、そう遠くないところに、大きなケーソンを何個も海に浮かべたような光景が広がっていた。多分、あれが物資揚陸用に連合国軍が作った桟橋だろう。海が大荒れになると度々壊れるので、その維持には手を焼いたそうだ。

 車で20分ほどで、その揚陸用桟橋のある港についた(アロマンシュ・レ・バン)。いまでは各桟橋ブロックがバラバラになってしまっているので桟橋という感じはしない(写真14)。

    写真14 物資揚陸用桟橋(ケーソン)の残骸

 小さな町だが店も観光客も多く、非常に賑わっていた。例によって例のごとく上陸用舟艇や大砲や戦車を並べ立てたミュージアムがあった。

 ここはアロマンシュ・レ・バン(Arromanches-les-Bains)という町らしい。まさに、戦場であったことを売り物にしたつまらない町だった。そこで昼食。レストランも混んでいてかなり待たされた。

 

 最後はドイツ軍のレーダー基地跡に寄った(49.17.08 N, 0.24.10 E)。一面平らな農地の中に、鉄条網で囲まれたレーダー基地跡があった。入場料を払って施設の中に入る。レーダーやアンテナだけが地上にあり(写真15)、その他の施設はすべて半地下化されている。

        写真15 ドイツ軍レーダー基地の跡

 これだけ立派なレーダ基地を作ったということは、イギリスからの反抗作戦を警戒したのだろう。一面の芝生の中に大きな丸いレーダーアンテナがある。その操縦室もついている。こんなむき出しの操縦席で大丈夫なのか。いつ敵機に襲われるか分からないのに。半地下式の施設の数は全部で5つぐらいだった。トーチカの屋根には丸いマンホールのような穴があいていた。ここに対空機関砲を設置していたのだろう。

 これでノルマンジー戦跡の旅も終わった。チョット商売っ気過剰で、深く胸に刻まれるという戦跡ではなかったのが残念だ。16時ごろレーダー基地を後にしてカーンへ向かった。

 

トップページに戻る場合は、下の「トップページ」をクリック