杉山神社めぐり

(注)杉山神社分布図も一緒に表示したい場合は、別途、インターネットを起動し、「杉山神社分布図」も表示してご覧ください。

 横浜市東部を流れる鶴見川流域には杉山神社という名もない神社が50もある。地元の郷土史家が書いた「杉山神社考」によると、起源は、弥生時代に鶴見川流域に入植した豪族の守り神だったようだ。
 平安か鎌倉の時代に朝廷が神社名鑑を作ると言うので、朝廷に覚えのめでたい神様(日本武尊、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、五十猛尊(いそたけるのみこと)等)を祭神として届け出て、式宮(国家により認められた神社)に列せられ、名鑑にも載ったとのこと。もっとも名鑑には4000もの神社が載っていたというので、届け出のあった神社をすべて載せたのかも知れないが。

 江戸時代に書かれた「新編武蔵風土記」によると72もの杉山神社が紹介されているが、今は50ぐらいしかその存在が分かっていないらしい。各杉山神社を廻ってみると、その理由が分かるような気がする。
 神社に行けば大抵の場合「由緒記」の看板または石碑が建っているが、杉山神社は名もない地域の氏神様なのでそれすら建っていないところが多い。由緒記を読むと、人間の都合で神社の統廃合をくり返し、神社名が全く変わっている。そのため、由緒記がなかったり、由緒記にしっかりした記述が無ければ、杉山神社を合祀したかどうか分からない神社が多いからだ。

 昔は部落ごとに氏神様をもっていたが、人口が増え部落単位の地域社会から町単位の地域社会になると、部落ごとに違う日に祭りを行うのは煩わしいので、町単位で一つの神社にしたいというニーズが起きてきた。そこで、3つ4つの神社を合祀して名前を変えてしまった。例えば、①神明社と杉山神社と八幡宮を合祀して町の名前をとって太尾神社としたり、②代表格の神明社名を引き継いだり、③八王子神社と杉山神社を合わせて八杉神社としたり。まさに神社名は人間の都合で気ままに命名されている。合祀した神社の数が多いほど祭神の数も多くなっている。

 神社名が全く変わっているので、由緒記に記録がなければ、72の杉山神社が現在何という神社になっているかを特定するのは極めて難しい。
 これで郷土史家がライフワークとして取り組んでも50までしか分からなかったようである。このことから逆に、神様って意外に、人間どもの都合に柔軟に対応してくれるのだなという気がする。

 中にはこんな由緒記がある神社もあった。5つの神社を合祀したが、しばらくして、「やはり地元に神様が欲しいね」と言いだす部落が出てきたので、その地元の神様を分祀して、地元に元の神社を復活したとのこと。神様は合祀だけでなく分祀もできるようだ。
 こうなると神様の存在なんてそっちのけで、人間の都合だけで神社が存在しているという感じである。神様は心が広く、人間の願い事は何でも聞き届けて下さるようである。

 以下、50もの杉山神社めぐりで知得した事柄を紹介して行こう。神社に詳しい人から見たら、こんなの常識だよと笑われそうだが。

1.神社の建物
 神社には通常、鳥居・狛犬・拝殿・本殿・神楽殿・社務所・神輿倉などが揃っている。杉山神社となると村の鎮守様的存在の神社が多いため、無人の神社が少くない。無人の神社の場合は社務所がないこともある。ただし以前は神主がいた神社もあるので、その場合は社務所が残っていて、地区の集会所として使われている場合が多い。
 社務所があっても、そこに住んでいるのは神主とは限らず、単なる管理人の場合もある。次の神主が見つかるまで、地域住民が交代で管理人を務めているケースもある。中には「管理人募集」の張り紙を出している神社もあった。

 神主が常住していない場合は、「祭事は○○神社にご連絡ください」という看板が出ていることもある。地元の人に聞くと、七五三など大勢の人が参詣に来るときは、地元の神社に出張して祭事を執り行ってくれると言っていた。

 神楽殿については有人無人を問わず、無い神社のほうが多かった。空襲で焼けて再建費用を調達できないのであろう。再建費用は氏子の浄財をあてにしなければならないので。

2.神社の向き
 神社の本殿は通常、東向きに建てられているものが多い。それに合わせて参道や鳥居も、事情が許す限り東から入るようになっている。地形的制限や、近接住宅地との関係で東に延ばせない場合は、本殿の向きとは関係なく、適当な方向に参道が延びている。それでも鳥居だけは、東向き又は南向きになる位置に建てられていることが多い。
まれには、本殿や鳥居が西向きに建てられている神社(川崎市西生田の細山神明社)もあるが、それには理由があり、由緒記の中にその理由が記載されていた。その部分を抜粋しよう。

「はじめ、社を東の方に向けて建てたところ、一夜にして社殿が西向きになっており村人が驚いて東向きに直すと、又一夜にして西向きになっている。こんな事が三度もあって村人が不思議に思っていたある夜、名主の枕元に神様がお立ちになり「この神明社は細山村の東の端にある。東を向いて社を建ててしまっては大事なわが細山村に背を向けてしまいお前たちを守る事が出来ない。これを西向きにして村全体が見えるようにすれば、いつも氏子を守っていられる」とお告げがあったので、社を西向きに建てたとのこと。

3.狛犬
 狛犬は通常、拝殿の前か鳥居のすぐ後ろに、左右対で設置されている。Wikipedia によると、「本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。
 一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、古くは角を持っていた。鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化されたものが出現しはじめ、昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来「獅子」と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い」 とのことである。

 杉山神社の様な名もない神社となると、必ずしもこのような形式にとらわれず千差万別である。
 狛犬は通常、何らかの獣(邪気の代名詞)を押さえつけている阿形(あぎょう)と、毬に足を置いている吽形(うんぎょう)から成っており、阿形が右、 吽形が左に配置されるのが一般的である。
 左右の配置も、毬や獣の有無も自由奔放に変わっている。中には獣を自分の子供のように慈しんで抱きかかえている像もある。狛犬を彫った石工の名前も年代もないものも多い。

4.由緒記
 由緒記 or 縁起記はその神社の由来を記録したもので、何年に創建され、祭神は誰で、どの神社とどの神社を合祀して現在に至ったか、祭日はいつか、別当寺はどこか、宝物は何かなどが書かれている。
 由緒ある神社には由緒記を彫った石碑が建っているが、杉山神社クラスとなると、木製の看板にペンキで書かれているものが多い。中には町内会の掲示板のようにガラスの掲示板の中に紙で張り出したところもある。それでも由緒記があればまだいい方で、それすら無い神社がかなりある。

5.別当寺
 お寺さんは大抵の場合、住職がいて、地域の冠婚葬祭を取り仕切っているが、神社はお寺の数よりずっと多いので、昔から神主のいない無住の神社がたくさんあったようだ。そこで江戸時代までは、近くのお寺が無住の神社の管理をしていた。それを別当寺という。無住の神社の場合は、神社の重要文物や宝物は別当寺が預かっていた。だから、大抵の場合、神社の近くにはお寺さんがあり、由緒記も別当寺で記録していた。
 明治以降の神仏分離令で神社と寺を完全に分けた時、別当寺が神社の由緒をしっかり記録していたかどうかによって、神社の由緒の不明度合いが異なっている。

6.空襲との関係
 新編武蔵風土記に記載された地名の近くに何らかの神社はあるのだが、杉山神社の流れをくんでいるのかどうか不明な神社が多い。特に太平洋戦争の空襲で丸焼けになった地域に多い。神社の由緒記や文物が焼失してしまっているからである。
 具体的には、川崎市(上丸子、小倉、小田)、横浜市(駒岡、東蒔田、斉藤分(現在は神奈川本町)、羽沢)などにあった杉山神社が所在不明になっている。この地域は空襲で丸焼けになった地域と重なっている。

7.特徴のある杉山神社
・鴨居の杉山神社
 通常、脇宮といえばお稲荷さんや八幡様と相場が決まっているが、ここの脇宮は珍しく大山合阿夫利神社と榛名神社が祀られている。

・鉄町の鉄神社
 桐蔭学園大学の入口にある神社。というより神社の周りを桐蔭学園が買い占めたのだろう。桐蔭学園に入って行くと神社がある感じである。入口に乃木大将筆の「日露戦役記念碑」がある。境内は山と森に囲まれ神々しい。

        写真02 鉄神社の狛犬と本殿

・佐江戸の杉山神社
 神社参道の入口と別当寺の入口が並んでいる。神主不在の寂しい神社だが、拝殿の彫刻は一見の価値 あり。

       写真04 佐江戸の杉山神社の彫刻

・八朔の杉山神社
 参道入り口に「延喜式内社武蔵総社六之宮 杉山神社」という石碑が建っていたので、かなり格式のある神社らしい。府中の大國魂神社とも関係があるようだ。石段を何段も上って拝殿に達する。林で囲まれ神社の雰囲気はよいが、無住の神社らしく、社務所も神楽殿もない。隣に深い緑に囲まれた別当寺の極楽寺がある。

     写真06 延喜式内社武蔵総社六之宮の石碑

・茅ヶ崎の杉山神社
 センター南駅の近くにある。中段に赤い鳥居の建っている急な石段を登って行くと本殿に達する。杉山神社の総鎮守ではないかと言われている割には、神主無住で神楽殿もないが、森で囲まれ神社らしい雰囲気の神社である。

    写真08 茅ヶ崎の杉山神社石段

・新羽の杉山神社
 参道入り口には武州新羽郡総鎮守杉山神社と書かれた石碑が建っている。拝殿は珍しく切妻型屋根の妻側から参拝するようになっている。

写真10 新羽の杉山神社は切妻型屋根の妻側から参拝する

・北新羽の杉山神社
 道路拡張のため、参道の階段は途中で断ち切られ、そこから下は直角に右に曲がっている。狛犬の前に招福祈願用のねずみの像が置かれている。説明には「男性は右のオス、女性は左のメスの台座を一回転しながら願い事を唱えて下さい」と書かれている。

  写真12 道路拡張で曲げられた参道

     写真13 ネズミの願掛け像

・新吉田の杉山神社
 無住のかなり荒れ果てた神社であるが、ここが杉山神社の総鎮守であるとする説もある。当方が杉山神社に興味を持つ以前から25年以上も散歩で通っている神社で、南北に参道がある。南側はコンクリ ートの階段であるが100段近くある。北側の参道は石造りで鳥居も風格がある。以前は神楽を奉納していた神楽殿も、今では荒れ果てて使っていない。境内に古い巨木があるので、茅ヶ崎の杉山神社より、ここを総鎮守とする説にも一理ある。

         写真16-1 拝殿                  写真16-2 荒れ果てた神楽殿

・川島町の杉山神社
 宅地開発が直前で止まり一応緑に囲まれているが境内はなんとなく雑然としている。拝殿の彫刻は見事である。脇宮に立派な杉山稲荷神社を従えている。社務所は無いが神楽殿は堂々たるものである。

         写真17 本殿の見事な彫刻

・星川の杉山神社
 ここは神主も常住し、現在でも近郷近在からの参詣者でにぎわっている。本殿の彫刻が見事であり、脇宮は伏見稲荷となっている。残念ながら神楽殿は無い。

        写真19 星川の杉山神社全景

・西久保の杉山神社
 国道1号の拡幅により境内がだいぶ狭くなったようで、急な階段を登って拝殿に達する。山の斜面に沿って本殿が拝殿より一段高いところに建てられている。

   写真21 西久保の杉山神社:拝殿と本殿の位置関係

・片倉の杉山神社
 都市化の波に洗われて神社の周りだけ少々緑が残っている。直前まで使っていたと思われる社務所・神楽殿がある。神職が辞めてしまった(あるいは亡くなられた)らしく、現在、後継者を探しているところのようである。

・菅田町猿渡の神明社
 小高い山の上にあり、周囲は田園地帯である。杉山神社等4社を合祀したと由緒記にはある。ここで珍しいのは拝殿と本殿が別々の建物として建っていることである。この神社の神楽殿は、昔から見なれた、神楽殿らしい神楽殿である。

  写真23 猿渡の神明社:伝統的な神楽殿が健在だった

・南太田の水天宮
 神主常住で現在も活発に参詣客を集めている。境内は全部石が敷き詰められ、拝殿には水天宮と杉山神社の額を2つ掲げているところが珍しい。

     写真25 2つの額がかかる南太田の水天宮

・岸谷の杉山神社
 自動車道路から両側に住宅が建っている長い階段状の参道が続く。ここの住人は自動車が使えないだろう。この神社の狛犬の顔はちょっと変わっている。境内は併設している幼稚園児の歓声で満ち溢れていた。

  写真27 岸谷の杉山神社:変わった顔付きの狛犬

    写真28 岸谷の杉山神社:拝殿と幼稚園児

・末長(新作)の杉山神社
 自動車道路から入る方向は裏口である。表参道は東側の住宅街の中の細い道である。階段の欄干も拝殿・本殿も朱塗りである。今日は何か神事が催されるらしく、きれいなご婦人の神主さんが白装束で準備を していた。

        新作の杉山神社の表参道    ← 写真30 →     きれいな女性の神主さん

・読売ランドの杉山社
 駅から川を渡って東向きに進む。右手に「杉山神社入口」と書かれた看板のあるところから、長い石段を登って、長い長い南西向きの参道をたどると、右手に東向きの鳥居と本殿がある。この参道は杉山神社の中で一番長い。

・成瀬の杉山神社
 この付近には5つの杉山神社があるが、ここが一番賑やかだった。訪問した日が何かの祭礼日だったらしく、氏子一同が、幟を立て、社務所の集会室に長テーブルを並べていた。残念ながら社殿はコンクリート造りである。

・三輪の椙山神社
 由緒記に寄れば、「この地の山のたたずまいが奈良の三輪山に似ていることから、元慶元年(877年)に勧請されたと伝承されている」とのことである。山の麓まで住宅が押し寄せているが、山自体は緑が残り、境内の雰囲気も良い。杉山神社に椙山の字をあてたのはこの神社だけである。もうひとつ菅田町に 杦山神社という字を使っている神社があった。

      写真32 三輪の椙山神社の鳥居と石碑

・平尾の杉山神社
 緑が残る山に鎮座する神社で、参道の両側には紫色の幟がずっと立てられていた。幟には寄進した氏子の名前が書いてあり、氏子総出で神社を盛り上げている感じである。参道は男坂と女坂が設けられ、それぞれ立派な作りだった。

  写真34 平尾の杉山神社:参道の両側に立つ寄進の幟

・葉山の杉山神社
 一番遠くにある杉山神社である。由緒記によると、「昔、土人神像を海中より得たり、折しも除日(大みそか)のことにて、歳終繁劇の間、杉葉を集めて仮に社の形をなして鎮座す、故にこの神号起これりと云う」とあるので、必ずしも杉山神社のお仲間には当たらないかもしれない。

・新城神社

  地元にあった神明社と杉山社を合祀して、町の名前をとって新城神社としたそうである。この神社の本殿の額は珍しく横書きである。

        写真36 横書きの額も珍しい

・小杉神社
 周辺をびっしり住宅地で囲まれているが境内だけは昔のまま保存されている。由緒記も石碑であり歴史が感じられる。この神社は江戸時代は杉山神社と呼ばれていたが、その後同じ村内の神明社と総社権現を合祀したので小杉神社と改名された。参道は東と南にあり、それぞれの入口に建つ鳥居は、東が元神明社のもの、南が元杉山神社のもので、同じ神社なのに様式の異なる鳥居が建てられているのが珍しい。

       写真38 小杉神社:南の鳥居

       写真40 小杉神社:東の鳥居

・潮田神社
 広い境内を持っているが緑は少なく、神楽殿もない。神主は常住している。社殿は空襲のため消失したのでコンクリート造りだが、銅葺き屋根の緑と朱塗りの社殿が相まってカラフルである。ここの狛犬は立派である。

       写真42  潮田神社の鳥居と拝殿

・菊名の八杉神社
 八王子神社と杉山神社を合祀したので八杉神社と改名したそうである。こういう命名法も珍しい。本殿の彫刻も緻密である。本殿前の狛犬が獣(邪気)を踏みつぶしている像ではなく、我が子を慈しんで抱きかかえている像になっているのが珍しい。

      写真44 八杉神社:子を慈しむ狛犬

・西生田の細山神明社
 西生田小学校側から行くと、細山神明社という看板につられて神社の裏側(東側)から入ってしまう。本当の参道は西生田小学校前を通りすぎて右手に上がる階段を登る。階段を登ったら右手に進むと右側に鳥居がある。ここから階段を下って行くと社殿がある。本殿は西向きで、階段を下ったところに本殿がある構造も珍しい。西向きと言えば、寺山の杉山神社も西向きに建 っている。

   写真46 細山の神明社:階段を下って行くと本殿

・弘明寺の岡村天満宮
 神社に至るかなり手前、岡村交番交差点の近くに、道路をまたいで大きな鳥居がある。しばらくその道路を登ると左側に赤い欄干の続く階段が参道になっている。ただしこの参道は西から入る参道なので珍しい。なにかいわれがあるのだろう。

 いろいろな脇宮が所狭ましと並んでいる。稲荷大明神、菅原道真の天満宮。道真を救ったという牛。拝殿も本殿も朱塗りでオーソドックスな神楽殿も健在である。参道わきの溶岩の台座の上に、岡村天満宮は元は杉山天満宮と呼ばれていた証拠の石碑が建っている。

     写真48 岡村八幡:第一鳥居は道路の上

      写真49 岡村八幡:入口の鳥居は西向き

         写真50 岡村八幡:拝殿

 

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