横浜水道道踏破

(注)横浜水道道の地図を表示しながら読む場合は、もう一つインターネットを立ち上げて、その他の中の「横浜水道道:全体図」を開いてください。

 2015年神奈川県境踏破の傍ら、横浜水道道踏破も行った。退職者となると時間がいっぱいあるものだと痛感した。実際に歩いた順序とは異なるが、分かりやすくするため、道志川の取水口から野毛山配水池に向かって歩いたこととして横浜水道道を紹介する。(2015年)
 文中に①②③・・・という番号が出てくるが、これは「横浜水道創設水道導水路」という資料(西谷浄水場内の横浜水道記念館でくれる)の地図に載っている番号である。

 JR橋本駅から神奈中バスで三ケ木へ、ここで同じく神奈中バスの青根行に乗り換えて、鮑子取水口で下車し、道志川まで約400段の階段を下りてゆくと、横浜水道の源である、道志川からの取水口がある。
「ほとんど高さのない取水堰から青々と澄んだ水が導水路に吸い込まれてゆく」と書きたいところだが、取水口を後ろから見る位置関係になるので、導水路への流入口は見られない。ここで取水された水は、道志川沿いの導水路を通って1kmほど下流の青山沈澱池に入る。

      写真01  鮑子取水口(道志川より取水)

 ここの見学が終わったらバス道路まで登るのも一仕事である。バス道路をたどって青山T字路まで戻り、青山沈澱池に入る自動車道を下ってゆくと、青山沈澱池のフェンスの外に到着する。フェンスの外からでもよく見える(写真03)。沈澱池は川水に含まれる砂や落ち葉などの固形物を取り除く役割を担っている。前もって申し込んでおけば、沈澱施設内の見学も可能とのことである。この沈澱池から水は横浜に向けて長い長い旅を始める。

          写真03  青山沈澱池

 これから先は、導水路は鉄パイプとなり、山の中を直線的に津久井湖に抜けてゆくので、しばらくは追跡できない。延々とバス道路を歩いていく。三ケ木のバスセンターを過ぎ、尾崎咢堂の生家である尾崎記念館への入り口を過ぎ、津久井湖観光センターの少し手前あたりで、津久井湖側に入る道を下ると、導水路が通っているトンネルの一部が見られる(写真 05)。

      写真05  導水路を通すトンネルが見える
 この先で、導水路はダムの水門上に取り付けられた太い鉄パイプを通って城山ダムを渡る(写真07)。

        写真07  城山ダムを渡る導水路

 導水路はここから相模川の渓谷沿いに敷設されているので、道がなく、追跡できない。 R413で谷が原浄水場(県営)の前を通り、右側の草原を通り抜けてゆけば、川尻石器時代遺跡を見てR510に降りられる。谷底状のR510を下ってゆくと、導水管と思える橋が二つ、道路を横切っている(写真09)。国土地理院の25000で見ると上の橋は川崎市に行く水 道、下の橋が横浜市に行く水道のような気がするのだが、定かではない。

              写真09  R510を横切る2つの水道橋

 R510の上に新小倉橋に通じる高架道路が見えるが、その下に写真11のような点検路があ る。どちらも一般人は入れないが、これが横浜水道の導水路の点検道ではないかと思われる。

   写真11  横浜水道の点検通路か
 その先でR510が鋭くU ターンする先端から、横浜水道のトロッコ道に入る道が分かれている。その道に入ると、資料「横浜水道創設水道導水路」に載っているポイント②の案内板(写真13) が建っている。案内板に書かれた地図を注意深く読めばこれが②だということはわかるが、案内板に②という数字を書き込んでもらいたいものである。

    写真13  ポイント②の標識(後方は新小倉橋)

 ここから先は林間の一本道なので分かりやすい。このトロッコ道沿いには導水路の一部と思われる施設が2か所で顔を出しているが、現在でも実際に使われている施設かどうかは疑わしい(写真15)。ここはトロッコを敷いて工事したというだけあって、ほぼ平坦な道である。

    写真15  トロッコ道に沿って敷設された導水管
 このトロッコ道をさらに進むとポイント③の案内板が建っている。この案内板のすぐ先で、自動車道路わきの舗装された人道に合流するが、ここに何も案内がないので、下流側からくる人にはトロッコ道の入り口が分からない。小生もその一人で、トロッコ道を探すの に大変苦労した。案内板が欲しい所である。

  舗装してある歩道に出たら、上に登り、相模原市の高齢者施設である渓松園の前を通る。本当はここにもポイント④があるはずだが何処にあるか分からなかった。
 それから先は野毛山まで、まさに、道なりに歩いて行けばよい。いくら明治時代とはいえ、よくぞこれだけ長い道のりをほぼ直線で確保できたものだと感心する。道が分かりやすいのでせっせと歩くことに熱心になり、各ポイントの案内板に気付かず、素通りすることの方が多かった。

 古清水のあたりで右側に墓地がある。何気なく墓石を見たら山口という名前がたくさんあったので驚いた。この辺の地の人の名前なのだろう。その先でR48と斜めに交差する。 三菱重工脇の田名のあたりにポイント⑤があるはずなので、注意しながら歩いたがとうとう発見できなかった(写真21)。

     写真21  この付近にポイント⑤があるはず
 田名小、田名中、相模田名高の脇をかすめて嫌になるほどまっすぐ進む(写真23)。とうとうJR相模線の下を潜り抜けるところまで来た(写真25)。

      写真23 嫌になるほどまっすぐ進む

    写真25  JR相模線を潜る水道道

 両側農地の道を進むと、鳩川・姥川・道保川という小さな川を続けて3本渡る。姥川を渡る橋の脇には導水管も見える。

     写真27  姥川橋の脇には導水管の橋もある
 ここを過ぎて丘に登れば、相模原公園の中に横浜水道の歴史の解説板も建っている(写真29)。この付近に横浜水道:相模原沈殿池もあるはずだが、どこだかよく分からなかった。

       写真29  横浜水道の歴史の案内板
 相模原公園を横切って、R507を越えると、また、あきるほど続く直線である。麻溝台付近で、写真31のような気持ちの良い道になる。

        写真31  麻溝台付近の水道道

 長く直線が続いた別格の水道道も、このすぐ先で広大な米軍住宅地に行く手をさえぎられる(地図33)。導水路そのものは米軍住宅の中を貫いて真っすぐ続いているが、人間は米軍住宅地内を通れないので金網の外を黄色線のように歩いて迂回する(写真35)。米軍住宅を過ぎると直に小田急本線を踏切で渡る(写真37)。最寄駅は小田急相模原である。

         地図33  米軍住宅地に行く手を阻まれる

      写真35  米軍住宅の外側を大回りする

      写真37  小田急本線と水道道の交点
 続いて小田急江ノ島線と交差する。ここは踏切ではなく地下道が掘られている。最寄駅は東林間である。

 この付近の水道道は大和市の遊歩道となっており、緑もそろっている。丘陵の小さな凹凸があると、その頂点部分には空気弁が設置されている。導水路全体をサイフォンにして相模原沈澱池から川井浄水場まで動力なしで流すためだろう。そのうち東急田園都市線の高架下を横切る(写真38)と横浜水道の水道橋が円弧を描いて境川を渡っている(写真39)。今日一日直線で続いてきた水道道もいよいよこの橋で終わりである。ここで一日の行程が終わってしまった場合は、最寄駅は東急田園都市線の南町田である。

      写真 38  東急田園都市線の下を潜る

      写真 39  鶴間にある横浜水道の水道橋

 水道道は鶴間公園を通り抜けて(写真 41)、真っすぐ南東に延び、東名高速の下を潜って、オリックッス物流の大きな倉庫の脇を通る(写真43)。 この道を真っすぐ伸ばしたところに横浜水道の川井浄水場がある。 浄水場にぶつかったらフェンスの外側を歩い て半周すると、川井浄水場の看板が見える(写真45)。 その先で導水路は、大和バイパスの下をすれすれに潜り抜けてゆく(写真47)。

      写真 41  鶴間公園から出てくる水道道

      写真 43  オリックッス物流脇の水道道

            写真 45  川井浄水場

     写真 47  大和バイパスの下を通る導水路

 その先もしつこく導水路を追跡してゆくと、導水路が完全に地面から出てきて(写真49)、 若葉台団地の南側では、ついに、水道橋となって空中を渡ってゆく(写真 51)。この橋の形がいかにも時代を感じさせる。

       写真49  地面に出てきた導水路

        写真51  空中を渡る導水路

  この橋の形は、明治45年に完成した山陰本線の余部鉄橋と同じ構造である。「横浜水道の方が古いのだから余部鉄橋の方が真似をしたのかも」と言いたいところだが、横浜水道ができた明治20年当時の水道道は、八王子街道沿いの地上の導水路だった。写真51の水道橋ができたのは昭和27年である。これから先の導水路は三保市民の森の外周をまわり、遊歩道もあるので、導水路見学の適地である(写真 53)。

       写真 53  三保市民の森の導水路
 その先にもう一つ水道橋がある。それを越えたあたりは高架の導水路となり、その付近に何か水道施設らしきものがあった。導水路はズーラシアの中に入ってゆくので追跡できないが、旭陵高校のあたりで外に出てくる。R45(中原街道)と交差するあたりの水道道はよく手入れされている(写真55)。

     写真55  中原街道と交差する付近の導水路

 コンクリート製導水路の上を歩いてゆく。この四角いコンクリート函そのものが水路なのか、函の中に鉄パイプの導水管が入っているのか分からないが、とにかく延々と続いている。旭区今宿あたりの導水路は写真57のような高架橋になっている。

       写真57  高架橋となった導水路
 両側住宅地なので導水路に沿った道も、導水路の右に行ったり左に行ったりと忙しいが、写真51と同じ構造の小さな水道橋を過ぎると、「鶴ヶ峰上部・下部配水池築造工事」の看板がある工事現場を左にして進む。この付近には畠山重忠古戦場跡の史跡もある。導水管は、いよいよ鶴ヶ峰駅への逆落としに入ってゆく(写真59)。

       写真59  鶴ヶ峰まで一気に下る導水管
 水はこの階段の下を通って一気に帷子川まで下り、サイフォンの原理を使ってまた西谷浄水場まで登ってゆく。この間ポンプは一切使っていないとのこと。
 鶴ヶ峰から先も西谷浄水場まで一直線の道が続いている。導水管は、途中で新幹線の下を通り、陣ヶ下公園の脇を「みずのさかみち」となって抜け(写真61)、環状2号の下を潜って、西谷浄水場に入ってゆく。

     写真61  陣ヶ下公園脇を走る巨大な導水管

 西谷浄水場も中には入れず、外を迂回するだけかと思っていたら、旧西谷浄水場の建物を「横浜水道記念館(写真63)」として開放しているので、是非見学すると良い。なかなかいい資料がそろっているので、本気で見るなら数時間かけるつもりで予定を組んだ方が良い。

      写真63  西谷浄水場にある水道記念館

 横浜の最初の水道は、川崎の二ヶ領用水から木樋で引いたそうであるが、直に横浜の人口増加に追い付かなくなり、英国人のヘンリー・スペンサー・パーマーに設計を依頼したところ、水源を相模川にして、2年間の工事で、明治20年に横浜水道が完成したとのこと。この頃の浄水場は野毛山にあったが、横浜の人口増加に追い付かなくなったので今では配水池となり、浄水場は西谷・川井・小雀などを増設している。
小生も小さいころ、親から「横浜で船に積んだ水は赤道を越えても腐らない」と船乗りから評判 だったと聞いた覚えがある。 横浜水道記念館の3階から西谷浄水場を見下ろせるので展望室に行くのを忘れないように。また、水道記念館で「横浜水道創設水道導水路」という資料をもらえるので、それを持って水道道めぐりをした方が良い。

 西谷浄水場を出た水道道は、市街地のど真ん中にもかかわらず、一直線に伸びている(横浜水道道:全体図参照)。明治時代だからこそ、こういう用地が確保できたのだろう。
 具体的言えば、西谷浄水場からでた水道道は和田町駅前を通り、星川の少し上流で帷子川を渡り(写真65)、西横浜駅を貫いて(写真67)、水道道というバス停まで従えて(写真 69)、藤棚に至り、若干カーブしながら山を2つ越えて野毛山山頂の配水池に入っていく。

      写真65  帷子川を渡る導水管(右)

       写真67  西横浜駅を貫く水道道

   写真69  水道道というバス停

 西谷浄水場の方が野毛山より標高が高いので、 途中に登り下りがあっても、水は動力なしで野毛山配水池に流れ込んでいく。 この坂もポンプアップすることなく水が登ってゆく(写真70)。野毛山配水池につくと真っ先にヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像が目につく(写真71)。野毛山頂上にある展望台から配水池の全体像がよく見える(写真73)。

 写真70 この坂もポンプアップすることなく水が登ってゆく

      写真71  ヘンリー・パーマーの胸像

         写真73  野毛山配水池全景
 展望台からみなとみらい地区の高層ビルを見ていると、ついに道志川から横浜まで歩いてきたかという気になるから不思議である。誰でも時間さえかければ歩けるのだが。

 

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