大震災のボランティア

 2011年5月に東日本大震災のボランティアとして、大学の同期4人で、石巻にボランティアに出かけたときの感想である。 (2011年5月)

 石巻市の社会福協議会が設置したボランティアセンター(ボラセン)に登録し、センターに被災者から依頼のあった作業を紹介してもらい、当該場所に自分の車で行って作業し、帰ってきたら報告書を提出する。
 ボランティアのテント場所は、社会福祉協議会が用意してくれている(石巻専修大学のグランド)。そこに自分たちでテントを張り、食事も自分たちで作ることになっている。給水とトイ レはボラセンが面倒をみてくれる。

 ボランティアに出かけて3日目の夕方、SNSで知り合いの地元の人が訪ねてきて、「社協のボラセンより、もっとやり甲斐のある作業を紹介してくれるボランティア団体があるが、明日はそちらでやってみないか」ともちかけてきた。
 昨日・今日の作業は正直言って、不要とまでは言えないが、不急の軽作業で、「俺たちこんなことをしに石巻まで来たのではない」と言いたいような内容だった。「いくら被災者からの依頼とはいえ、社協でも作業の緊急性や軽重を判断して受け付けるべきだ」と言いたいところだったので、そちらのボランティア団体とコンタクトをとってみることにした。

 紹介されたボランティア団体のまとめ役A氏 と電話で連絡を取ってみた。渡波(わたのは)地区の津波でやられたままの家で、倒れた家財道具を起こす作業だという。依頼元の地区の取り纏め役とおぼしき○○さんの電話と、依頼元の△△さんの電話番号を聞いた。携帯番号だっ たので場所が分からない。今は使えないが固定電話の番号も聞いて自動車のナビに打ち込むことにした。

 依頼元に明日9時ごろ行くと電話したら、8時半に満潮なので道路に水があふれ、車では通れないかもしれないとのこと。1時間早く行くことにした。

第四日目(晴れ)
 天候は晴れ。これはついている。今日は仲間のT君が持ってきた農作業道具が本格的に役立つかもしれないので、猫車始め農作業道具をすべて積んで、軽トラック(T君が乗ってきた車)と乗用車(その他3人が乗ってきた車)の2台でテン場を7時に出発し、渡波に向かった。

 旧北上川河口を渡り女川街道(398号)に入ると津波の被害がものすごくなった。街道沿いの家はことごとく津波の一撃で流され破壊されていた。店もまだほとんどつぶされたまま。そんな町並みの中に「渡波駅へ」という看板を見ると奇異な感じがする。こんなところを鉄道が走っていたのか。万石浦小学校脇の掘割付近がどうやら訪ねる家の所在地らしい。幸いまだ道路上には海水が上がっていない。この辺と思われる所に車を止め、さっそく聞き込みを始める。

 △△さんと聞いても、「この辺はみな△△だよ、下の名前は何と言うの」と言われてしまいあわてた。早速A氏に電話して下の名前も聞きだす。目的の家が見つかった。△△さんも避難生活しているらしく留守だった。電話したら、近所の避難所から9時ごろ出向くということなので時間が余ってしまった。庭から眺めると、一部、家族の力で片付けに着手したようで、畳を6~7枚デッキに出してブルーシートを掛けてあった。

 近所の人に聞いたら、今は大潮ではないので道路の上まで海水に浸ることはないとのことなので、車でチョットはなれたイオンのスーパーセンターまで行って、作業着に着替えたり、冷たい飲み物を飲んだりして時間をつぶした。掘割にかかった橋はどれも橋自体は沈まず、周辺の地面だけが沈んだようで、橋が一段高くなっていた。

 9時ごろ△△さん宅に戻ったら奥さんと息子さんが現れた。ご主人は津波で流され行方不明とのこと。なんと対応してよいのか言葉を失った。
 まず、奥の台所と思しき部屋で45°に傾いた大きな冷蔵庫の立ち上げ。周辺に散らばった小物を片付けてから数人で力をあわせて引き起こし、扉を開けたら、なんともすごい匂いとともに、大量の水が流れ出た。2ヶ月も放って置いたのだから内容物が腐った匂いなのだろう。

 次に更に奥の物置部屋と思しき部屋に入り、倒れた大量の棚を引き起こして、崩れ落ちたものを棚に戻したり、外に搬出したりする作業。長靴を履いて、ゴム手袋をしていなければできない作業だ。そのとき隣のおばさんから、「ボランティアに来たのなら、うちの床下のヘドロの掻き出しやって」とたのまれた。

 この作業で、奥さんは「冷蔵庫を片付けても無駄だなと」思ったのか、次は津波でぬれた畳を上げて欲しいと言ってきた。畳を上げるのはこの部屋だけで結構ですと言って、缶ジュースを置いて息子と共に引き上げていった。家財道具も含めて全部捨てるつもりなら、市が機械で瓦礫として撤去してくれるからだそうだ。
 8畳間の畳の搬出をしてみたが、ぬれた畳の重いこと重いこと。大人4人で持ってやっとだった。もっとも都会育ちの我々中高年が腰抜けだったのかも知れないが。

 缶ジュースを飲んでから隣の家に行って、離れと思われる一戸建ての床下のヘドロを掻き出し、猫車に積んで庭の隅に積み上げた。ここは床板をはがしてあったので作業は簡単に終わっ た。

 A氏に「もう作業は終わった」と伝えたら、それなら「給分浜に行って、□□さんという人の指示に従ってくれ。かなりきつい体育会系の仕事だ」とのこと。イオンに戻り昼食をとってから給分浜に向かった。□□さんの家の固定電話番号を入れてナビで進む。

 牡鹿半島に入るにしたがってすごい津波の惨状が広がって来た。岬を回って集落に入るつど、全滅した集落の姿が目に入る。それでも道路は修復され車が入れるようになっている。道路も良く見ると、亀裂には詰め物をし、段差は削り、道床そのものが流されたところは土を盛りなおし、防波堤が破壊されてしまったところでは、道路そのものをつけかえてあった。よ くぞここまで短期間に復旧したものだ。道路、電気、水道のライフラインは概ね復旧されているようだ。

 石巻に来て毎日自衛隊の車列を見ていると、何も違和感は感じなくなり、頼もしいという感じのほうが強くなった。はとバスの黄色い車体もこんな辺鄙なところを走っていた。団体のボ ランティアを運んできたのだろう。

 2時ごろ給分浜というところに着いた。ここも大部分の家が流されていた。村の前の浜に赤い消防車が津波で押し流され、ポツンと残されていた。村の入口付近の家には、「家財道具も含めて瓦礫として撤去してください」という、所有者名を書いた張り紙がしてあった。他の家は木っ端微塵に壊されているので、こういう張り紙も不要なのだろう。

 村の片隅に3~4軒の家が残っているだけだ。そこの□□さんの家にこの地域の対策本部が置 かれていた。□□さんのご主人は出かけていて、電話で地区のドブさらいをしてくれと頼まれた。側溝に津波で流されたものが詰まってしまい、下水が道にあふれ出ていた。

 いよいよT君の道具の出番だ。つるはしで側溝の重い蓋を動かし、両手でエイヤッと持ち上げる。結構腰にくる。鍬や板で底のヘドロを下流に送り適当な量になったらシャベルや鍬で掬い上げ、漁業用の合成樹脂の網かごに入れる。
 網目のある籠なのでヘドロが流れ出してしまうだろうと思ったが、結構すぐ乾くのでヘドロがだんだん籠の中にたまってゆく。半分も入れてしまうと重たくて動かせない。後ほど□□さんが帰ってきて、ヘドロが半分入っている籠を片手で簡単に動かしていたのには驚いた。漁師と我々の体力の違いをまざまざと見せつけられ た。

 我々がドブさらいをしていたら、地元のおばさん達も手伝いにきた。それだけ切実な問題だったのだろう。このときはボランティアに来て良かったとつくづく感じた。
 おばさんたちの使っている道具は、側溝の幅にぴったり合った泥かき用の鍬に似た獲物。これは役に立った。地区内の側溝が終わり自動車道路沿いの側溝となると、寸法も大きく、詰まっている物の量や大きさも半端ではない。おまけになんだか得体の知れないドロドロの物体も入っている。気味が悪い。

 タイヤや塩ビパイプなど長いものが入っていると、とたんに作業しにくくなる。それでも何とか力をあわせて、道路沿いの側溝15mほどを掃除した。もうヘトヘト。時刻も 4時になったので、これ幸いと引き上げることにした。□□ さんが、今日のボランティアは「体育会系の若者と聞いていたのだが」と皮肉っていたが、気持ちのいい人だった。

 ボランティアセンターに戻り、「今日の作業場所と作業内容を書いて、やっと震災ボランティらしい作業ができた。明日も引き続き今日の場所に行く」という報告書を提出したら、ボラセンのお兄ちゃんが険しい顔つきをしていた。
Q.ここはどこから紹介されて行ったのか。
A.私設ボランティア団体のAさんの紹介だ。
Q.どうしてその人を知っているのか。
A.塩釜に住んでいる知り合いから紹介された。

 その場はそれだけだったが翌日昼間、ボラセンから電話があり、
・ボラセンで紹介した作業でないので、昨日と今日のボランティア証明は出せない。
・ボラセンで作業内容を確認していないので安全性に責任をもてない。だから、昨日と今日の作業で怪我をしても、災害ボランティア保険の対象とはしない。
と言ってきた。それで結構ですと答えておいた。

 社協の主催するボランティア活動と、特定グループが主催するセクトのボランティア活動があるらしい。どちらも純粋な気持ちで一生懸命やっているのだろうが、連携が取れていないようだ。

 社協主催のボラセンの方が公の組織で、規模も大きく、ボランティアの受け入れ態勢も整っている。この専修大学のテン場、仮設トイレ、飲料水の補給などを提供しているのは社協のボラセンだ。こういう施設があるので我々もボランティア活動にこられるのだ。
 しかし社協というお役所の公式組織が運営するだけあって、市民からのボランティア依頼は、その切実さを吟味せず悪平等的に受け付けざるを得ないのだろう。二日目・三日目に行った先が良い例だ。

 一方、今日のようなセクトの組織は、特に被害がひどい地域を対象に、本当に手助けが必要な状況の人だけを選んで、ボランティア応募者に紹介しているようだ。このためボランティア作業の内容も本当に地元が望んでいる的確なものになっている。その反面、ボランティアの面倒(例:テン場の提供や傷害保険等)を見ることは何もやっていない。
 社協のボラセンとセクトのボラセンが連携してそれぞれの長所を活かせば良いのに。今のように競争しているだけでは損失のほうが大きい。
 夜は、車で6km ほど北に行った所にある、道の駅の風呂に入りに行った。ついでに道の駅のレストランで夕食をとって帰ってきた。

第五日目(晴れ)
 9時少し前に給分浜についた。地区の取り纏めの□□さんが「今日はドブ底に残っているヘドロを水で流して欲しい」という。強力な高圧水噴射装置と高圧を発生させるポンプも貸してくれた。400リットル入りの大きなタンクに水を入れ、ポンプと共に引っ張ってゆく。ドブ板をはずし、上流側から噴射装置で噴きつけ、残っているヘドロを下流側に押し流してゆく。ヘドロが全部流され、コンクリートの底が見えてくると、「やったー」という気になるから不思議だ。

 この調子なら昼前に終わると思っていたが、自動車道路沿いの側溝にはまだたっぷりゴミやヘドロが残っていて、結構な時間がかかった。なんだか得体の知れない黄色のブヨブヨしたものがあった。もしかしたら、すでに肉が溶けかかった小動物の死骸だったかもしれない。ヘドロ作業は細菌学的に見ても危険な作業なのだろう。

 昼はコンビニで買った折り詰め弁当を食べていたら、大根を生乾きに干して、鰹節とタレで味を付けた漬物を出してくれた。これが滅法うまい。出されたタッパーを全部平らげてしまったが、被災者の貴重な食料だったかも知れないと反省した。午後は1時間ほどで終わったので、2時ごろ給分浜を出発。昨日Aさんに頼まれた、「一人でボランティア作業をしている I さん」 の様子を見に行った。

 I さんがいるのは、「給分浜の少し先の矢川というところだ」とAさんから聞いていたので、 牡鹿半島の先端方向に向かって車を進めたが、かなり走ってもそれらしい景色も地名も見えな い。これは方向が違うのではないかと途中のコンビニで聞いたら、逆方向の大原から右手に登って山を越したところにあるとのこと。地名の漢字も「矢川」ではなく「谷川」だった。

 教えられたとおりに進み峠を越えたら、すぐに、津波で流されて来た漂流物が山の斜面に転がっている。こんな山の上まで津波が駆け上がったのかとたまげた。その漂流物の中の道を少し下ったら、元ガソリンスタンドと思われる全壊の建物があったので、車を止め裏に回ってみたら、ガソリンスタンドのオーナー夫妻と I さんが瓦礫の片づけをしていた。15 時ごろだった。

 I さんはボランティア経験が豊富らしく、 我々より一歳年上だった。一人で2日間も瓦礫をつめた土嚢つくりをしているとのこと。土嚢詰めを一人では能率が上がるまい。我々4人も、瓦礫撤去と土嚢詰めを手伝った。海岸からこんなに遠いところなのに津波の破壊力は恐ろしいものだ。
 1人でやっているところに4人が加勢したのだから作業は早い。1時間ほどでおおむね片付いたので、我々4人は引き上げることにした。

 今日は比較的近くにある自衛隊風呂に行った。風呂場で会った青年はロシアから3ヶ月の予定で来たとのこと。外国人はボランティアやチャリティ精神が体質として身についているという感じがした。
 ポーランドから来た若者は、大学卒業後就職前に世界一周していたら、日本で大地震というニュースを聞いたので駆け付けたとのこと。いつまでいるのかと聞いたら、「自分が必要とされている間はいる」と言っていた。彼らのテン場は専修大学のボラセンではないという。どこにそんな場所があるのだろう。風呂の帰りに生協で夜の食糧を買って帰り、夕食を自炊した。

 

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