硫黄島二部作を見る

 06.12.28、クリントウッド監督の硫黄島二部作(①父親たちの星条旗、②硫黄島からの手紙)を見た。両方ともなかなか見ごたえのある良い作品だったが、二部作と言える内容のものでは なかった。

 ①は、多大な犠牲を払った末にすり鉢山に星条旗を立てている写真が評判になったため、星条旗を立てている兵士が本国に呼び戻され、勇士として、戦費国債を買ってもらうためのキャンペーンの道具に使われていくことに対する兵士の葛藤と、時の為政者の厚かましさを描いて いる。
 ②は、孤立無援の硫黄島守備隊司令官(栗林中将)が、日本への米軍の進攻をたとえ1日でも遅らせるために、圧倒的な米軍といかに戦ったかを描いている。

 すなわち、二部作とは言うものの、①は戦闘そのものから離れた問題をテーマにしているのに対し、②は戦闘そのものをテーマにしている点でかみ合わない内容だった。
 映画宣伝が「二部作」を強調しているので「米軍はいかなる戦術で攻めたか、それに対して日本軍はいかなる戦術で防御したか」を描いているのかと思っていた。この点でやや体を交わされた感じがしたが、米国人がよくあそこまで描いたなという場面もあった。

 例えば、②の中には、米軍に投降した日本兵を「引き上げの邪魔になったから」ということで射殺するシーンもあった。比較的良く国際法を守っていた米軍でも、実際の戦場場面では、時にはあのようなこともあったのだろう。
 ②で栗林中将の戦術が克明に描かれているわりには、①で米軍司令官が一度も出てこない。出てきたのは「海軍長官の記念にするため、あの、すり鉢山に立てた旗を寄越せ」と言ってきた海軍高官だけだった。この辺は両軍の司令官の対比を鮮明にするために入れたものであろう が、あまりにも通俗的な感じだ。

 そもそも、退却の手段もなく、圧倒的な戦力の差がある場合には、敵に火点をさとらせず、敵を十分ひきつけてから集中砲火を浴びせることは、栗林中将のオリジナルではなく常套手段である。大岡正平のレイテ戦記にも克明に描かれている。
 栗林中将が全将兵に伝えた、「敵を10人殺すまでは死ぬな。最後の一人になっても生き延びて、隠れて戦え」というのは、兵士自身にとっては、万歳突撃するより苦しいことであったろう。なお補足するならば、ノルマンジー上陸作戦より、硫黄島上陸作戦の時の方が米軍の死者数が多かったのは、この苦しさの差であったのかも知れない。

 なお、戦闘機や硫黄島沖に浮かぶ米軍艦隊はCGで作成したものであろうが、あまりCG臭さはなく良くできていた。CGのボロを隠すには動きを早くするのが良いとされているが、確かに戦闘機の動きは早かった。また、硫黄島沖を埋める艦船数が多すぎる感じがした。あれでは、米軍自身も身動きが取れないであろう。

 

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