富士山を海抜0mから登る

 2014年8月、田子の浦で波に触れてから村山古道を歩きだし、4日目に頂上に到達した。多分これが最後の富士登山になるだろうと、大学同期のK氏を誘って2人で登り、頂上の浅間神社で高齢登拝者(古希以上)の記帳をして、御神酒と扇子を頂いた。

 村山古道とは明治時代まで使われていた富士登山道の一つで、幕末の駐日英公使オールコックもこの道から富士山に登ったそうである。明治の末に富士宮口が出来たので一旦は廃道になったが、2005年頃、地元のNPO富士山クラブが藪を払い道標を建てて、村山古道を歩けるようにしてくれた。
 Web情報によると、それでも道の不明瞭な所や倒木帯を潜りぬけなければならないところがあるらしい。相棒が村山古道のルートや状態をWebで詳しく調べ、これなら通過できると自信をもったので、村山古道を使って海抜0mから登ることにした。下に歩いたルートを示す。

   ルート図:田子の浦で波に触れてから歩きだし、赤いルートを歩いて、四日目の日の出に頂上に達した

 村山古道の途中には宿泊施設や水を補給できる所がないので、毎日登っては富士宮まで引き返し、翌日は登ったところまでタクシーで行って、また次の区間を登るという方式で登った。

写真00(富士山登山ルート:田子の浦~村山浅間神社~中宮八幡~6合目で富士宮登山道に合流~八合目~頂上)

第1日目(晴れのち曇り)
 吉原駅を8:30頃出発し田子の浦へ向かう。結構な高さの防潮堤を越えると巨大なテトラポットが並んだ海岸が見える。わずかに残った波打ち際で波に触れてから(写真01)、いよいよ富士登山を開始した。

     写真01 田子の浦の波に触れる:海抜0m

 まず最初の名所は玉石を富士山の形に積み上げた浅間山である(写真03)。

     写真03 浅間山(玉石を積み上げた富士塚)

 9:40吉原駅の跨線橋で東海道線を乗り越え、河合橋を渡って旧東海道を歩いてゆく。
 左富士(東海道を西に向かう時、ここだけ富士山が左に見える)の石碑を入れて左に見える富士山を撮りたかったが、あいにく富士山は雲に隠れていた。
 次に平家越の石碑が現れた。源平合戦の時、水鳥の羽音に驚いた平家が「すわ、敵の夜襲」と勘違いして逃げ出した所だ。大昔の富士川はこの辺を流れていたのだろう。
 吉原本町で岳南鉄道を横切り、吉原のメインの商店街を歩いてゆく。旧東海道の吉原宿の説明板が設置されている(写真05)。

         写真05 吉原宿の説明板

 これからの道中で使う飲料を買おうとコンビニを探したが、吉原の商店街にはコンビニがなかった。しばらく歩いた所の国道近くでやっとコンビニを見つけた。吉原は地元の商店が元気なのだろう。国道 のファミレスで昼食。

 ここからいよいよ北を向いて長ーい裾野を登ってゆく。空は半ば曇っているとは言っても日差しが暑い。25000の地図に想定されるルートを書き込んできたので、それと照らし合わせながら進む。現地に着くと、なんとなくそれらしい道が現れるから不思議だ。広見公園を過ぎ、最初の道標(写真07)を発見したときは嬉しかった。

   写真07 最初の道標(左:村山道と刻まれている)

 あまり迷うことなく新東名を横切るところまで進んだが、新東名に出入りするインター道路で村山古道が断ち切られていて進めない。大きく左に迂回して先に進む。
 13:30釈迦堂に到着(写真08)。吉原のコンビニで買った冷凍ペットボトルも全部溶けてしまったので、新しいのを買いたかったが、ここまでくるともう入手は困難だった。腰から染み出した汗で、ズボンも腰の周りがビッショリ濡れている。

写真08(釈迦堂)

道標2を過ぎて、県道76号を越えると道は富士市と富士宮市の境界の道路を進むようになる。この辺の農道は全部舗装されている。ずいぶん金をかけたものだ。道は、まだ急勾配ではないがどこまで行っても緩い登りが続く。富士山の裾野の大きさを実感する。
 道標4を過ぎたあたりで小さな橋を渡るが、その橋の名前が「日沢(にっさわ)橋」となっていた。村山古道は全体として日沢に沿って登ることになっている。その下流がこの川かと橋の下を覗いてみたが、深さ2m・幅4m程度の枯れ川だった。雨が降った時だけ流れる、単なる溝という感じで、等高線にも現れない小さな沢だった。

 14:53、県道158号を横切るところまで達し、第一日目の予定点(写真09)に到達した。ここからは今日の泊まり場所:富士宮駅前まで、県道5kmをただひたすら歩くだけ。残念ながら今日は一日中富士山が見えなかった。

     写真09 第一日目到達点(標高 315m)

 歩きだしてすぐ富士急バスの二本松という停留場があったので時刻表を見たら、朝7:02に富士宮行きが一本あるだけだった。このバスに乗った乗客はどうやって帰ってくるのだろう。信じられないダイヤだ。7:02発が上りの始発だとすると、それに充当する下りのバスがあるはずだがその時刻も出ていない。
 吉原から登っている間の道の両側は畑か茶畑だったが、富士宮に下りる道には水田も見られた。この辺は水を得やすいのであろう。
 疲れた体に5kmはきつかったが、16:30ごろ富士宮駅前の宿に着いた。

第二日目(晴れのち夕方雨)
 富士宮駅前からタクシーで昨日の到達点まで行った。7:15に歩行開始。昨夜雨が降ったのか地面が濡れている。7:50ごろ通りかかった小さな集落の家の上に大きな富士山が見えだした。残念ながら中腹から上は雲に隠れている(写真11)。 でも、農家のおばさんが「今日は天気が持つよ」と励ましてくれる。

        写真11 やっと富士山が見えた

 最後の集落を過ぎるあたりで道を間違えて右に曲がってしまったら、どこからともなく声が聞こえる。あまりよく聞き取れないので2~3回繰り返して聞いたら、「そこを左に曲がるのだ」とのこと。たぶん、どこかの家の中から我々のことを見ていてくれたのだろう。この辺の人は親切だ。
 最後の道標を右に見送り、東見付を過ぎるといよいよ村山の浅間神社に着いた 8:14。大杉や大銀杏もあり、なかなか由緒ありそうな佇まいだ(写真13)。それにしては本殿の外回りがコンクリート造りなのにガッカリした。

        写真13 村山浅間神社

 8:45神様に無事を祈ってから村山古道の山道に入る。最初はほんの僅かだが石畳である(写真15)。

        写真15 石畳の村山古道入口

 直にアスファルト道路に合流し、道なりにしばらく進むと砂利道になる。9:29 いよいよ草深い道に入り(写真17)、溝の中を歩いてゆくことも多い(写真19)。 こうなると相棒がしっかりルートを調べてくれた資料が役に立つ。

    写真 17 村山古道もいよいよ草深い道になる

      写真 19 溝の中を歩くことも多い

 途中で何本かの林道と交差しながら、馬頭観音・発心門・札打場(写真20)などを通過して、苔むした溶岩流(写真21)の上を歩いてゆくと、富士山麓山の村の緑陰広場(写真23)に到達する、12:23。ここで昼食。

          写真20 札打場の遺跡

      写真21 苔むした溶岩流の上を進む

      写真23 富士山麓山の村の緑陰広場

 緑陰広場の脇に日沢を渡る橋があるが、そこには富士市と富士宮市の境界を示す標識が建っていた。13:00、緑陰広場を出発。この辺から道は日沢と繰り返し交差しながら登ってゆく。林が深くなるに従って霧も出てきた。相棒が慎重にルートを確認しながら進む(写真25)。

    写真25 慎重にルートを確認しながら進む

 13:55とうとう最大の遺跡中宮八幡(写真27)に着いた。ここは、昔は富士講の泊まり場で、写真29 のように賑わっていたらしい。

         写真27 現在の中宮八幡

          写真29 昔の中宮八幡(注1)
注1:青木直子・畠掘操八、「富士山村山口登山道」、富士学会 2005

 ここからちょっと、急坂を登ると富士スカイライン(富士宮駅から五合目まで登るバス道路)と最初に交わる点(交点1)に飛び出した、14:20。

 交点1でバス道路を横切り、対面の山道に入る。入口には村山古道の表示が出ている。この辺の道は良く踏まれていて歩きやすい。そのうち大粒の雨が降ってきたので雨具をつけて進む。
 15:22、スカイラインとの2回目の交点(交点2)に着いた、標高1630m。対面には明日登る山道が伸びているが、今日の計画はここまでである(写真31)。ここで一休みしたいところだが雨に追われて、スカイラインのバス停まで、下り 2.3kmを歩きだす。

    写真31 スカイラインとの交点2(1630m)

 16:10、バス停に着いたが次のバスまで50分も待たねばならない。もう廃業している食堂のひさしで雨宿りしながらバスを待つ。雨もますますひどくなり、霧もますます濃くなってきた。
バス停が片側にしかないので、バスがどちら側に着くか分からない。2人で手分けして道路の両側に立ってバスを待つ。深い霧の中からようやくバスが現れたときにはほっとした。17:00発のバスで富士山浅間神社本宮まで下り、本宮の湧玉池を見てから、18:30、宿に着いた。
 湧玉池からは豊富な水が川となって流れ出していた。池の底から湧く水かと思ったら、池の脇の溶岩の隙間から大量の地下水が流れ出していた。水の温度は 13℃。本宮の境内に鶏が放し飼いされているのが珍しかった。

第三日目(晴れ)
 6:10に富士宮駅前でタクシーに乗り、交点2には6:55 に着いた。7:05、交点2を出発。今日の登り口の状況は写真33の通りである。

     写真33 交点2の登り側の村山古道入口

 昨日かなり強い雨が降ったはずだが、草は既に乾いているのでズボンも濡れない。15分ほどで高鉢駐車場から宝永火口に通じるハイキングコースと交差する。道の明瞭さはどちらも同じぐらいだ。傾斜が徐々にきつくなるころ倒木地帯に入る(写真35)。

         写真35 倒木地帯を行く

 倒木地帯の通過は大変だろうと覚悟してきたが、富士山クラブの方々が毎年行うメンテナンスで、やっかいな倒木をだいぶ切り分けてくれたので、身をかがめて潜り抜けるような倒木は数か所しかなかった。約30分で通過。
倒木地帯を抜けると、昔、石室のあった小さな平地が何か所か現れる。囲炉裏に懸けるような昔懐かしいヤカンも残っていた。
 森林限界を抜けると溶岩のガラガラした道になり、すぐ上に新六合目の山小屋が見渡せる(写真37)。 もちろん富士山もその後ろにそびえている。

       写真37 森林限界を抜けると新六合目

 新六合目には10:23に着いた。ここで現在の富士宮口登山道と合流する。というより、村山古道の方が先にあったのだから、富士宮口が村山古道に合流すると言った方がよい。
 村山古道を総括すると、予想していたよりはよく整備されていて歩きやすい。また、ルートファインディングに苦しむところもほとんどない。富士山クラブの方々のご尽力に頭が下がる思いである。
 11:00 新六合目発。あとは一般の登山客に混ざって登り続けるだけだ。下界は雲に覆われているが森林限界から上は快晴である(写真39)。

       写真39  7~8合目の登山道

 八合目の池田館3250mには15:00ごろ着いてしまった。こんな時間に到達できるなら、今日の泊まり場所は九合目でも良かったかもしれない。我々の脚力もまだ衰えていない証拠か。

 少し早いが山小屋に入る。案内された寝場所は2段になった蚕棚の1階部分で、4m程の幅に8つの寝袋が置いてあった(写真40)。これで寝ると、腕と腕が重なり合うだろうなと予想しながら夕食の時間を待つ。
 16:40に第一陣の夕食。カレーライス一杯とお茶一杯のみ。山小屋係員が名前を読み上げた順番に着席し、食べ終わったら食器・スプーン・コップ別にセルフサービスで捨てにゆき、そのまま退出するよう指示される(写真41)。まるで捕虜収容所に入れられたみたいだ。

        写真40 八合目池田館の客室

    写真41 八合目池田館の夕食風景(カレーのみ)

 夕日による影富士が雲海に映っていたが、左側の線がはっきり出ないうちに日没となってしまった。明日の朝が早いので7時ごろには寝たが、トイレに起きる人の登山靴の音が耳触りで、ほとんど寝られなかった。

第四日目(晴れ)
 最初の団体が午前0時ごろ起きだしてザワザワ・ゴロゴロ。その後も、断続的に小グループが出発してゆくので雑音が途切れることはなかった。
 我々も1:30に起きだして、小屋の外でラーメンを作り、山小屋でもらった朝食用のパンの一部を食べる。まだ真っ暗な2:30に出発。満天の星だ。岩場の登山路が続くので、星を見上げようと真上を見上 げると足元がふらついて危ない。 西風がかなり強いが、九合目を過ぎると尾根の陰に入るので風もやわらかくなった。この辺から渋滞が始まった。お盆を過ぎたとはいえ、やはりまだ登山者が多いのだろう。

 この渋滞では剣が峰で御来光を迎えるのは無理かなと半ばあきらめていたが、4:45に富士宮口頂上に着いた。頂上の浅間神社奥宮は2011.5の静岡地震で受けた被害の修復工事中だった。
 これなら剣が峰の御来光に間に合うと、休まず、そのまま登る。どうやら御来光までに剣が峰に着いたが、剣が峰は混雑していた。海抜0mから3776mまで、すべて歩いて登ったという感慨にふける間もなく、5:02 御来光(写真43)が始まった。

         写真43 剣が峰の御来光

 南側は雲海が発生し、箱根や伊豆半島が島のように雲海の上に浮いている。箱根は外輪山と中央火口丘の間にも雲海が発生し、芦ノ湖が完全に隠れている。まるで模型地図を見ているようだ(写真44)。

      写真44 雲海に囲まれた箱根(外輪山の外側と中央火口丘が雲海に囲まれている)

 御来光を楽しんだのち、5:20、時計回りでお鉢回りを始める。大沢崩れの上に出たら見事な影富士が西方に延びていた(写真45)。雲海が無くてもこんなにハッキリ見えるとは思わなかった。

     写真45 朝日でできた影富士(背景は南ア)

 6:00、吉田口頂上着。早速、頂上の浅間神社で古希以上登山の記帳を行い、御神酒と記念の扇子を頂いた。頂上の山小屋でお汁粉を飲んで一休みした後、御神酒を飲んだお皿を火口に投げ込んだ。これが江戸時代からのしきたりとのこと。強風に押し戻されないよう、かなりのスピードをつけて投げ込んだが、かろうじて崖に引っ掛からず、火口に吸い込まれて行った。
そこから南半分のお鉢回りを続け、7:05御殿場口頂上から下山を開始。御殿場口は初めてだが、岩場部分は少なく、歩きやすいコースだった。
 最初はコークス状のざらざらの山道が7合目まで続き、7~6合目は結構大きな石が混じった歩き難い砂走りである。6合目から真っすぐ大砂走りに下る道もあるが、わずかな時間で宝永火口(写真47)に立ち寄る道もあるので、ここは是非、火口に立ち寄るべきである。

            写真 47 宝永火口

 宝永火口にゆく道が上から見ると登っているように見えるのだが、実際歩いてみると下っているのでスピードが衰えない。目の錯覚なのであろう。側面噴火の火口とはいえ大きな火口である。時間があればここで、ごろ寝してゆっくりしたい所だ。

 6合目から下は砂だけの歩きやすい大砂走りになった(写真49)。その一直線の大砂走りが延々と登山バス乗り場の太郎坊まで続いている。砂走りは一歩踏み出すと1mぐらい進むので事前の予想タイムよりずっと早く進む。
 前の人のすぐ後をついてゆくと、砂ほこりをかぶるので、距離をあけるか、横に並んだ方が良い。

      写真 49 気持ちの良い大砂走りを下る

 一面、砂一色の大斜面をかけ下ってゆくと、標高2000mぐらいから草がポツポツと生えている。草の生息範囲が拡大中であることが分かる。雑草の生命力に驚かされる。というより日本は水が豊富なのだろう。世界には放っておけば砂漠になってしまう国がたくさんあると言うのに、たとえ雑草とはいえ緑で覆われるとは、日本はなんと自然に恵まれた国なんだと再認識する。
 見下ろしていた側火山の二ツ塚がいつの間にか自分と同じ高さになっている(写真50)。砂と草だけで太陽を遮るものが何もない炎天下で餅を焼いて40分ほど昼食。

        写真50 側火山の二ツ塚

 多くの登山者が大砂走りを気持ちよさそうに下ってゆく中を、子連れの家族が登ってくる。標高差が最もある御殿場口(3776-1450=2326m)を、よく子連れで登る気になるなと舌を巻く。ちなみに最も人気のある富士吉田口の標高差は1476mである。御殿場口のバス乗り場(写真51)には12:00に着いた。

       写真51 御殿場口バス乗り場

 Webでオールコックの登山行程を調べてみると、7/24富士宮本宮発→7/25村山浅間神社発→7/26六 合目石室発→7/26登頂となっているので3日間で登頂している。今回の我々より1日短い。当時の人の方が健脚だったことがうかがえる。  それはそれとして、村山古道を歩いてゆくと信仰登山の香りが芬芬と残っており、富士山が文化遺産として世界遺産に登録されたのもうなずける。

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