チョモランマ紀行

(注)チョモランマ紀行の地図を表示する場合は、別途、インターネットを起動して、「チョモランマ紀行の地図」を表示させ、2画面にして見てください。

 2006年8月にチョモランマのベースキャンプをたずねた。最初は日本の旅行社が募集するチョモランマツアーに申し込んでいたのだが、今年は道路が工事中とのことで中止になってしまった。そこで中国のチベット専門旅行社とコンタクトを取ったら、「迂回路があるので行ける」と返事がきた。その会社にチョモランマツアーのアレンジを依頼した。
 チョモランマツアーは道路が悪いのでランドクルーザー(4駆)を使用し、運転手とガイドつきである。ルートは地図1の通りで、距離は片道約550km、途中には5000mを越える峠もいくつかある。

第一日目(晴れ)
 8:30に4駆が迎えに来たのでラサのホテルを出発。ラサの西郊外で四川軍区という掲示をつけた軍用タンク車の車列が次々と駐屯地から出てくるのでずいぶん待たされた。全部で50台ぐらいあった。進む方向が同じらしく、今日はこの車列とあちこちで出会って、度々待たされた。写真を撮ろうとしたらガイドに「ダメ」と制された。中国では軍隊と警察の写真を撮ってはいけないとのこと。

 1時間ほど進むとヤルツァンポ川を渡り、ヤムドク湖に登ってゆく。ヤルツァンポ川は、下流はブラマプトラ川になり、インド洋に注ぐ大河である。50分ほどの登りでヤムドク湖の展望台カンパラ峠についた。

       写真01 カンパラ峠から望むヤムドク湖

 青い水をたたえたヤムドク湖が弓なりに広がり、その周りを草原の山肌が取り囲んでいる美しい湖だ(写真01)。右側の斜面をギャンツェに向かう道路が続いている。本来ならこの道をギャンツェに向かうはずだが、道路の一部が洪水で流されていて、今は通れないとのこと。
 カンパラ峠は観光バスや4駆で混んでいた。我々の車はそこを素通りして、少し下ったところにある展望台についた。ここはもっと景色が良い。観光客も少ないのでゆっくり見られた。
 ヤムドク湖はチョモランマ紀行の地図(地図1)で分かるとおり複雑な形をしている。大昔は全部氷河で覆われていたが、氷河が運んできた土砂が出口にたまり、その後の温暖化により氷河が溶けて湖になったと推定されている。
 2010年ごろ観光船を走らせる計画も持ち上がったが、自然保護のため、地元政府の指導で取りやめになったとのことである。

 ヤルツァンポ川まで戻り、橋を渡り返して、シガ ツェに向かう国道を行く。左手にヤムドク湖の水を落としている水力発電所が見えてきた(写真02)。

     写真02 ヤムドク湖の水を落とす水力発電所

 この水力発電所の落差は、ヤムドク湖4400m~ヤルツァンポ川3600m なので、実に800mもある。 水量は少なくてもかなりの発電能力を持っているのだろう。 国道を走っていると、時折、ランドセルを背負った学校帰りの子供が歩いているが、どこまで歩いて行くのだろう。付近に民家らしいものは見当たらない。やがて道路はヤルツァンポ川の峡谷に入ってゆく(写真03)。

        写真03 ヤルツァンポ川の峡谷

 ヤルツァンポ川の両岸は擁壁もない崖が続いている。雨が降ればしょっちゅう崖崩れで通行止めになるのだろう。
 峡谷が終わると、左へ、ギャンツェに向かう迂回路に入った。とたんに道が悪くなる。大きくバウンドしながら悪路を進む。道路わきの民家の壁に燃料用の牛の糞が一杯貼り付けてあった(写真 04)。

     写真04 燃料用の牛糞を貼り付けた民家

 その少し先で小さな砂漠も現れた。しばらくの間その砂漠の中を進む。途中にあるチベット族の集落の写真を撮ったら、たまたまそばに子供がいて「金をよこせ」と自動車にしがみついて離れない。運転手が車を発進させても離さない。怪我をしないかと心配したが、やがてあきらめて手を離した。こういう現実に出会うと幻滅を感じる。
やがて一面黄金色に色づいた麦畑に出た。それを抜けるとヤムドク湖~ギャンツェ~シガツェを結ぶ舗装道路に出たのでホッとした。この道路の周りはチベットの穀倉地帯らしくずっと麦畑が続いていた。
 1時間ほど南東に走ると左前方にギャンツェ城が見えてきた(写真05)。急峻な岩山の上に建つ立派な城だった。

           写真05 ギャンツェ城

 この城は1904年にインドに駐留する英国軍に攻められ、激しい攻防戦の末、攻め落とされたところだ。そのときのチベット族の勇敢な戦いぶりを記念して人民英雄碑が中国の手で建てられている。
 しかし中国が1959年にチベットに進攻したとき攻め落としたシガツェ城には人民英雄碑は建っていない。こんな差をつけるくらいなら、ギャンツェにも人民英雄碑を建てないほうが良い。チベット族も敏感に感じているだろう。 ようやくギャンツェの白居寺に着いた(写真06)。

   写真06 ギャンツェの白居寺(まるで城砦のようだ)

写真06-2(白居寺で有名な仏塔「パンコルチョルテン」:仏様の目が光っているので全てお見通しである

 白居寺は背後の山にも赤い城壁をめぐらし、それだけでも立派な城になっていた。
あとはシガツェに向けてひた走る。ようやく19:00ごろシガツェに着いた。シガツェはチベット第二の都会だけあってにぎわっていた。「チベット鉄道を早くシガツェまで延ばそう」という看板も建っていた。チベット鉄道の延伸計画があることが分かった。今日のホテルは山東大厦。

第二日目(晴れのち曇り)
ホテルの廊下から今日行くタシルンポ寺が良く見える(写真07)。山を背にして格好よく収まっている。

          写真07 タシルンポ寺遠景

 朝食後、タシルンポ寺へ。ここは中国側の破壊を免れたのでたくさんの堂塔伽藍が残っている。確かにきれいな堂塔伽藍がたくさんあった。
 この寺は珍しく城壁に囲まれていなかった。伽藍に入ると、プンとヤクバターの灯明の匂いがする。所々で僧侶が声明を唱えている。その重低音が素晴らしく、荘厳な気分になる。
 タシルンポ寺を出て土産物屋に寄った。お土産にタルチョを6~7本買い、それぞれに、贈る人の名前をチベット語で書いてもらった。贈る人の名前を漢字で書くだけでチベット語を書いてくれたので、チベット語と漢字はそれぞれ対応しているのだろうか。それとも音だけをチベット語に置き換えたのだろうか。チベット語は分からないので、違った人に贈らないよう番号をつけておいた。

 いよいよチョモランマの登山基地のティンリーに向かうチベットネパール友好道路(TN 道路)の入口に着いたが、工事中のため通行禁止になっていた。
 運転手がゲートの係員から迂回路を聞きだしたようで、民家の間の複雑な道を通ってTN道路に入った。これは公然の秘密らしい。係員としては自分の前は通さなかったということで面子が立つのだろう。

 きれいに舗装されたTN道路を進む。左右には褶曲が現れた岩山が続く(写真 08)。ヒマラヤ山脈の 巨大な造山運動が実感として分かる。

       写真08 道路の両側に現れる褶曲

 12:40ごろ小さな町並みに入った。ヤクの赤ちゃんが一人で町の中を歩いているのには驚いた。小さな食堂で昼食。可愛い女の子が猫を抱いていたので写真を撮った(写真09)。この子は写真を撮っても「金をくれ」とは言わなかった。

          写真09 猫を抱いた女の子

 食堂のすぐ先でタルチョをぶら下げた通行禁止のロープが張ってあった。道路を右に外れて小さな川を渡り、荒地と畑の中の泥道を迂回してTN道路に戻った。なるほど、このような間道を嗅覚で見つけられる運転手でないとチョモランマには行けないことが分かった。

 1時間ほど走ると工事中で片側通行のためかなり待たされた。下ってきた対向車は人民解放軍の長い車列だった。その先には工事中の橋。橋が渡れないので、川原に降りて、凸凹の河道をしばらく下って、またTN道路に戻った。ここの迂回路の悪さは最高。
 ここから先は荒れたぬかるみ道路を進む。左手の山の上には羊の大群が、前方にはやせこけた牛を連れて歩く農民の姿が見えた(写真10)。牧草が不足しているのだろう。

      写真10 やせこけた牛を連れて歩く農民

 19:20頃ようやくティンリーについた。道の両側に20軒程度の平屋の飲食店や旅館が並んでいるだけのさびしい町だった。 チョモランマ地区自然保護管理所でチョモランマへの入山許可の手続きをしてから、今日のホテル珠峰賓館に着いた。

第三日目(晴れときどき曇り)
 9:30ティンリー発。直にチョモランマ入口のゲートに着いた。パスポートと入山許可書を提示。未舗装のイロハ坂をぐんぐん登り、チョモランマ展望台のバン峠には10:30に着いた(写真11)。

        写真11 バン峠(5100m)のタルチョ

 残念ながら、チョモランマは雲に隠れていた。バン峠の下りもすごいイロハ坂である(写真12)。このイロハ坂が終わると岩だらけの荒れた谷に素掘りのトンネルが見えた(写真 13)。

       写真12 バン峠、下りのイロハ坂

        写真13 あのトンネルを抜ける

 トンネルを抜けると左手の谷に緑色の段々畑に囲まれた小さな集落があった(写真14)。

        写真14 集落の周りだけ緑がある

 茶色の岩だらけの荒れた景色の中にほんの一箇所だけ緑の畑があるのはなんとも奇異な感じがする。谷のまわりだけは水が手に入るのだろう。
 そこをすぎるとチベット族のお墓があった(写真15)。近くに自然の岩塔がそびえていて、まるで西部劇の景色のようだ。最初は廃村跡かと思ったが、ガイドが「これはチベット族のお墓だ」と教えてくれた。とする今でも使っているのだろう。

         写真15 チベット族のお墓

 左右に面白い褶曲の現れた山を見ながら、チョモランマから流れ下ってくるロンボク川に沿って登ってゆく。だんだんと川原の傾斜も増してきた。源流に近づいている証拠だ。川の水も今までの茶色から灰色になった。アイスランドでも氷河から流れ出した直後の水はこの色をしていた。とすると、ロンボクはもうすぐなのだろう。
 13:00、ロンボクに着く少し手前でチョモランマが雲の切れ間から見えてきた(写真 16)。

      写真16 ついにチョモランマが見えた

 早速車を停めて撮影に精を出す。チョモランマはさすがに巨大だった。その少し先でロンボク村に着いた。ここには常住の寺としては世界最高所5100mにあるロンボク寺がある(写真17)。

       写真17 世界最高所にあるロンボク寺

 ロンボク寺の周りに10軒ぐらいの民家があるが、付近には畑らしいものが見えない。ここの住人は夏場の観光客相手の仕事だけで生活しているのだろうか。
 ロンボク寺を左に見てチョモランマベースキャンプ(BC)への道に4駆で入ろうとしたら馬車組合の人が通してくれない。ここから先は馬車で行けとのことらしい。「車で入るならBCまでの馬車料金を払え」と言っているらしい。運転手が 360 元というところを200元にまけさせて、4駆で乗り入れることになった。
 馬車だと時間がかかるので現地の滞在時間がそれだけ短くなる。馬車を何台も追い抜きながら進み、13:50、チョモランマ BC のテント村に着いた(写真18)。参考までに、ロンボク~BC~チョモランマの地図を地図2に示す。ロンボクと BCの距離が8kmなので、BCからチョモランマ頂上まではまだ20kmもある。

       写真18 チョモランマBCのテント村

 BCには結構多くのテントが並んでいた。大半はみやげ物屋兼食堂だが、中にはシュラフ持参なら泊まれるテントもある。ガイドの知り合いの食堂テントで昼食。
 いよいよ、チョモランマBCの展望台へ。展望台といっても小さなモレーンの丘5200mに過ぎない。タルチョが一杯かかり、強風にはためいていた。見物客も多い(写真19)。

       写真19 チョモランマBCの展望台

 展望台の下にはどこかの登山隊がベースキャンプを設置していた。その荷物を運ぶためヤクも何頭か佇んでいた。展望台の少し先には大きなモレーンが押し出していた(写真20)。以前はあそこまで氷河が流れていたのだろう。谷も典型的なU字谷である。参考までに、チョモランマBCの中国語表記は珠峰大本営だ。

   写真20 間近に迫るモレーン(チョモランマは雲の奥)

 展望台で景色を楽しんだ後、チョモランマBCの郵便局にはがきを出しに行ったら、30元でチョモランマBC局の消印を押したはがきを買い、町に戻ってから自分で投函する方式だった。

 チョモランマBCで約2時間過ごしてから、今日の宿泊先のロンボク寺の招待所に戻った。建物全体で中庭を囲む四角形の形をしていた(写真21)。

       写真21 ロンボク招待所(5100m)

 割り当てられた部屋のベッド数は4つあるのに、運転手は、「夜、車にいたずらされるといけないので車で寝る」とのこと。それほどまでに少数民族を警戒しているのかね。

 暗くなる前に別棟のトイレを確認した。男女別になっているが、大便所は、土を敷いたコンクリートの床の上に穴が2つあいているだけで仕切りも無い (写真22)。他人がいたら、ここで用を足すのは男でも勇気が必要だ。

      写真22 トイレの大便所(仕切りもない)

 大便所の穴の下は3mぐらいの空間で明るかった。ということは谷間に突き出したトイレで、落ちたものは谷の斜面に溜まるのだろう。なんとも原始的なトイレだ。もちろん電気もない。夜中に来るときは懐中電灯が必要だ。
 部屋に戻ったら、ガイドが高山病らしくベッドでぐったりしていた(写真23)。

       写真23 高山病でダウンしているガイド

 19:00ごろから新ロンボク招待所で夕食。そこの大きい望遠鏡でチョモランマを覗いてみたが大きく見えすぎてチョモランマのどの部分を見ているのか分からなかった。その後、ロンボク寺招待所に戻り、持って来た冬山装備を全部着て寝た。

第四日目(晴れ)
 今日は一日でシガツェまで戻るので、朝食ぬきで、まだ暗い7:30にロンボクを出発。途中で夜が明け、朝日の当たる山肌が美しい。
 10:25にバン峠に着いた。今日はチベット族の土産物屋の邪魔が入らなかったのでチョモランマ山群の説明板の写真が撮れた(写真24)。

      写真24 バン峠のチョモランマ山群説明図

 ティンリーで昼食をとった後、また、悪路を戻る。途中でネパール国境のジャンムに行く路線バスとすれ違った。マイクロバスの大きさだった(写真25)。

      写真 25 国境のジャンムに行く路線バス

 ジャンムまでバスがあるなら、入域許可さえ取れれば、4駆を借りずに一人でもネパールに行けることが分かった。
 シガツェには19:30頃ついた。ホテルはまた山東大厦。ガイドからは「少数民族がいて危険だからホテルを囲む道路から外に出ないように」と言われていたが、夕食後、町に散歩に出た。本屋で何冊か本を買ってから、近くのスーパーに行った。
 本を買った袋をぶら下げていたら、店員が、「まずその袋をロッカーにしまえ」と言う。そのやり取りで日本人と分かると、興味があるのか、英語でいろいろ訪ねてきた。こんな観光客相手の店でなくても英語をしゃべる店員がいるのかと驚いた。荷物をロッカーにしまってから果物売り場に行ったら、日本人であることがパッと伝わっていて、果物に手を触れるごとに「それは○○」と中国語で説明する声が飛んできた。一挙手一投足を見られているのが良く分かった。

第五日目(晴れ)
 朝食前にシガツェ城を見に行った。歩いて10分ほどの所だった。シガツェ城の復元工事の最中で(写真26)、城跡に登ることはできなかった。

        写真26 シガツェ城の復工事

9:30シガツェ発。国道をかなり飛ばしてラサに戻る。ラサ近くなっても雪のついた高い山があるのに気がついた。何と言う山だろう。ラサには13:00ごろ着いた。ラサでガイドと一緒に昼食をとったとき、旅行社のアンケート(ガイドの採点表)を書かされた。中国でもこういうことを始めたかね。しかしガイドの前で書かせるとは本質が分かっていない。

第六日目(晴れ)
 今日でラサともお別れだ。9時に迎えの車が来た。ゴンガ空港に通じる道路には山脈を横切る長いトンネルがある。トンネル入口の写真を撮ろうとカメラを前に向けたら、ガイドが「ダメダメ」とカメラを手で押さえた。たまたま前を将校用のジープが走っていたからだ。不便なものだ。ゴンガ空港は混みあっていた。ここでガイドと別れ、11:40発の昆明行きに搭乗。出発表示板に昆明行きは経由地として「中甸」と表示されていた。

 座席は窓側が取れたので眼下の景色がよく見える。進むにしたがって山に緑が増えてきた。ほんの10分ほどの間に、立て続けに、茶色の大きな川を3本飛び越えた。
 これは世界地図でも有名な、サルウィン川・メコン川・揚子江が50kmほどの間隔で3本並流しているところだ。インド亜大陸がユーラシア大陸にめり込んで各河川を捻じ曲げたところだ。
 経由地の「中甸」という空港についたら「香格里拉(シャングリラ)空港」と書いてあった(写真27)。中甸とはシャングリラのことだったのか。観光政策のため名前を変えたのだろう。

      写真27 シャングリラ(香格里拉)空港

 昆明空港には14:30ごろついた。都市のど真ん中にある空港という感じだった。タクシーで昆明駅に向かった。タクシーは運転席が鉄格子で囲まれている、ものものしいつくりだった。タクシー強盗が多いのだろう。

 

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