アンデストレッキング(本編)

 ペルーアンデスには、世界山岳写真展で「世界で一番美しい山」に選ばれたアルパマヨ(5947m)がある。この山を是非見たいものと年齢も考えずに、2008年7月、ペルーアンデスのトレッキングに出かけた。アルパマヨは北側から見るのが一番美しいと言われている。北側から見るためにはアルパマヨサーキットと呼ばれる10日間の一周コースをトレッキングするしかない(写真01)
 インターネットを通じて地元の山岳ガイド会社と連絡を取りながらトレッキングツアーをアレンジし てもらった。

            写真01 アルパマヨサーキット(120km)

 初めての経験なのでトレッキングツアーとはどんなものか想像もつかなかったが、何とも浮世離れした王侯貴族になったような気を起こさせるものだった。そのツアーの仕組みが面白いので、ここではアルパマヨ一周ルートの紹介というよりも、トレッキングツアーの仕組みを紹介したい。

 トレッキングツアーにはプライベートツアーとオープンツアーの2種類がある。プライベートツアーとは特定の客のニーズに合わせて行う貸切トレッキングであり、オープンツアーとはトレッキングのコースと日取りをガイド会社が公表して参加者を募集し、その参加者でパーティーを組んで行うトレッキ ングである。
 客の数が多いほど一人当たりの費用は安くなるので「オープンツアーにしてもらって差し支えない」と伝えたのだが、10日間のトレッキングとなるとなかなか相客が見つからないからプライベートツアー でアレンジするとのこと。

 となると、小生一人のために、ガイド、コック、ポーターの3名と荷物運搬のロバ4頭のキャラバン隊を組むことになる(写真02)。更に小生の年齢(65歳)を考えて、馬もつけたほうがよいと言って来た。 馬を一頭余分につけても一日 10ドル増えるだけ。一日1000円でタクシー乗り放題なら安いものだと、馬もつけてもらうことにした。

              写真02 我がキャラバン隊の面々

 まずそれぞれの役割だが、ガイドは全体の指揮と客の案内。コース全体を良く知っていることが要求される。コックはキャラバン隊全員の食事を作ること、ポーターに協力してテントを設営・撤収し荷物をロバに積むこと。ポーターはテントを撤収して荷物をロバに積み、ロバを追い上げて次のキャンプ地に先行し、テントを設営しておくこと。それとロバと馬の管理。ポーターのことを donkey driver とも呼んでいた。ポーターの人件費が一番安いのだが、トレッキングを開始してすぐ、この仕事が一番大変なことが分かった。

 アルパマヨサーキットは全長120km、途中には4500mを超える峠が9つもある。一日の行程は谷間のキャンプ地を出発して、峠を越え、次の谷間でまたキャンプする、ということの繰り返しである。峠ごとに山の様相が異なり、谷間ごとに趣が異なるので飽きることはない。初日は麓の村の広場でキャンプさせてもらい、2日目から本格的な登りになった。最初のキャンプ地は標高4200mの山の放牧地である(写真03)。

      写真03  4200mのキャンプ地でテントの設営

 朝食をとったら客とガイドはすぐ出発する。コックとポーターが残り、テントを撤収して荷物(テント、食料、燃料、寝具など)をロバに積む。コックは客の昼食を作らなければならないので、飛ぶような速さで客とガイドを追いかける。大体、その日の行程で一番高い峠を越えるあたりでコックが追いつく。峠を越えて適当な水場があるあたりで昼食を作るので大休止になる(写真04)。

          写真04 昼食も必ず現地で調理

 朝食のとき昼食も一緒に作ってしまえばいいのにと思うのだが、これは日本人の合理的(横着)な考えのようだ。トレッキングとはこうあるべきものという概念があるのかも知れない。昼食が終わるとコックは、次のキャンプ地設営の手伝いと夕食の準備をするため、大急ぎでロバを追いかけてゆく。

 ポーターはロバを追いながらロバのペースで登ってくる。大抵の場合、峠で休憩をとっているとロバ隊が追い越してゆく(写真05)。

         写真05 休憩もとらずに進むロバ隊

 50kgの荷物を背負ってつらい登りをしてきたにも拘わらず、次のキャンプ地に先行しなければならないので休まずそのまま前進を続けてゆく。ロバの忍耐強さと耐久力に驚く。

 テントは、食堂用、客用、ガイド用、トイレ用の4張りを設営する。コックとポーターは食堂用に寝泊りする。トイレは地面に穴を掘りその上にテントを張っただけのもの。朝、出立するときは穴を土で埋めテントを撤収する。

 食堂のテントには客とガイドの食事用にテーブルが備えられ、コックとポーターは適当に木の箱に座って食事をとる。夕食は、内容は簡単だとしても、いつも、オードブル、スープ、メインディッシュ、デザートの形式を踏んでいる。プライベートツアーなので、できるだけ客の好みに合わせたメニューとするため、日本を出発する前にどんな食べものが好きかと聞いてき た。
 何でも食べるが鶏はあまり好きではないと答えておいたら、鶏肉は1回だけだった。日本人にあわせてご飯の食事を多くしてくれたが、上にかかっている具がペルー味であまりいただけない。最後のころは日本から持参した即席食材を自分でつくって食べた。

 ツアーの最初の頃は生肉を調理していたが、3日目ぐらいから缶詰や乾燥肉が多くなった。鍋は圧力鍋で、火力はプロパンガスボンベからホースでガスを引き込み、ガスコンロを使っていた(写真06)。 国立公園管理規定で山の草木を使うことは禁じられ ているとのこと。

         写真06 食事をプロパンガスで調理

 客が朝起きてテントから出るとポーターがなみなみとお湯の入った洗面器と石鹸を持ってきてくれる。ヒラしか経験したことがない小生にとってはなんともこそばゆい。それが翌日も続いたので、「自分で沢に行って顔を洗うから不要だ」と断った。

 小生とガイドがキャンプ地に着いたとき、まだテント設営をやっているときは、テント設営も手伝った。朝、自分のテントを撤収して収納サックに入れるのも自分でやった。西洋人だったら「これはあんたたちの仕事」と割り切って手伝わないかもしれな いが、日本人の感覚としてはつい手が出てしまう。

 キャンプ地に着くとロバと馬は一晩解放され、キャンプ地の周辺で適当に草を食べている。人間はこき使うだけで餌をくれるわけでもないのに、よく逃げ出さないものだと感心する。しかし必ずしもテントの近くにいるわけではないので、朝6時ごろポー ターがロバと馬を探しに出かける。
あるときはロバがかなり遠くに行ってしまったらしく朝食が終わってもポーターが帰ってこない。ロバが命の綱なのでガイドも出発することができない。馬も探さなければならないのでガイドが馬を探しに出かけた。ガイドが馬を連れ帰った頃、ようやくはるか下方にポーターがロバを追い上げてくるのが目に入った。いつもより出発が1時間以上遅れている。
 ガイドがコックに今日の昼食場所を指示すると小生を馬に乗せて出発した(写真07)。

         写真07 馬に乗ってトレッキング

 今日は4800mの峠を越える日だ。道もかなり険しい。ポーターとコックがテントを撤収して出発したのは我々より1時間以上遅れたはずだ。それにも拘わらずコックは峠で我々に追いついた。相当な馬力でしゃにむに追いかけてきたのだろう。
 ロバ隊は昼食をとっているときに我々を追い抜いて行った。後で聞いた話では、ロバは、山の放牧地から家畜が人里に下りないよう道に柵を作ってある付近にいたという。とすると標高差で600mも下っていたことになる。ポーターはそれを上下して、なおかつ、我々を追い抜いていったのだから、相当過酷な労働になったはずだ。同情を禁じ得ない。

 峠の手前に雪山に囲まれた美しい氷河湖がある(写真08)。その氷河湖を囲む岩盤は氷河に削られてツルツルになっている(写真09)。まるで人工的に削られたようだ。
 このツルツルの岩盤を削り込んで、氷河湖の水を灌漑に利用するための水路が出来ていた。その水路が大きな山肌をうねうねとどこまでも伸びている(写真 9-2)。アンデスの民(インカの末裔)は水の利用法が上手だ。

          写真08 雪山に囲まれた氷河湖

         写真09 氷河に削られた岩盤

        写真09-2 氷河湖から引いた用水路

 4800mの峠(写真10)への登りは大岩がゴロゴ ロし、かなり悪い道だ。馬の息づかいも荒くなった。馬が時々、恨めしげに「まだ乗っているのかよ」と小生を見上げる。いたたまれず馬を下りて歩くことにした。日本の山なら1時間に300mぐらいは登れるのだが、ここでは空気が薄いので150mぐらいしか登れない。ガイドがたまらず、馬に乗れと合図をする。

           写真10  4800mの峠にて

 馬の背に乗っていると、馬が「いやいや」をしているのが良く分かる。人馬一体とはよく言ったものである。これが機械と違うところだ。しかし予定を大幅に遅らせることはできない。
 道が階段状の急登になると、鐙につま先立ちになって尻を持ち上げるので、通常山登りでは使わない筋肉をつかう。道が急な下りになると蹄鉄が岩で滑って馬がよろよろするので怖くて乗っていられない。下りはほとんど歩くことが多かった。
 急斜面の山腹を細い山道でトラバースするときは、馬上で高い位置にいるので、千尋の谷底へ転げ落ちるのではないかと気が気ではない。しかも馬が歩きやすい場所は人間の歩きやすい場所と違って、わざわざ谷に落ちそうな瀬戸際を歩いていく。肝を冷やすことおびただしい。

 アルパマヨ(写真12)が見える放牧地でキャンプをしたときは、放牧の馬がたくさんいたので、ポーターが馬の手綱を潅木に繋いでいた。馬同士が混ざってしまうと探すのに苦労するかららしい。手綱を繋ぐ位置が悪く、馬が沢の水を飲めない位置だった。かわいそうに一晩水を飲めなかった馬は、翌日は沢を渡る都度、水を飲んでいた。

            写真12 アルパマヨ

 トレッキングコースでは橋のない川を渡渉することも多い。そんな時はガイドが登山靴を脱ぎ裸足で馬の手綱を持って川を渡渉する(写真13)。客は馬に乗ったままである。氷河が溶けたばかりの水なのでさぞかし冷たいだろうと同情する。

        写真 13 ガイドが靴を脱いで沢を渡渉

 標高3500m以下になると道の両側に結構木が生えている。トッレキングの中間地点ぐらいで標高3000mぐらいの集落まで降りるところがある。道も平坦で岩も出ていないのにガイドが馬を下りろと合図してきた。なんでだろうと思ったら、馬に乗っていると木の枝が顔に当たるからとのこと。ガイドがルートを良く知っていることがわかった。

 中間地点でキャンプした翌朝、テントの外に出たら、近くの鋭くとがった岩峰(プカヒルカ)に朝日が当たり、残月とあいまって、なんとも美しい光景だ(写真14)。写真を撮ろうとしたが、まだ薄暗いのでシャッタースピードを1秒にしなければ適正露出にならない。荷物になるので今回は三脚を持って来なかった。しかたないので、草原に寝転んで胸の上にカメラを置いて、1秒の間、カメラが動かないようにして撮った。何度も失敗して5回目にやっとブレていない写真が撮れた。

        写真 14  朝日の当たる岩峰と残月

 別の集落の近くでキャンプしたときは、近所の子供たちが寄って来たので、地図を出して「ここはどこだ」と身振り手振りで聞いてみたら、正確に場所を指差した。アンデス山中の分教場の子供も、しっかり教育を受けていることが分かった(写真15)。

       写真15  分教場の子供たちと地図を見る

 農家が2軒しかないある谷間では、谷間の広い草原を使ってアルパカの大群を放牧していた(写真16)。そのアルパカの周りを牧用犬が健気に駆け回って、アルパカが群れから離れないよう、自分より数倍大きいアルパカに向かって吼えていた。牧用犬の種類が和犬に似ていたので驚いた。

        写真16 広い谷間を使ってアルパカの放牧

 その翌日キャンプ地を出発したら、前を、家畜を連れた農民の一家が歩いている。道が狭いので追い抜けない。しばらくの間、後からついていった。
 見ていると、山の中の小さな放牧地が現れるたびに、牛と子供と犬を、羊と子供と犬を、というように家畜別に分けておいて行く(写真17)。子供と犬が夕方まで家畜の番をするのだろう。子供も重要な働き手であることが分かった。この子供達の教育は どうなっているのだろう。

    写真17 山の放牧地ごとに家畜を分散して置いてゆく

アルパカの大群がいた広い谷間には、コロニアル風の瓦で葺いた分教場らしきものがあったが、既に屋根も半分崩壊し、現在は使われていなかった。過疎化が進み農家が2軒になってしまったので廃校になったのだろう。

 トレッキングツアーの最後の日、朝7:00 ごろ、ポーターが私と握手すると空の馬とロバを引いて自分の村に帰っていった(写真 18)。

         写真 18 馬を引いて帰るポーター

 今日は40km の道のりを10時間かけて歩いていくとのこと。途中には4700mの峠もある。トレッキングツアーなら3日の行程に相当する距離だ。10日間、あのつらい荷運びをしてくれたポーターとロバに限りない愛着を感じた。

 殿様のような体験をさせてもらったトレッキングツアーの仕組み(様式)を思い出してみると、西洋の王侯貴族が狩をするときの様式を踏襲しているのではないだろうか。1533年にスペインがインカ帝国を滅ぼして、スペインの統治下に入ったので、この狩のスタイルをスペイン人が持ち込んだのではないか。
 王様が客、王様を守る騎士団がガイド、コックは宮廷料理人。狩の勢子や荷運び部隊がポーター。王様と騎士までは専用のテントがつく。王様の食べる料理なので昼食も必ずその場で調理する。朝、一緒に作るというような手抜きはしない。 昼食のほか、10時半ごろと3時ごろに必ず軽食タイム(彼らはこれをピクニックタイムと呼んでいた)がある。このことから逆に、王侯貴族の狩とはこのようなものだったのかと想像を思い巡らすのも面白 い。

 

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