忘れえぬ成昆鉄道

1.成昆鉄道とは
 四川省の成都と雲南省の昆明を結ぶ約1100kmの鉄道である。1976年に出版された写真集「成昆鉄道」で紹介されていた。その写真集によると、人民解放軍鉄道部隊が、つるはしや削岩機を担いで険しい山道を登り、峡谷の断崖にロープでぶら下がりながら工事をしたそうで、何万人もの犠牲者が出たとのこと。何万人というのは白髪三千丈的なオーバーな表現だとしても相当な難工事であったことは確かなようだ。

 この鉄道には、一線天(写真01)という峡谷(峡谷の底から天を見ると天が一本の線のように見える)、7重ループの大涼山ループ線、3重ループの竜骨甸山ループ線があるという。その写真(写真02:場所不明)も出ていたが素晴らしいの一言に尽きる。是非ともこの景色を我が目で確かめたいものだと乗るチャンスをうかがっていた。

 2006年8月、やっとこの鉄道に乗る機会を得た。今回は昆明から成都に向けてこの鉄道に乗った。

   写真01 一線天(出典:成昆鉄道)

       写真02 ループ線(場所不明)(出典:成昆鉄道)

 2015年頃、中国の鉄道関係者にこの写真の場所を聞いたところ、成昆鉄道でこういう場所は記憶にない、もしかしたら手で加工した写真ではないかとのこと。そういう目でみると、中段のSLが停まっているループ線がはめ込みではないかと思われる。理由は、一番上の線と一番下の線は線路わきに通信線の電柱が建っているが、中段の線路には電柱が見えないからである。

 

 成昆鉄道はゆっくり景色を見たかったので鈍行で旅することにした。鈍行となると事前に切符は買えない。中国の鉄道はいつも込んでいるので予定通りの列車に乗れるかどうか分からない。だから宿も手配せず、とにかく行ってみることにした。
 鈍行は1日1本しか走っていない。全部鈍行で乗りつぶすとすると、昆明~攀枝花、攀枝花~普雄、普雄~成都と3日かかる。それぞれ350kmぐらいの区間だ。

2.昆明から攀枝花
 昆明から攀枝花までは鈍行の出発時間に間に合わなかったので急行に乗った。急行の切符が当日でも買えたので飛び上がるほどうれしかっ た。

 急行の発車時刻まで間があったので駅前で時間をつぶそうと歩いていたら、鉄路招待所と書かれた大きなビルがあった。乗客なら休ませてくれるだろうと、出会った女性職員に切符を見せて、「出発まで休みたいがどこで休んだらよいか」と聞いたら、「ここでは休めない。この列車は私の乗務する列車だ」とのこと。

 駅構内の喫茶店で時間をつぶし、出発時刻の40分前に荷物検査を受けてからホームに出た。当方の乗る車両の入り口に行ったら、鉄路招待所で会った女性が立って切符をチェックしていた。当方が乗る車両の車掌だったとはおどろいた。なにか因縁のようなものを感じた。

  列車に乗ってしばらくしたらデッキの付近で女性同士の激しい罵り合いの言葉が聞こえてきた。トイレのドアを蹴って怒鳴っているところを見ると相手は中に入っているのであろう。そのうち、こちらの車両から3~4人の女性が加勢にでてきた。トイレから出てきた女性の髪の毛を引っ張って大もめになった。大声で何か言い争っている。こういう中国語は全く聞き取れないので何が原因だか分からない。止めに入りたかったが怖くて入れなかった。

 しばらくすると、向こうの車両からも3~4人の女性が加勢に加わって、双方入り乱れて取っ組み合いになった。しばらくその状態が続いていたら、向こうの車両からおじさんが出てきて止めに入ったが、取っ組み合いは収まらない。
 そのうち誰かが警乗に知らせたのか公安官が来て止めに入った。さすがに取っ組み合いは収まったが罵り合いはしばらく続いた。それもだんだんと収まって双方自分達の車両に引き上げて行った。中国の女性は強い。なめてかかったらとんでもない目にあいそうだ。

3.攀枝花
 攀枝花についてすぐ翌日の鈍行の切符を買った。「あさっての普雄からの切符も買いたい」と言ったら「それは普雄で買ってくれ」とのこと。鈍行の切符は乗車駅でしか発売しないらしい。
 さて宿を探そうと切符売り場を離れたらお婆さんに腕をつかまれ「うちに泊まっていけ」とのこと。「明日は早い列車に乗るので駅近くで探す」と言ったら、「うちは駅のすぐ近くだ」と半ば拉致されるように連れて行かれた。薄暗い路地を入ったら「八一招待所」という中国庶民の利用する宿屋(写真03)があった。駅から1~ 2分の距離だった。

        写真03 中国庶民の宿:八一招待所

 フロントに着いたら、トランプをやっていた4人組の一人のおかみが面倒くさそうに立ってきて、料金表を投げてよこした。中国の接客態度はこれが当たり前なのでさして驚かない。相部屋20元、個室40元、トイレ付き個室60元、トイレとシャワー付き個室80元、という値段だった。相部屋にするほどの度胸はなかったのでトイレ付き個室にしたが、日本円に換算すると900円なので安いものだ。
「身分証明書を見せろ」というのでパスポートを出したら、「日本人か」というような顔をして、しげしげと当方の顔を覗いていた。こういう 宿に泊まる日本人はいないのだろう。

 部屋は3階。真っ暗に近い廊下を歩いて行ったら廊下の奥で、腕っぷしの強そうな男共が何かゲームをしていたので肝をつぶした。これはやられるかと一瞬思ったが、特に当方に注意を向けるでもなくゲームに熱中していた。この男共は用心棒なのだろうか。

 3階まで登ったらそこに3階の受付があり、部屋の鍵を出してくれた。その鍵を渡してくれるのかと思ったら、その鍵を持った係員が付いてきて部屋の鍵を開けると、また鍵をもって帰ってしまった。部屋は内側から鎖錠できるようになっていたが、外に出るときは係員に頼んで鍵をかけてもらわなければならない。宿泊客が外に出たかどうか確実に把握できるシステムにしているようだ。

 部屋について窓を開けたら攀枝花駅構内と繋がっていた。なるほど駅に一番近い。部屋は8畳ほどの広さで、ツインの部屋だった(写真03-1)。空調は天井扇風機。テレビは付いていたが、電話はフロントにつながるだけで、外線にはつながらないものだった。

    写真03-1 八一招待所の客室(トイレ付個室)


4.攀枝花から西昌
 翌日は攀枝花7:12発の鈍行に乗った。12両編成ぐらいの列車だがドアがところどころしか開いていない。客車のうち1両は座席を取り払って荷物車に改造して、農産物を一杯積んであった。始発駅ではまだ乗客もまばらなので右側の席がゲットできた。
 駅に着くと、列車を降りた客が平気で線路上を歩いてゆく(写真03-2)。道路を歩いてゆくより線路を歩いて行った方が近いのだろう。だから列車が出発するときは、けたたましく警笛を鳴らすことが多い。

      写真03-2 駅で降りたら線路を歩いて帰る

 早速、対向列車のカウントを始める。単線なので必ず駅で止まって行き違いする。複線区間で対向列車のカウントをするときより楽だ。6時間で12本と行き違いをしたので、片方向1時間に1本程度の運転本数である。いくら駅間距離が日本の2倍(8km)あるといっても運転本数が少なすぎる。もっと増やせば輸送力を上げられるのに。電力事情が許さないのだろう。列車本数は、旅客1に対して貨物2ぐらいの割合。成昆鉄道は貨物輸送が主体の線と見受けた。

 貨物列車の牽引定数は貨車の積車重量と連結両数から計算すると3200tぐらいになる。これを韶山型EL重連で牽引しているので、このELはかなりの出力だ(写真03-3)。

   写真03-3 貨物用EL(2両で構成されている)

 客車の端に貼ってある治安員席の写真を撮ったら(写真03-4)、次の車両(荷物車)の車掌が飛び出してきて、「今撮った写真を見せろ」とすごい剣幕で言ってきた。デジカメで再生してその写真を見せたら顔が真っ暗で誰だか分からないことと、私の発音からすぐ外国人だと分かったらしく、そのまま引き上げていった。何を心配したのだろう。

   写真03-4 客車の端に貼ってある「治安員」席の表示

 車掌が何かパンフレットのようなものをもって車内を売り歩いている。しかし誰も買わない。当方のところに来た時は外国人だと分かっているので、かなり熱心に買え・買えと勧められた。中国国鉄でもこのような営業をさせるようになったかと新発見した感じだった。客車のトイレに入ったら、垂れ流し式で、便器が汚いのに驚いた(写真03-5)。

        写真03-5 普通客車のトイレ

 昼頃、西昌に着く頃には満員になった。西昌から乗ってきて対面に座った地元の少年男女はいかにも農民らしいという感じだった。でも話し好きでいろいろ聞いてきた。発音が聞き取れないのでもっぱら筆談。男の子の方は字を書くのが苦手らしく女の子がもっぱら書いていた。栗をすすめられたので食べたら生栗だった。1個でやめておいたが、その日から数日はひどい下痢になった。

 彼らも普雄まで行くというので、「普雄に旅館はあるか」と聞いたら、「鉄路招待所」があるという。「誰でも泊まれるのか」と聞いたら「誰でも泊まれる」とのこと。
 日本のお札を持っているかと聞くので千円・五千円・一万円を出して見せたら、「記念に元と交換したい、いくらだ」という。1元15円で換算して答えたら「それでは高すぎて持ち合わせがない。もっと安い札はないか」という。
 1ドル札を出してこれなら8元ぐらいだと言ったら、8元なら持ち合わせがあるらしくポケットを探し始めた。ちょうどそのとき警乗の公安官が回ってきて、当方に「治安員席に移れ」と言ってきた。まるで外貨との交換は違法だとでも言っているようだった。

5.大凉山ループ線
 このへんから大凉山のループ線が始まる。治安員席は警乗公安官や警察の専用席なのでだれも座らない。もっぱら景色を見ることに専念できた。時刻表にも出ていない駅がたくさんあり、独特な帽子をかぶった地元の少数民族が降りて行く(写真04)。西昌1574mに対し大涼山ループ の最高点である紅峰は2332mなのでずっと登りが続く。

       写真04 独特な帽子をかぶった少数民族

 ここのループ線の線形は、当時手に入る資料では図05-1の左図に示したような複雑な形をしている。

 しかし図05-1左図には、トンネルの位置が書いてないので現在位置をつかみにくい。そこで次のように測ることにした。①列車の進行方向を磁石で測ってループ線のどこを走っているか見当をつける。②それにより、列車の右側で撮影するか左側で撮影するか決める。③トンネルの入出時刻を記録して、トンネルの位置と長さの見当をつける。④各駅の着発時刻と海抜を測って記録する。⑤それと一番大切な撮影をする

図05-1 大凉山ループ線の線形(左:写真集に掲載されていた線形、 右:本当の線形)
(注)1976年出版の写真集「成昆鉄道」に掲載されていたループの線形は左側の図であるが、最近の資料で実際の線形がわかるようになったら右側の図のとおりである。中国では鉄道は戦略施設として位置付けているので、実態をカモフラージュするために意識的にデフォルメさせたのであろう。新涼から尼波まで約50kmに及ぶ大きなループ線である。

 大凉山ループにかかると俄然当方の作業が忙しくなった。これではオーバーワークで作業が間に合わなくなり、とうとう、今どこを走っているか分からなくなってしまった。しかも満員なので左右に移動できず思い通りに写真が撮れない。ついに絶景ポイントを見逃してしまった。 下段のループ線にある新凉駅から上段のループ線にある鉄口駅までは歩いて10 分だが、列車は20分かかると言われるほどループが大きい。辛うじて撮れたループ線の写真を下に示す(写真05-2)。

写真05-2 辛うじて撮れたループ線の写真(図05-1:右図の赤矢印の方向を見た写真)

 この写真は鉄口駅を過ぎたあたりから撮影したもので、下段のループ線を貨物列車が走り、中段のループ線があって、自分が乗っている列車は上段のループ線を走っているところである。

写真05-3 辛うじて撮れたもう一枚の写真(写真05-1:右図の緑矢印の方向を見た写真 )

 この写真は楽武駅あたりから撮影したもので、成都方面に延びる線路が、自分が走っている線路の下から出てきているのがわかる。

 

6.普雄鉄路招待所
 ループも終わり終着の普雄に着いた。鉄道としては機関区もあり大きな駅なのだが町は純然たる田舎町だ。駅前には馬車しか停まっていな かった(写真06)。

       写真06 普雄駅前には馬車しかなかった

 真っ直ぐ切符売り場に行き、明日の成都までの切符を頼んだら、明日の朝でないと売れないとのこと。攀枝花では明日の切符を発売したのに、駅によって取り扱いが違うのか。
ホームに戻り、駅員に鉄路招待所はどこかと聞いたら、「それだ」とホームに面した建物を指差した。招待所に行き、当直員に「元日本国鉄の職員だが泊めてもらいたい」と頼んだら、「駅の許可はもらっているか」という。とっさに「駅員にこの付近に宿屋はあるかと聞いたらここを教えてくれた」と答えたら「OK」ということになった。機転の利かない当方にしては珍しくうまい応答が出来たものだ。

 部屋に案内されて荷を降ろし、汗をぬぐおうかと思っていたら、「食事を一緒にしないか」と当直員が誘いに来た。これも何かの縁だろうと汗もぬぐわぬまま下の食堂に降りていった。すでに料理が3皿ほど並んでいた。
 当方はビールも頼んだがこの暑い夏なのに冷えていない。コップに注ぐと泡ばかりだ。「泊めて貰ったお礼にここの食事は当方がおごるから」と言ってビールを勧めたら、「勤務中だから飲めない」とのこと。そういえばそうだ、これは気が利かないことをした。「おごるから」と言ったのが逆効果になってしまい、反対に当直員から夕食をおごられてしまった。心苦しい。でも陽気な当直員で話がはずんだ。

 夕食が終わっても18:30で四川省ではまだ日が高い。街を見ようと改札口に行ったら鉄格子が閉まっていて外に出られない。しかたないのでホームの端まで歩き、駅の塀が切れたところから鉄道線路の築堤の斜面を下って平地に降りた。
 降りたところはうんこ臭い貧民窟のようなところだった。地面も下水があふれて濡れていた。えらいところに出てしまったなとウロウロしていたら、おばさんが駅前に行くには向こうだとでもいうように指差した。

 少し広い通りに出たが、ここも舗装はなく、でこぼこの砂利道をあふれた下水が流れていた。子供が道路でうんこをしていた。普雄とはひどい田舎町だなと思いながら進むと、やっと駅前から降りてきた本通りに合流し、商店も立ち並んでいる。今までの地域はどういう地域なんだろう。ひどい格差に驚いた。

 本通りには商店が並び人や馬車でにぎわっていた(写真07)。電話屋があったので家に国際電話しようと思ったが、ここでは国際電話は通じないとのこと。その近くに食堂があったので、「何か冷たい飲み物はあるか」と聞いたら、発音で外国人であることが分かったらしく、わっと人が集まってきて、店は立錐の余地がないほど黒山の人だかりになってしまった。残念ながら冷たい飲み物は無いとのこと。
 このあと一週間ほど四川省内を旅行したが、どこに行っても冷たい飲み物にはありつけなかった。まだ冷蔵庫が普及していないからか、冷やして飲む習慣がないからか、分からなかった。

     写真07 普雄の町の賑わい(とにかく人が多い)

 その少し先に「八一賓館」と書いた旅館があった。昨日攀枝花で泊まった八一招待所と同じ系列旅館なのだろう。中国で八一というと、中国共産党が1927.8.1に江西省南昌で武装蜂起した日なので、人民解放軍の建軍記念日ともなっている。八一招待所も八一賓館も人民解放軍系列の宿泊施設なのだろう。八一賓館の先にはカラオケ店もあったが、その先で商店もまばらになったので引き返すことにした。今にして思えばカラオケにも入って見れば、更に面白い経験ができたかもしれない。残念なことをした。
 当直員にお礼の果物と菓子を買ったが、これがまたえらく安い。これでは恥ずかしいなと思いながらも他に適当なものがないので買って帰った。中国は工業製品は日本と同じぐらいの値段だが、農産物はほんとうに安い。これは中国の物価政策のためだろう。このため農民が貧しくなっているのではないか。

7.相客の知識青年
 鉄路招待所に戻り当直室に果物を届けたら、「暑いのでシャワーがある部屋がいいだろう、相部屋になるけどシャワーのある部屋に移るか」と聞いてきた。謝謝と二つ返事で部屋を替えてもらうことにした。
 相部屋にはすでに人が入っていた。若い教養のありそうな青年だった。先にシャワーを浴びることにした。なんとも旧式な設備だ。なかなかお湯が出てこない。青年に聞いたら出し方を教えてくれた。シャワーを浴びるとさっぱりした。それからお互いに自己紹介。

 青年は「西南交通大学で電子通信を専攻し、中国電信に就職した」とのこと。西南交通大学とは四川省成都にある名門の工業大学だ。
 今度の旅行ではどんなところを回ったのかと聞くので、北京→西蔵→昆明→成都と、かいつまんで話したら、「あなたの齢で、一人で中国を3週間も旅をしようとはすごい精神だ」と言ってきたところ見ると、63歳と言うと中国では相当年寄り扱いなのだろう。

「こういう本も持っている」と言って、1976年に発行された「成昆鉄道」という写真集を出したら、「これは貴重な本だ。中国ではもう図書館でも見つからない」といって、隅から隅まで丹念に見ていた。
 当方の憶測だが、この本は巻頭に文化大革命を賛美している文章がある。現代中国では文革は否定されているので回収されたのではないか。毛沢東の写真を機関車の先頭に貼り付けた開通記念列車の写真(写真07-2)を指差して、「このおじいさん誰だか知っているか」と、おどけた調子で聞いてきたのにはびっくりした。中国でも毛沢東は過去の人になったのか。1977年に初めて中国に行ったときは、毛沢東と呼び捨てにしたらしょっ引かれるという雰囲気で、必ず、”偉大的領導(偉大な指導者)”という枕詞をつけて呼んでいたのに。

写真07-2 開通記念列車の毛沢東の写真(出典:「成昆鉄道」)


 夜の駅構内の風景も見たいので、外で涼んでくると言って外に出た。招待所の入口を出るとそこはもうホームだ。普雄は標高が高い(1800m)ので夜は涼しい。ホームに建つ鉄塔の下に腰掛けて夜の構内作業を見ていた。登山靴をはいた当方が座っていても誰からもとがめられなかった。他にも鉄道員とは思えないような人が三々五々ホームで涼んでいた。中国とはこういうところなんだ。
 ホームのとある建物から自動小銃を持った兵士がぞろぞろ出てきて中線の軍用列車に乗り込んでいった。なんとなく緊張感を感じた。
 部屋に戻ったら青年が抗日戦争時代のドラマを見ていたが、当方が入って来たので気をつかってチャンネルを変えていた。その気配りがうれしかった。

8.一線天と峡谷の駅
 翌日は普雄7:05発の鈍行に乗った。今日はいよいよ一線天の峡谷が見られる日だ。写真集には一線天の写真や両岸見上げるような絶壁に囲まれた峡谷内の駅(写真08左)が載っているのだが、どこにあるか書いてない。

  写真08 峡谷内の駅(左:写真集に載っていた写真        右:今回撮れた写真)


 場所が分からないとシャッターチャンスを逸するので、対面のおじさんに写真集を見せて、「この駅はどこにあるか」と聞いてみたが、隣近所の人と顔を見合わせているばかりで要領を得なかった。
 対岸の山が石灰岩になった。甘洛という駅あたりからだんだんと谷が深くなってきた。大渡河と合流してからは、トンネルが断続的に続き、谷が見えるのはトンネルとトンネルの間の一瞬だけ。デジカメではシャッターが一瞬遅れるので狙ったものが撮れない。画像を再生しても「何これ?」と言いたくなるようなものばかりが写っている。一線天と思われる峡谷はあっという間に通過した。海抜825mだった。

 両岸の壁が高くなり、本当に峡谷の中にすっぽり入ってしまったような地形になった。岩壁の上まで画面に入れるのが難しいほどだ。Google Earthで岸壁の高さを測ると1200mもある。大渡河はずっと進行右側をかなりな急流となって流れている。ある峡谷の駅で撮った写真を成都のホテルについてから再生してみたら、これぞ間違いなく「成昆鉄道」に出ていた峡谷の駅だった(写真08右)。偶然とはいえラッキーな写真が撮れた。長河埧という駅名らしい。

9.農民
 今日の鈍行は普雄を出発して直に満員になった。大きな荷物を担いだ農民が至るところから乗り込んでくる。ホームのないところからも(写真09)、窓からも(写真10)。冷蔵庫が普及していないので動物は生きたまま担いで乗ってくる (写真11)。

     写真09 ホームがないところからも乗ってくる

         写真10 窓からも乗ってくる

       写真11 鶏も生きたまま背負ってくる

 乗客が、食べかす・空き瓶・タバコの吸殻などを、ところかまわず捨てるので、車内はたちまち汚れてしまう。対面の座席は、若い女性・おじいさん・おじさんの3人が腰掛け、通路を挟んで反対側に腰掛けている若者も話に加わっている(写真12)。

       写真12 対面のおじさんから質問攻め

 当方がタバコの吸殻を携帯灰皿に押し込んでいたら物珍しそうに見ていた。そのうち彼らも吸殻を当方の携帯灰皿に入れるようになったのでたちまち満杯。ポケットからビニール袋を取り出して灰皿をあけていたら、前の若い女性が何か大声で怒鳴っていた。何と言っているのか分からなかったが、多分、「灰皿でかっこつけたってダメさ、本当は禁煙なんだからね」と言っていたのかも知れない。治安員席の上には「車内禁煙」の掲示が出ていた。それにしても誰も守っていない。車掌も吸っていたくらいだ。

10.質問攻め
 対面のおじさんから質問が矢のように浴びせられる。強い四川訛りで分からないので筆談が多かった。「第二の就職」という中国語が思い浮かばなかったので、すでに日本国鉄を退職して年金生活ということで会話を進めた。
 結構ぶしつけな質問ばかりだ。①歳はいくつか、②日本の何処に住んでいるか、③仕事は何をしているか、④どんな位でやめたのか(部長級か課長級か)、⑤年金収入はいくらか。⑥若者の給料はどのくらいか、⑦なぜ、部長級でやめた人の年金より、若者の給料のほうが高いのか?

 このような質問が出るところを見ると、中国の年金は、やめたときの給料がそのまま維持されるのかもしれない。その点について逆に質問すればよかった。周りの人から次々と質問されるのでその点を聞くのを忘れてしまった。
 日本に帰ってきてから中国人に、「中国を旅した時、中国人の質問に驚いた」と言ったら、ずけずけ聞くのが中国の普通の挨拶だ。日本人みたいに「今日はいいお天気で」などと、してもしなくてもいいような挨拶はしないとのこと。

 珍渓という駅についたときは、ホームから離れた中線に停車した。ホームとの間のバラストの上を乗降客が行き来し、物売りが線間に立って商売しているにも拘わらず、行き違い列車が入ってきたのには驚いた(写真13)。バラストの上を行き来している人々も平気で、さして気にしていない様子。列車の進入スピードは相当殺されているとはいうものの危険極まりない。

          写真13 線路上に人がいるのに対向列車が進入

 とある駅で、保線区か何かの建物の壁に「安全は鉄道の永遠の主題、安全規定違反は即犯罪」という、いかめしい標語が張ってあったが、その前に、ブラジャーとジーパンが干してあるのが滑稽だった(写真14)。いかめしい標語もただ張ってあるだけで空念仏に過ぎないようだ。中国では鉄道でもあらゆる職種に女性が進出していると聞いていたが、まさに 実感というところ。

写真14 「安全規定違反は即犯罪」と厳めしい標語の前にも、ブラジャーが干してある 


 大渡河の峡谷も終わり成都平野に出たころ、対面の若い女性が降りた。その後に座った青年にまた質問攻めにあった。若いだけあって理屈っぽい質問が多かった。
 ①靖国問題をどう思うか。
 ②小泉をどう思うか。
 ③中日戦争をどう思うか。

 「そういう話はやめよう」と言ったら素直に応じてくれた。これは歳の差かもしれない。中国は案外老人を大切にする国なのかもしれない。
 小泉非難はチベット鉄道でも、チベット内でも、あちこちで聞かされた(注:言葉の関係で、話した相手はみな中国人)。でも非難の理由は靖国参拝だけであり、小泉のこの政策が反中国的だというものではなかった。

 中国側の論理はどうやら次のようなものらしい。「中日戦争を起こしたのは一部の軍国主義者であって、日本の一般人民もその被害者である。A級戦犯である一部の軍国主義者を靖国に合祀してしまったので、首相が靖国に参拝することは、日本が一部の軍国主義者も含めて敬っていることになる。だから首相は靖国に参拝するべきではない。ドイツはヒトラーを英雄記念碑に入れていない」ということらしい。このような難しい問題を議論できるほどの中国語力はないので、日本に帰って来てから調べた結果である。

 中国の国民性は形を重視しているようだ。当方が、「でも、小泉は日本で始めての都市型首相だ」といったらキョトンとした顔をしていた。まあ、全然論理がかみ合わない答なのでキョトンとされても仕方ないが。当方の中国語表現「小泉是第一次都市性総理」がまずかったのかも知れない。

 車内の暑さも並大抵ではない。温度計を出して測ったら37℃、暑いはずだ。出てくる汗を手ぬぐいで拭くと真っ黒に汚れる。成都平野は煤煙もすごいようだ。周囲の山も霞がかかったように見える。
 当方の脇の通路に立っていた青年が、「日本の列車もこんなに暑いか」と聞いてきた。「いまは鈍行にも全部冷房が入っている。でも20年ぐらい前は日本もこれと同じだった」 と答えたら、「20年も前か」と感心していた。

 この列車は鈍行なので成都まで行かず、成都南というローカル駅が終点。その少し手前の駅では1時間遅れていたが成都南に着いたときは30分遅れだった。毎日、農産物の積卸で遅れるので最後の区間に大きな余裕時分を盛っているのだろう。

 参考までに、普雄~成都南まで372kmの普通運賃は23元(345円)だった。この当時、中国と日本の一人当たり年収は10倍の差があったので3450円としても、距離が372kmなら日本の半額である。中国では一般庶民が利用する料金は意識的に安くしているのかもしれない。

 成都南は駅舎らしい駅舎も無い駅だった。改札口を出たがタクシー乗り場がない。駅前は人人人で埋め尽くされていて、白タクが騒々しく客を呼び込んでいる。 とうとう念願の成昆鉄道に乗ることができた。その満足感に浸りながら、一台のくたびれた小型三輪車に乗って成都のホテルに向かった。

参考文献  写真集:成昆鉄道:1976年、中国国際書店発行

 

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