海抜5000mを走るチベット鉄道

 2002年頃から、中国の鉄道雑誌「鉄道知識」にチベット鉄道建設の記事が連載されるようになった。標高5000mのチベット高原に鉄道を建設するため数々の技術課題を克服してゆく様子が描かれていた。この鉄道が開通したら是非とも乗ってみたいと考えていたところ、2006年6月にチベット鉄道が試運行を開始したので、早速、8月に北京からラサまで乗車した。この記録はそのときの乗車体験記である。

前準備
 中国でもチベット鉄道への関心は高く、開通直後のチベット鉄道の切符は容易に手に入らなかった。特に北京からラサまでの列車は一番人気のある列車であり、しかも、チベット一番のお祭り”ショトン祭”に合わせた日取りなので、日本の旅行社ではまず手に入らない。そこで、中国の旅行社に直接メールして、切符の手配をたのんだ。初めて利用する旅行社だが、信用して料金も全額、銀行振込で払った。

 日本出発の4~5日前になって、旅行社から、「北京からの切符はどうしても手に入らない、西寧まで飛行機で行って、そこからチベット鉄道に乗るという切符ではどうか」とメールが入った。
「すでに費用も全額払っているので、契約は成立している。もし北京からの切符が取れなければ、御社の信用にかかわりますよ」と冷たい返事を出したら、出発直前になって、「なんとか手に入れた。日本に送っている時間がないので、北京空港で出迎えガイドから手渡す」というメールが入った。

 この辺は中国人の商売に対する考え方がわかって面白い。「取引上約束したことは必ず守らなければならない。それができなければ信用を失う。信用を失ったら商売はできない」という不文律のようなものがあるのではないか。鉄路局の偉い人に頼んでようやく手に入れたらしい。

成田~北京
 成田からの飛行機は中国民航を利用したが、成田到着が遅れた関係で、北京着が2時間ほど遅れた。北京空港に着いたら早速、出迎えガイドから当方の携帯に「北京市内は渋滞しているので、北京西駅の発車時刻に間に合うかどうか心配だ。一刻も早く出てきてくれ」と電話が入った。

 空港の出口ゲートの前に、当方の名前を書いた紙を持って出迎えガイドが立っていた。ガイドの車ですぐ西駅に向かった。西駅についてから、チベット鉄道の切符とチベット入域許可書をもらい、荷物検査を受けて、直ちに乗車した。
 乗車するとすぐに車掌が「旅客健康申告カード」なるものを配ってきた(写真1左)。内容は、「高原旅行の内容を知っているか、高原旅行に耐えられるか」と言うものだった。両方とも「はい」にチェックをつけて返した。 拉薩行き特急の中で一番人気のある「北京西~拉薩」の列車標識(写真1右)。

          旅客健康申告カード      写真1      拉薩行き特急のサボ

 21:30定刻に、ラサ行き特急T27は静かに動き出した。当方の指定席(硬臥下段)は客車の一番端のボックス(と言っても扉はついていない)で、同室の面々は、対面下段のおばさん、中段の若い女性二人、上段はいろいろな人が出入りしていたのでよくわからない。

西安~西寧
 目が覚めたらもう6時過ぎで、黄土高原特有の垂直な崖が見え隠れしていた。崖に窰洞(ヤオトン) の跡はあるがもぬけの殻のものが多かった。今では窰洞をやめて通常の家に住むようになったらしい。
 食堂車(写真2)の見物もかねて朝食をとりに廊下を歩いていったら貫通扉が閉まっていて通れない。扉をノックして車掌に「開門、開門」と言ったら、「切符を見せろ」「お前の車両は13号車だ、反対方向だ」というので、「食堂車に朝食を食べに行く」と言ったらやっと開けてくれた。

          写真2 食堂車
 9時ごろ西安についた。機関車の写真を撮りに行きたかったので車掌に「何時発か」と聞いたら、「すぐ出発するから列車に乗れ」の一点張り。ホームに降りてみたら、発車標に出発時刻が表示されていた。これに思い至らないのはドジだった。ホームは、ここで降りる人も結構いて、込み合っていた(写真3)。西安で降りるくらいならなんでラサ行きに乗ったのだろう。切符が手に入らず困っている人が多いというのに。

        写真3 西安で降りる客

 当方の乗った寝台車にはアメリカ人、オーストラリア人、東南アジアからきた華僑がいたが、アメリカ人の周りはいつも中国人の人垣ができていた。オーストラリア人・日本人(すなわち当方)の回りにはちらほらである。中国人の関心はアメ リカに向いているようだ。

 通過するどの駅でも、T27(北京→ラサ行特急)が通過する際は当務駅長が直立不動で見送っていた。チベット鉄道開通直後なのでT27には視察名目で中央の大幹部の乗車が続いているのであろう。
 15:30ごろ蘭州に着いた。ホームの発車標に発車時刻が表示されていたので、安心して機関車の写真を撮りに行った。ELを切り離してDLに付け 替えている最中だった。客車の台車は160km/H対応だった(写真3-1)。在来線でこれだけの速度を出すとは大したものだ。さすがは標準軌の鉄道だ。

       写真3-1 客車は160km/hまで出せる

 沿線のアパートの塀には至るところに「清潔に」と書いてある。それだけ現状は非衛生なのだろう。役所や企業の建物には例外なく「サービス向上」という標語がデカデカと書いてある。現状はそれほど不親切なのだろう。黄河の支流にある発電所の看板には「盗電は違法」と大書されていた。盗電が多いのだろう。こうなるとモラルの問題だ。

 西寧には夕方、18:00頃ついた。ここでもまた別のDL重連に付け替えていた。西寧を発車すると列車は蛾々たる岩山の間をぐいぐい登ってゆく。あたりがだんだん暗くなるが青海湖を見たいのでずっとデッキに立っていた。
 タバコを吸いに来た中国人が当方を中国人だと思って話しかけてきたが、日本人と分かると次々と質問してきた。聞き取れないのでほとんど筆談だがいろいろ話がはずむ。その中国人が友達を呼んでくるのでいつまでたっても会話が途切れない。
 もう高度計が3000mを示している。青海湖も見たいので視線を忙しく動かす。そのうち外は真っ暗になってしまった。結局、青海湖は見えなかった。しかし湖岸であろうと思われる平原には点々と明かりがついていた。

 ある中国人が「歳はいくつだ」というので、63歳だといったら、「俺の親父は日本軍に殺された。中日戦争をどう思うか」と言ってきた。これは困った。当方はそういう難しい話ができるほど中国語が達者ではない。「申し訳ないが、1942年生まれなのでその頃のことはよく知らない」と逃げた。その中国人も「そうか。それはそれとして、今は中日友好で行こう」と締めくくって帰っていった。
 私を取り巻いていた中国人の一人が、もう寝台で寝る支度をした若い女の子を連れてきたのには驚いた。旅行の仲間だと言う。目のやり場に困る。日本に関心があるらしくいろいろなことを聞いてきた。しばらく話していたが時間も22:30ぐらいになり当方も立ち続けで疲れたので、「もう寝るから」といって自分の寝台に引き上げた。

ゴルム~ラサ
 目が覚めたら列車が停まっていた。外はまだ暗い。ホームに出て駅名標をみたらゴルム2829mと書いてあった(写真3-2)。時刻は6時、寒いくらいだ。先頭まで駆けていって機関車を見た。すでにチベット高原用の特製DL三重連が連結されていた。角ばった面構えで力強そうだ(写真3-3)。

     写真3-2 ゴルムの駅名標(海抜2829m)

     写真3-3 チベット高原用特製DL(NJ2型)

 6:40にゴルムを出発。中国ではどこも北京時間を使っているので、ゴルムでは実際の時間より2時間ぐらい早い。夏でもまだ暗い。最初はまだ薄暗い中をゴルム川に沿って登ってゆく。髙さ50mほどもあるゴルム川の垂直な泥の壁が見えたら、三岔河大橋である。進行方向右手奥に崑崙山脈の雪山が聳えている。

 ここでゴルム河を渡り、グイグイと崑崙山脈への長大勾配を登ってゆくころ朝日が差してくる。この登り部分がチベット鉄道のハイライト部分なのでしっかり見ておこう。進行右側に、きれいな侵食ひだが刻まれた斜面が現れ、続いて垂直に削られた川岸と雪のついた崑崙山脈の峰々が見える(写真4-1)。

        きれいな侵食ひだ       写真4-1     垂直な川岸と崑崙山脈

手持ちの高度計も4000mを超えた。左手に雪をかぶり氷河をかかえた美しい玉珠峰が見えてきた(写真4-2)。

         写真4-2 美しい山:玉珠峰

 望崑で大きく左カーブするあたりで沿線に熱棒(地盤を冷やして凍土が溶けないようにする装置)が見えた。崑崙山トンネルの入口も右手前方に見える。長さ1686mの崑崙山トンネルを抜けると、ここからがチベット高原だ。右手に広がる広大な平原のかなたに雪を頂いた崑崙山脈が連なっている(写真5)

      写真5 高原の彼方に連なる崑崙山脈

  このあたりはココシリ高原と言って、貴重な野生動物の宝庫である。車窓から国家一級保護動物のココシリカモシカの群れも見える。チベット鉄道が野生動物の通路を遮断しないように、この付近は長さ18kmの高架橋となっている。

 平地で買った菓子の袋がパンパンに膨らんでいる(写真6-1)。車内の気圧が低い証拠だ。さすがチベット高原に来たという感じがする。チベット鉄道の酸素供給水準はラサの酸素水準に合わせているとのこと。ほとんどの乗客がラサまで行くので、ラサに着いたとき高山病にならないよう事前に順応してもらおうという設計方針らしい。
 それでも、ラサの標高は富士山と同じ高さなので高山病にかかる人も多い。そのため希望者には酸素吸入器も貸してくれる(写真6-2)。

       写真6-1 膨らんだ菓子の袋と高度計

          酸素吸入器        写真6-2       吸入器の差込口

 同じ部屋の対面のおばさんが本格的に高山病にかかったらしく、寝台にもぐりこんだまま動かない。上の段では若い女の子が、苦しそうにゼーゼーいいながら酸素を吸っている。車内を見て回ったら、ざっと1/3ぐらいの人が多かれ少なかれ高山病にかかっているようだった。

 何だかやけに幅広い網の目のように流れる河があったが、それが揚子江の最上流部の「トト河」とは思わなかった。標高が一番高い「タングラ駅」も通り過ぎてから気が付いた。チベット高原は何時間もつづく平原なので、乗る前に「ゴルム出発から〇〇時間で△△駅」という対応表を作っておかないと大事な景色を見逃すことになる。

 アムドを過ぎると右手にきれいな湖(ツォナ湖)が見えてきた。湖岸では野生動物が草を食べている。ツォナ湖駅のホームは湖のすぐ脇にある。湖を借景にして最高に美しい(写真7)。ここでしばらく停車して景色を眺めたいところだが、列車は無情にも通過してゆく。

         写真7 ツォナ湖のホーム

 駅の前後は野生動物が線路に入らないよう線路沿いに延々と柵ができている。そのため、動物が線路下を通れるよう、あちこちに動物用トンネルを作ってある(写真8)。

   写真8 野生動物が線路を横断するためのトンネル

 線路沿いに写真8-2のような石組のます目があちこちに見られるようになる。チベット高原は風が強いので、これは地面の砂が飛ぶのを押さえるための設備である。地元で手に入る材料で考え出した、防砂設備といえる。

写真8-2 地面の砂が飛ばないようにする設備

 日も西に傾いたので、夕日を見ながら晩飯でも食べようと食堂車に行ったら、もうコックが食堂車のテーブルでくつろいでいた。「エエッ」と思ったが文句も言えないので車内販売の弁当を買って帰ってきた。多分、食堂車は車内販売用の夕食を作ると店じまいしてしまうのだろう。
 車内販売の夕食は、野菜と肉を炒めたもの3品とご飯がたっぷりついて15元。炒め物はどれも旨かった。私のような中高年にはとても食べきれる量ではない。しかし骨が付いたままの肉なので、うかつに食べると口の中を怪我しそうだ。

 車内のBGMとして、美空ひばりの「川の流れのように」がかかっていた。「へー」という感じがした。「何日君再来」もかかっていたので、今の中国では復権したらしい。

 ラサの手前で優雅な拉薩河特大橋を渡り、短いトンネルを抜けると、右手に延々と続く客車区が見える。最後に機関区を過ぎるとラサに到着する。

 おばさんはラサに着くころには高山病もかなり回復していたが、女の子は寝たままだった。「何か手助けできることはあるか」と聞いてみたが、「ありがとう、ご心配なく」という返事がかえってきた。友達3人で介抱しながら降りて行った。

 ラサにはもう薄暗くなった20:50頃着いた。切符は改札で回収しないので、旅の記念として手元に残る。改札口を出ころの天井の高いコンコースのデコレーションは一見の価値がある(写真9)。駅前は大きな広場である。ラサ駅の写真を撮りたいところだが、この時刻ではもう暗いので、三脚がなければ駅全体の写真を撮るのは無理だろう。

             写真9 ラサ駅コンコース

 費用を節約するためラサの出迎えガイドは断ったので、一人で駅前に出たら中国人と間違えられて、ずらりと並んだ地元の旅行社の販売員から現地募集ツアーのパンフレットを次々と腕にねじ込まれた。
 バスが見当たらないので相乗りタクシーでホテルまで行った。ホテルについてからパンフレットにあるナムツォ湖日帰りツアーを申し込んだら一度はOKになったが、しばらくして断ってきた。「うちは国際旅行社の資格をもっていないので外国人は募集できない」とのこと。これから中国に行く人で現地募集ツアーを利用する人は、国際旅行社かどうか注意したほうが良い。

 

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