スロベニアの洞窟

 

 2002年9月にスロベニアのボストイナで開催されたカルスト研究会の巡検に参加した。日本からは当方も含めて5名が参加していた。巡検終了後もスロベニア内のいくつかの鍾乳洞を回った。スロベニアはカルスト地形の語源となったカルス地方があるほど、石灰岩地帯が多く、洞窟も発達している。

前日(晴れ)
 フランクフルトからアドリア航空の最終便でスロベニアの首都ルブリャーナ空港に着いた、21:30。着陸直前、隣席の現地人が、当方が聞いたわけもでないのに、「今日の交換レートは1ドル220ストールだ」と教えてくれた。ルブリャーナ空港は小さな空港だった。荷物が出てくるのを待ったが一向に出てこない。他にも2~3人そのような人がいた。

 航空会社の窓口で「荷物が出てこない」と言ったら、パソコンで調べていたが、「荷物はフランクフルト空港にある。明日こちらに届くので、どこに送ったら良いか」と聞かれた。その荷物は明日には使う荷物だが、届いていないのではしょうがない。当方が滞在するホテルの名前を伝えた。最後に何か書類を作って渡してくれた。お互いに不充分な英語のやり取りだったのでずいぶん時間がとられた。

 荷物の件で時間がとられたので、空港の両替窓口はもう閉まっていて自動両替機だけ。その両替機が故障していて使えない。空港の係員に事情を話したのだが全然とりあってくれない。スロベニアの通貨ストールは一銭も持っていない。これから70km離れたボストイナまでタクシーで行こうというのに。

 両替機の前でもがいていたら、若者が寄ってきて「両替しようか」と言ってくれた。交換レートの交渉になり、「1ドル220ストール」ということで折り合った。100ドルのピン札だったので幾分疑念を持ったのか、電灯にかざして丹念に見ていた。やがて納得がいったのか、持ち合わせがあるかどうか調べてくると外に出ていった。じきに帰ってくると「100ドルは大金なので、それだけの持ち合わせがない。レートをもう少し下げてくれないか」と言ってきた。ここで、飛行機の中で隣席の現地人がレートを教えてくれた意味が分かった。

 荷物が出てこなかったのも、両替所が閉まるまでの時間稼ぎなのだろう。空港職員とグルになって、利ザヤを稼ごうとしているのだ。若者をしり目にしてタクシー乗り場に行き、運転手に英語で「ボストイナのヤマホテルまで行きたい。100ドル札しかないがいいか。お釣りは現地通貨でくれ。ボストイナまでいくらだ」と聞いたら、「問題ない、60ドルだ」とのこと。これなら最初からタクシーに乗り込めば良かった。

 高速道路を突っ走って、ボストイナのインターで降りたが寂しい町だ。おまけに雷が光り、強い雨も降り出した。運転手はヤマホテルの位置を知らないらしく、現地に着いてからずいぶん探しまわっていた。24:00ごろ、やっとヤマホテルに着いた。「料金は80ドル、それに高速料10ドル」とのこと。1ドル1ユーロの換算で、おつりは10ユーロだけだった。

 結局、空港の青年には騙されなかったが、タクシー運転手にぼられたようなものだ。ホテル探しであちこち走り回っていたのも、メーターを稼ぐための小細工だろう。スロベニアでは注意が必要だ。これで観光客を集められるのかね。ホテルのカウンターでチェックイン。建物は古いが大きなゆったりした部屋だった。

第一日目(曇り)
 今日と明日は、一泊二日でカルスト研究会の巡検に出かけることになっている。朝8時にバスが迎えにきた。参加者は75人とのことでバスは2台だった。バスで20kmほど離れたスコシャン鍾乳洞に向かう。ここは世界遺産に指定されている鍾乳洞である。バスの駐車場から10分ほど歩いたところにある教会の脇で現地説明があった。特に陥没ドリーネが見えるわけでもないのに何を説明していたのだろう。英語のリスニング力がないと、集団行動のときは本当に困る。

 そこからだらだらと下り、いよいよ陥没ドリーネの縁に出た。対面のドリーネの壁は高さ100mとのこと。おっかなびっくり縁まで乗り出して写真を撮る。ドリーネの壁のはるか下部にこれから通る遊歩道が細い線のように見える(写真02)。

        写真02 深さ100mの陥没ドリーネ

 多分一般の観光客は通らないであろう山道を下り、途中のカルスト地形の説明を受けながら、スコシャンの入口まで下った。途中、ラッカ川が滝となってスコシャンの陥没ドリーネに注ぎ込んでいるところ(写真04)を通ってスコシ ャンの入口へ。陥没ドリーネの中が石灰岩の峰で2つに仕切られてそこにも峡谷があり、滝がかかっていた。複雑な地形だ。

     写真04 陥没ドリーネに注ぐ川

 スコシャンの洞口は高さ15m、幅30mぐらいある大きなものだった(写真06)。

         写真06 スコシャン鍾乳洞の洞口

 スコシャン洞の通路は大部分、峡谷沿いの壁に刻まれた細い通路を行く。だんだんと通路が高くなり 一番高いところでは谷底まで100mぐらいあった。通路の足元を照らす照明が峡谷ぞいに点々とうかび、はるか下を川がゴウゴウと音を立てて流れている(写真08)。

    写真08 100m下を流れる洞内河川

 峡谷沿いの道が終わると長い斜面の登り。陥没した分だけ登り返しているようだ。洞の規模はさほど大きくないが鍾乳石や石柱がところ狭しと林立しているところにでた。その石柱に無残にもボルトを打ち込んで手すりを作ってあった(写真12)。崖を削った通路といい、この手すりといい、かなり自然を破壊している。なんでこれが世界遺産なのだと疑問を感じた。

        写真12 スコシャン鍾乳洞の自然破壊

 外に出てレストハウスで一休みした。そこでスコシャンの5000分の1の地図をくれたが、あわただしく通りすぎてきたので、どこをどう歩いてきたのか良くわからない。
 次に30kmほど離れたピブカ鍾乳洞に向かう。ここはスコシャン水系の一つ下流の穴だ。スコシャン水系の水は地下を40km流れて、イタリアのデュイノで地表に湧出するとのこと。
 ピブカ洞の入り口は急な階段で下って行く。入るとすぐ高さ50mほどの大きな石柱があった。洞内を下るに従って見事な二次生成物のオンパレードになった(写真14)。

        写真14 ピブカ鍾乳洞の見事な鍾乳石

 入口から見ればかなり下ったはずだが、とうとう水流は見られなかった。これでも本当にスコシャン水系の一つなのかね。スコシャンのあの豊富な水は何処へ行ったのか。
 バスで暫く走り、カルス地方にある古城村(写真16)のレストランで昼食。スロベニアのカルス地方はカルストという言葉の語源になっただけあって、何処に行ってもカルスト地形だらけだ。

      写真16 レストランの庭から見える古城村

 午後は、石灰岩台地の中腹から湧出する湧水などを見てから、カニン山(スロベニアの北西部、イタリアとの国境の山、標高 2500m)の麓にあるボーベッチェに向かった。ソッカ川沿いに出た頃には真っ暗で何も見えなかった。ボーベッチェはスキー場で有名なところだ。そこのカニンホテルには19:30ごろ着いた。

 ボーベッチェのホテルの食事は立派だった。レストランで食事中、おばさんがワゴン車でアルコールを売りに来た。おばさんはドイツ語で話していた。歴史的に見るとこの辺はいろいろな国に組み入れられた経緯があるようだ。

第二日目(晴)
 ホテルを8:30ごろ出発。今日はカニン山の山岳カルストを見学する日だ。ロープウェイ乗り場までバスで移動。見まわすと全山石灰岩の巨大な山がそびえている(写真18)。

         写真18 全山石灰岩の巨大な山

 かなり長いロープウェイで標高2200m付近まで一気に登る。スキーの滑降コースに大きな竪穴が開きその回りに網の柵を作ってあった。危険防止のためだろう。ここでマウンテンカルストについてレクチャーがあった。一列になって約1時間半ほどの登山コースを進む。日本の登山道なら踏跡がありその回りに草が生えているのが常識だが、ここは全て石灰岩なので踏跡なんかない。所々の岩の上に赤○のペンキがついているだけだ。地層は傾斜していたが全て平行に走り褶曲は見られない(写真20)。一枚一枚の層が厚いのにも驚いた。

       写真20 褶曲のない平行な地層と竪穴

 だんだんと天気も良くなり白い石灰岩がまぶしい。所々に竪穴も存在する。大きな一枚岩の端に石灰岩特有の曲がりくねった溶食襞(カレン)が見事に刻まれていた(写真22)。

        写真22 石灰岩に刻まれたカレン

 参加者の列がかなり前後に広がってしまったので、尾根上の山小屋の前で全員集合するのを待って、出発点に下る周遊コースに入った。両側に竪穴が開いた狭い通路を通る所には鎖が張ってあった(写真24)。岩が乾いていれば特に心配するようなところではないが、一応鎖につかまって通過した。

         写真24 竪穴の間を行く登山道

 20分ほどでロープウェイ駅についた。それにしても本場の山岳カルストの大きさに驚いた。日本では絶対見られない光景だ。下りのロープウェイに乗っていたら、真下に、鹿が10頭ぐらい輪になって休んでいるのが見えた。写真を撮りたかったが間に合わなかった。

 ホテルにもどり昼食をとってから、山岳カルストで地下に潜った水が湧出する滝を見に行った。300mほどの岩壁の途中からカルストの集水が滝となって落ちていた。その滝のすぐ下流ではすでに枯れ谷になっていたので、また地下に潜ったのであろう。

 バスで南下してボストイナ西方の台地のカルスト地形を見ながら18:00ごろボストイナに戻った。これでカルスト研究会の全プログラムが終了なので、バスを降りたところで参加者相互に別れを惜しむ輪ができていた。ホテルに入ったらアドリア航空から荷物が届いていたので、ほっとした。

 明日はクリツナ洞のゴムボートツアーを予定していたので、事前にメールでやりとりしておいたクリツナ洞ガイドのボッシュに電話を入れたが、出てきた人はスロベニア語しか話せないらしく用件が通じない。フロントに行って事前にやりとりしたメールを見せて事情を説明し、フロントの女性に電話してもらった。

「彼が書いてきた電話は職場の電話番号で、今日は土曜日なので彼は休み。彼の自宅の電話番号を聞いてから用件を伝える」とのことなのでしばらく待つことにした。結局土日は彼の電話番号がつかめず、月曜日にやっと連絡が取れ、火曜日にクリツナ洞に行くことになった。
 今晩ボストイナのピザ屋で、参加者同士の打ち上げの飲み会があるとのことなので出かけた。20人ぐらい集まったが、全員座れる大きなテーブルがないので何ヶ所かに分かれて座った。同じ領域の研究者同士なので専門用語が飛び交い、話が弾んでいた(写真26)。

       写真26 カルスト研究会の打ち上げ会

第三日目(雨)
 土日はボストイナ周辺の有名な観光洞を回った。午前中はボストイナ西北8kmにある、鍾乳洞の入口に城があるので有名はプレディー洞に行った(写真28)。

        写真28 洞口に城のあるプレディー洞

 プレディー洞は100mほどの絶壁の下部にあいた鍾乳洞の入り口に4階建ての城が建っている。1200年ごろには城があったというから相当古いものだ。絶壁と洞窟を巧みに利用した、まさに難攻不落の城と言って良い。しかも、背後の鍾乳洞を利用して地表に抜けるルートもあるようなので、城に閉じ込めておくのも難しそうだ。
 城を一回りした後、プレディー洞のガイドコースに入った。城の下に開いた小さな入口がガイドコースの入口だった。各自にバッテリーと懐中電灯が渡されてそれを装着。ショートカットのお嬢さん(最初は男性かと思った)が案内してくれた。ケイブマップがないのでどこをどう通ったか分からないが、最後は城の右手上の岩壁から出てきた。穴そのものはとりたてて素晴らしいところはなかった。鍾乳石の表面ももう乾いている洞だった。

 午後はボストイナ北方10kmにある、きれいな水流で有名なプラニナ洞にタクシーで出かけた。しばらく案内小屋の前で待っていたら、プラニナ洞のガイドがマイカーで自分の子供を連れてやってきた。お客は7~8人程度。2人に1つぐらいの割合でバッテリーと懐中電灯が配られた。洞から流れ出す川に沿って10分ほど進むと、大きな洞口から緑色のきれいな川が流れ出していた。洞口は幅20m、高さ10mぐらいか(写真30)。

          写真30 プラニナ洞の洞口

 内部はほぼ水平でずっと川に沿って進んだ。洞が大きく屈曲するあたりは落盤がひどく、川が一時的に見えなくなったが、その上部ではまた川が現れた。支洞に入ったところの川にボストイナ特有のプロテウスという洞窟魚がいた。長さ30cmぐらいで、全身ピンク色だ。動きは緩慢だが、見ているとだんだん形が変わるので生きていることが分かる。
 奥に行くに従って歩道の崩壊が激しく、歩道が崩落したところを仮設の板で渡るところもあった。ついに25分ほど入ったところで完全に道が崩れ、それより先は行けなくなったので、ここで引き返す。全体に落盤が多く、二次生成物も少なく、見ごたえのある鍾乳石もない、じみな洞だった。

 一旦ホテルに帰ってから午後6時の最終回にボストイナ鍾乳洞に入った。ヤマホテルはボストイナ洞が経営しているので、ホテルのすぐ脇がボストイナ洞だ。
 この洞は長さ23kmと長いので、入口から15分ぐらい電車に乗る。電車といっても屋根のないトロッコ列車だ。鍾乳石や洞壁を削って電車を通すための通路が作ってあった。しかも複線。かなり原状を破壊している。それでもトンネルの削り方が、頭上or左右すれすれなので思わず頭を引っ込めたくなる箇所がたくさんあった。電車に乗っている範囲でも、かなり見事な鍾乳石があった(写真31)。

       写真31 ボストイナ洞のトロッコ電車

 電車を下りたところは大きなホールで素晴らしい鍾乳石の殿堂。まず目に入ったのは写真撮影禁止の看板。ガイドの言語別に標識が立ち、自分の聞きたい言語のところに並ぶようになっていた。言語は英語、ドイツ語、イタリア語、スロベニア語の4ヶ国語あった。マントを羽織ったガイドがそれぞれの客を案内して奥へ進んで行く。

 新しいホールに入る都度、その鍾乳石や石筍の美しさに圧倒される。天井から無数の純白のストローが下がっている部屋、見事な形の鍾乳石・石筍・石柱が林立する部屋が、これでもか、これでもかというほど次々に現れる。しかも各ホールともかなり大きい。この洞の売り物であるホワイトホールの石筍は純白で形も良く見ごたえがあった(写真32)。

写真32(ボストイナ洞の優美な石筍)

最後に訪れたシンフォニーホールは直径80m、高さ50mで音の反響が良く、ガイドが吹いた口笛が7秒も反響していた。
 ボストイナ洞の入り口には水流が見られたのだが、40分ほどのガイドコースには水流はどこにも見られなかった。洞内図(写真33)で見ると、中央部の黄色で示したところを歩いて回ったらしい。緑がトロッコに乗った部分である。トロッコだけでも7~8kmありそうだ。日本の洞窟と比べるとはるかに規模が大きい。

写真33 ボストイナ洞の経路(緑:トロッコ電車、黄:歩いた部分)

 ボストイナ洞の中に電車乗り場を作ったので、入るときは洞窟に入った気がしないが、出口は自然洞の洞口が使われていた(写真 34)。

          写真34 ボストイナ洞出口

 ホテルに帰りフロントでクリツナ洞と連絡が取れたか聞いてみたが、まだガイドの連絡先を知らせてこないとのこと。それでは明日のクリツナ洞行きは無理だと判断し、スコシャン水系をたどってイタリアに行ってみることにした。

第四日目(曇のち雨)
 朝、ホテルのフロントに行ったらクリツナ洞のガイドのミスターボッシュと連絡が取れ、明日7:30にホテルに迎えに来るとのこと。帰りはリュブリャーナ空港まで送ってくれるそうだ。もちろん送迎フィーは別に必要だろうが。

 今日はスコシャン水系をたどる旅だ。フロントにタクシーの手配を頼んだが、一日貸切のタクシーではないようなので、これではギガンテ洞、デュイノの湧泉をゆっくり見られそうにない。タクシーをやめて列車で行くことにした。 ボストイナ駅でクロアチアから来たというご夫妻に出会ったので写真(写真 38)を撮って後ほど送ってあげた。

        写真38 クロアチアから来たご夫妻

 日本に帰ってから写真を送ってあげたら、クロアチアのご夫妻の長男だという人から、メールでお礼状が来たので、お互いに、自分が住んでいる地域の紹介などを兼ねてメールのやりとりをした。そのうち、「先だってのセルビアとの独立戦争では銃を持って戦った」と書いてきたので、次のようなやりとりになった。
 当方:戦争で殺し合いせずに話し合いで解決できないのか。
 長男:セルビアにはおじいさんが殺されている。その仇打ちだ。
 当方:戦争で勝っても、相手がまた仇打ちをするのではないか。話し合いで解決できないのか。
 長男:日本人は平和(ボケ)でいいな。現実はそんなものではない。
とのこと。
 陸続きの国の現実は大変なものらしい。民族が違うと更に厳しいのだろう。日本が島国であることに感謝した。

 11:30ごろの電車でセザナまで行った。ここからギガンテ洞(英語ではgiantのこと。ギネスブックに載るほどの巨大なホールがある)までは10km足らずなのでタクシーで行くことにした。しかし駅前にタクシーはない。駅前にたまたまカジノの店があったので、そのフロントにタクシー呼んでくれと頼んだ。すぐ来るとのことなので待っていたら結局1時間も待たされた。しかも白タクらしい。屋根にタクシーの標識をつけていたが、運転席にメータはない。

 英語が通じないので紙に、「ギガンテ→デュイノの泉」と書いて渡し、いくらだと聞いてみたら60ユ ーロとのこと。「距離の割に高いな。デュイノまで行っても20kmぐらいなのに」と思ったが、他にタクシーもつかまらないので乗ることにした。

 動き出すと直にイタリアとの国境。パスポートの提示と、アルコールなど持っているかと聞かれた。「持っていない」と口頭で申告するだけで通過して、高速道路をぐんぐん飛ばして行く。右にギガンテ洞はこっちという標識が出ているが真っ直ぐ本線を行くので「ギガンテだ」と言ってみたが、もう戻れないという身振りをしてそのまま走って行く。

 デュイノのインターで降りて町の中に入り、あてどもなく走っているようだ。「デュイノのスプリングだ」と何度も言ったのだが、湧泉の位置を知らないらしい。地元の人に何回か聞いていたが、全然関係のない海岸のようなところに出た。 たまたまポリスボックスがあったので、私が「デュイノのスプリングはどこか」と聞いてみた。警官は英語を話せたがスプリングといっても通じなかった。地面から水が噴き出すまねをしたら、タクシーの運転手にどこか道を教えていた。
 それで行った先は、どこかの大きな工場の中の噴水だった。まるっきり通じていないことが分かった。そこの守衛は英語が話せるようだったので、こんども地面から水が噴き出すまねをしたが、分からないようだった。

 また運転手があてどもなく走り出した。しかもスロベニアから遠くなる方向だった。このまま走っていては追加料金を請求されるのではないかと心配になり、たまたま近くに鉄道の駅も見えたので、「もういいからここで停めろ」と日本語で大声で怒鳴って停めさせ、50ユーロだけ払って車を降りた。
 MONFALCONというトリエステ郊外の駅だった(写真36)。幸いトリエステの通勤圏らしく列車本数が多かったので助かった。20分ほど待ってトリエステ行きの列車に乗った。日本に帰ってきてからGoogleEarthで調べたらデュイノより先に行っていた。ここで降りて良かった。

  写真36 しびれを切らしてタクシーを降りた駅(MONFALCONE)

 トリエステ駅には20分ほどでついた。トリエステはイタリアなので帰りの列車は国際列車になる。トリエステ駅で国際列車の予約をしてから、案内所で地図をもらい市内を見物した。かなり強い風雨になってきた。トリエステは石灰岩台地が複雑に侵食された台地上に広がっているので、住宅地は高台に多い。それで登山電車とニックネームのある市電が市内をこまめに走っている。
 風雨の中をトリエステ城まで行って、高台から市内を見下ろして帰ってきた(写真42)。

       写真42 トリエステ城より市内を見下ろす

 城に行く途中で道を数回聞いたがイタリアでは英語を話せる人に出くわさなかった。帰りは城の案内所でタクシーを呼んでもらい駅に戻った。駅のカフェで暖かいコーヒーを飲んで温まった。国際列車は高台にある「なんとか駅」から出ることになっている。普通の列車は登山電車が走っている斜面は降りられないのだろう。そこまではバス連絡とのことなので駅前に着いていたバスに乗り込む。不便な国際列車だ。
 バスで台地の上まで上がる道路からの眺めは良かった。国際列車の出る駅に着いたが、何の変哲もないローカル駅という感じ。国際列車といっても古ぼけたコンパートメントの車両が2両ついているだけだった(写真44)。

         写真44 トリエステ発の国際列車

 出発のときはイタリア側の係官が各座席をまわって出国審査。それから一駅走ったところでスロベニア側の係官が入国審査。やはり国際列車なのだ。
 ボストイナに19:00ごろ着き、何の収穫もない小旅行が終わった。無力感が漂う。駅からホテルまで暗い道を寒さに震えながら歩いた。とあるレストランで食事。隣の部屋でチェスをやっていたので、ルールは知らないが覗きに行った。秒時計を置いて一手打つ毎にそれをめまぐるしくたたきながら指していた。気迫がこもった戦いだった。どうやら町の愛好家の選手権大会らしい。

第五日目(雨)
 朝、部屋にフロントから電話がかかってきた。「このところの雨でクリツナ洞内が増水し、今日のゴムボートツアーはできない」とボッシュから連絡してきたとのこと。残念。きれいな洞窟だったのに。
しかたないので荷物をまとめ、ヨッコラショと背負って、鉄道でスロベニアめぐりをすることにした。 タクシーでボストイナ駅まで行った。
 一筆書きの奇妙なコースの切符を頼んだら、女性職員が「なんでこんなコースを通るのか」といぶかしがって切符を売ってくれない。「私は日本の鉄道員だ。貴国の鉄道を見たい」といったら、売ってくれそうな気配になったが、そばにいた男性駅員が「なぜ、終点がリュブリャーナ(首都)ではなく、こんな中間駅で降りるのか」と聞いてきた。「今日の夕方の飛行機で日本に帰る。その駅が空港に一番近いので、そこからタクシーで行く」と答えたら、やっと 売ってくれた。

 全て鈍行の旅。まず昨日タクシー待ちをしたセザナ駅まで行った。セザナ駅構内には3mぐらいの本物の鍾乳石を切り出して噴水の噴出口に利用していた(写真 46)。

  写真46 本物の鍾乳石を利用した噴水

 その脇にあるバーでコーヒーを飲んでいたら、線路保守の中間の休憩らしく、保線区の職員がどっと入ってきて、リカーをぐっと引っ掛けるとすぐ出ていったのには驚いた。

 1 時間ほど待ってノバゴリカにゆくローカル線に乗った。車両は気動車。これも乗客はまばら。車窓からは何処を見てもカルスト地形ばかり。途中にトンネルがあったが、この上が、先日の古城村になっているはずだ。各駅の構内は本線を除いて赤さびた貨車で満杯だった。社会主義計画経済のころのずさんな計画の名残なのだろう。

 ノバゴリカでは町の中の道路数箇所に国境の検問所が見えた。ノバゴリカは町の中にイタリアとの国境が走っているからだ。さぞかし不便だろうな。ノバゴリカから先はソッカ川ぞいに走る。両側に石灰岩の山々が続き、川底も石灰岩の溶食地形が続いていた。線路の勾配も急らしくゆっくり登る。とある山奥に大きな駅舎が現れた。ここで登山スタイルの乗客が大勢降りた。この辺はジュリアンアルプスの東の端になるので有名な山があるのだろう。

 スロベニア国内ではあるがジュリアンアルプスを長大トンネルで抜けた。ローカルの単線にも拘わらず、この長大トンネルが複線の大きさで掘ってあるのにおどろいた。ここで水系が変わり、今までは地中海に注ぐ川だったが、ここからはドナウ川に注ぐ川になった。終点のイェセニツェ駅でルブラーニャ行きに乗り換え、空港に一番近いクラニャ駅に向かう。デッキに立っていたら地元の中学生ぐらいの女の子が英語の訓練だといって英語で話しかけてきた。当方の貧弱な英語では申し訳ない。

 クラニャ駅で降りたら、またタクシーが無い。駅に行って聞いたら、「駅構内のバーで頼め」とのこと。バーでタクシーを呼んでもらった。タクシーがついたので外に出てみたら、運転手が自動車の屋根についている「TAXI」という表示を外して車内にしまいこんでいた。客の前で堂々と表示をはずすあたりがすごい。これも白タクかとうんざりしたが、こちらのほうは昨日より良心的だった。

 運転手はドイツ語で話しかけてきた。こちらは英語で対応した。でもなんとなく雰囲気で伝わるのか、空港までというと4000ストールとのこと。「ストールを持っているか」と言っているようなのでストール札を示したら安心していた。しかし10kmで4000ストールとは往復料金に相当する。
 17:00発の飛行機でフランクフルトへ。フランクフルト発20:30の飛行機で成田に向かった。

追記
 ヨーロッパのどの空港でも、入国審査のとき係官が当方の顔を見ながらパソコン画面をじっと覗き込み、何度も見比べていた。当方に良く似た人物が指名手配でもされていたのだろうか。赤軍派の面々も年齢は当方と同じぐらいのはずだから。

 

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