フランス石灰岩地帯探訪

 2000年12月、突然パリに行く用事ができたので、ついでにフランスの洞窟をまわってくることにした。出発まであまり時間がなかったので、世界の観光洞というHPからフランスの洞窟の所在地だけをリストアップした。12月では洞窟もほとんど閉まっていることが分かった。用事を終えてから、行き当たりばったりの、言葉が通じない国での初めての一人旅を開始した。

第一日目
 パリリヨン駅を13時ごろのTGVで発った。ヴァランスで鈍行に乗り継ぎ、南フランスの田舎町ピエールラテについた。駅前は真っ暗。これでホテルがあるのか心配になった。数人降りた客の一人に英語で「ホテルどこ」と聞いたら「ついて来い」という仕種をするのでついていった。10分ほど歩いたら町並に入った。それでもホテルが4~5軒あった。入口に値段表の出ているホテルに入った。日本で言えばさし ずめ田舎町の商人宿という感じのところだ。

 それからが大変だった。明日一日タクシーを借りてアルデシュ峡谷と周辺の鍾乳洞を回りたいので、タクシーの手配をしてもらいたいという意思をマスターに伝えるのに苦労した。こちらの片言の英語では通じない。いったん部屋に入り、辞書と首っ引きで英作文して紙に書き出し、またフロントに持っていった。こんどは意味が分かったらしく電話してくれた。ハイヤーの契約になるので料金は1200フラン(18000円)で運転手の昼食は客持ちという条件だった。それで頼むことにした。

 それから 夜、町に食事に出た。たまたま見つけた「北京」という名前の中華レストランに入った。外から見ると室内が暗くて閉店かなと思われるような寂しい店だった。中国人の夫婦が経営していた。片言の中国語だが、意思疎通ができてホットした。パリではフランス語のメニューを出されても内容がわからず、適当に頼むととんでもない料理が出てきて、食事が苦痛になっていたからだ。
 フランス語と英語のメニューしかないので「漢字のメニューは」と聞いたが置いてなかった。中華料理も英語で表現されると分からないものだ。たった一つ中国語の発音を知っていた青淑肉糸を頼んだ。スープは分からないので適当に頼んだらモーレツに辛いスープだった。汗を流しながらすすっていたら見かねたのか、サービスで別のスープを持ってきてくれた。
 雑談の中で「フランスに来てから何年になる」と聞いたら「9年」とのこと。「何でこんな片田舎に出したのか」と聞こうとしたがやめた。こんな田舎町にも進出している中国人のバイタリティーに驚いた。明日のアルデッシュ峡谷の情報を得ようと、地図を出していくつか質問してみたが、その類のことは全く知らなかった。でも気持ち良く食事ができた。久しぶりに食事をした感じがした。

 その後、BARなる看板の出ている店に入り、ジンレモンを注文したが発音が悪いらしく通じない。カウンターの中に入って指差したら頷いて作ってくれた。それを飲んでいたら隣の若者がグラスをカチンとぶつけてきた。言葉が通じないのでお互いに無言だが、笑顔は分かった。歓迎という意味なのだろう。

第二日目
 朝8時にタクシーを呼んでいよいよアルデシュ峡谷へ。運転手は英語が話せないとのこと。こりゃ先が思いやられる。運転手に回りたいコースを地図で指差したら、分かったというような仕種をしたので出発。峡谷に入ると完全に霧に覆われていて何も見えない。途中にある鍾乳洞にも寄ってくれたがどれも入り口が閉まっていた。

 初めは谷底を走っていたが徐々に高度を上げ峡谷の縁を走るようになった。峡谷の中は一面の霧で覆われ見えない。運転手が要所要所の展望台(写真02)で止まり「写真を撮れ」のジェスチャーをする。本来なら深く切れ込んだ雄大な峡谷が見えるはずなのだが。

        写真02 峡谷を埋める霧とブロッケンの妖怪

 また徐々に谷底に降りてゆき、いくつかの石灰岩のトンネルを抜けると、この峡谷最大の呼び物であるポンダルクという天然橋だ。これも霧の中にかすかにシルエットが見えるだけ。これでは写真をとろういう気すら起きなかった。それを通りすぎてしばらく行くとポンダルク村。

 まだ昼食には早いので、その奥の○○渓谷へ回ってくれた。真っ白な石灰岩の壁にトンネルを掘って自動車道路が続いている。しかも渓谷が良く見えるよう、谷側に大きな明り取りの窓があいている。ポンダルクは見えなかったがこの渓谷で堪能できた。

 ポンダルク村に戻り昼食をとることにしたがレストランが全部閉まっていた。村中探した挙げ句やっと一軒のホテルのレストランが営業しているのを見つけた。メニューがフランス語なので内容もよく分からない。適当に運転手の勧めるものを頼んだ。たのんだ覚えのないワインのボトルもついてきたのでびっくり。フランスでは食事に飲物(アルコール)をつけるのは当然のことらしい。運転手も平気な顔で飲 んでいた。

 英語が通じないので、和仏・仏和が一緒になったポケットサイズの辞書を間において、その単語を指で示して運転手と会話した。一つの会話をするのに15分ぐらいかかる。なんとも骨が折れる。帰りも峡谷が見えないのでは来た意味がないので、「霧、晴れる、待つ」という3つの単語を紙に書き出して示したら意味が分かったらしく、店の人に何時頃かと聞きに行っていた。まだ2時間は待たなけ ればならないとのこと。

 運転手が「おまえの仕事は何だ」と聞いてきた。多分、「こんな時期に、こんなつまらないところに何しに来たのか」と疑問に思ったからだろうと推測したので、「私の趣味はケイビングだ」というつもりで「洞窟探検者」という単語を示したが、首をかしげていた。
 日本語なら洞窟という言葉が入っているので洞窟と探検者を結びつけて意味はわかるのだが、フランス語では洞窟(grotte)という単語と洞窟探検者(speleologue)という単語が全く違うので、知っていなければ意味がわからないのだろう。多分学術用語なのかもしれない。

 午後2時に出発。ポンダルクに着いたら今度はよく見えた(写真 04)。かなりの威圧感がある。アーチ部分の大きさは高さ30m、幅40mぐらいか。橋体そのものは高さ60m、幅100mぐらいか。もうかなり浸食を受けていて橋体そのものにもたくさんの穴があいていた。

              写真04 ポンダルク

 水面近くにある、やっと人一人が立って歩ける程度の穴に入ってみた。何も装備を持っていないのでライターの光で進んだ。壁面には枯れ葉などが貼り付いていたので増水時には完全に水没するらしい。そのうち指が熱くなったので引き返してきた。もっとうろうろしたかったが運転手が心配するといけないので自動車に戻った。
 ピエールラテに午後4時頃戻った。なんと町のど真ん中に高さ50mほどの石灰岩峰がそびえているではないか(写真 05)。

 写真05 ピエールラテの町中にある岩峰

 昨日は暗くなってから着いたので気が付かなかった。ホテルに荷物を置いてから見物に出かけた。人家に囲まれていて根元に行く道が分からない。付近の人に「あれに登りたい」と言ったら「登れない」とのこと。「ルートはどこか」と聞いたら、民家の間の細い道を指差した。それを進むと登り口に着いた。

 昔は大きな館が建っていたらしく立派な門があり鉄格子の扉が閉まっていた。立入禁止とでも書いてあるのだろう。その日付は1971年になっていた。しかたがないのでその岩峰の根元を一回りしてみた。その門を避ければ岩にしがみついて登れそうなところもあったが人家から丸見えなのであきらめた。10分ほどで一回りできる程度の岩峰だ。しかし岩は大分もろくなっていて、崩れそうな岩をアンカーやワイヤーで止めているところが沢山あった。人家が近すぎて落とせないのだろう。
 岩峰を見てから、明日の切符を買いに駅に行った。田舎駅でもちゃんと駅員がいて、日本で言えば緑の窓口並みの端末が揃っていた。明日の宿泊地は未定なのでとりあえずカルカソンヌまでの切符を買った。

 駅の斜め前にBARがあった。ちょうど喉も乾いていたので入った。一寸スペイン系の顔立ちの女の子が一人でやっていた。背の高い止まり木にとまってレモンライムを飲んでいたら、英語で「どこからきた」というので、「日本から」と答えた。「日本は住みやすいか」「収入はどのくらいか」「奥さんは働いているか」など話しがだんだん難しくなってきたので、英和・和英辞書を間にはさんで会話を続けた。
 「フランスは失業率が高い」「25%は月収3000フラン以下だ」「こんな小さな町には居たくない」というので、「それでパリに物乞いが多いのか」と聞いたら「そうだ」とのこと。
 どうやら、外国に出稼ぎにでも行きたいようだ。その情報集めかもしれない。あれだけいろいろな知識を持っているところを見ると、大学は卒業したけれど職が見つからないというところか。

 その後、夕食のレストランを探しに行った。あるカフェで、ご飯を食べる仕草をして、「どこか」と聞いたら、道順を教えてくれたが、行った先はベトナム料理の店だった。フランス人は東洋系の顔を見るとベトナム人を思い浮かべるらしい。

第三日目
 ピエールラテを8時頃の鈍行で出発。

 アビニヨンでTGVに乗り換えなので駅名に注意しながら乗っていた。もうそろそろアビニヨンに着くはずだという8:50頃、ホームに「AVIGNON」という表示が見えたので、ずいぶん寂しい駅だなと思ったが下車した。

 駅舎を出て駅の表示を見たら「ギョッ、違う駅だ」と気が付いた。多分、アビニヨン方面という表示をアビニヨン駅と見間違えたのだろうが後の祭。駅員に次の列車を聞いたら11時だという。アビ ニヨン10:52発のTGVに間に合わない。タクシー を呼んでくれと言ったらバスがあるとのこと。駅員に教えてもらった方向に行ったらバス停があった。しかし時刻表が出ていない。人も待っていないので聞くこともできない。1台ほどヒッチハイクしたがアビニヨンまで行かないという。
 近くでたった一軒開いていたパン屋にかけこみ「タクシー呼んでくれ」と英語で頼んだら電話帳をぱらぱら開いて探し始めてくれた。 たまたまパンを買いに来ていたおじいさんが「俺について来い」という仕種をするのでついて行った。
 てっきりタクシー会社につれて行ってくれるものと思っていたら、電柱にでているタクシー会社の看板(電話番号が書いてある)と近くの公衆電話を指差してスタスタ行ってしまった。

 公衆電話からタクシーを呼ぶ場合は自分がどこにいるか説明しなくてはならない。ここがどこだか分からない上、フランス語も話せないので、まわりの状況を説明することもできない。 仕方ないので、たまたま通りかかった人にテレホンカードを差し出して「タクシーを呼んでくれ」と頼んだ。「エッ」と驚いたような顔をしていたがすぐ電話してくれた。「ここで待っていろ」と言い残してその人は行ってしまったが、じきにタクシーが来たのでホッとした。おかげで、なんとかアビニヨン10:52発のTGVに乗れた。

 TGVに乗ったら、犬を連れて乗っている人が多かった。アビニヨンから一緒に乗った男女も、結構大きなシベリアンハスキーを連れていた。車内に入ると犬が自分からいすの下にもぐりこみ、大きな体を小さく丸めて横たわった。通路の反対側に座っている当方の顔を上目づかいで見ているが、視線があうと目をそらしていた。その仕種が可愛いので「犬の写真をとらせてくれ」と頼んだのだが、ノーサンキューと断られてしまった。 喫煙車なのに隣の若者が煙草を吸いながら当方に煙が流れないよう一生懸命手で煙を追い払っていた。「私もスモーカーだ」と、ポケットからタバコを取り出して見せたら安心していた。それがきっかけで話しを始めた。英語もすごくうまかった。当方がつまると向こうから「こういうことを言いたいのだろう」と英語で表現してくれた。

 モンペリエを過ぎると左手に海が見えてきた。じきに右側にも内海が見えてきたので「オヤッ」と思い地図を広げてみたら、鉄道は人家のある街道から離れた海岸の砂嘴の上を通っていた。フランスでも鉄道を始めて敷設するときは地元住民から嫌われたようだ。それで町並みから遠い駅が多いのか。スペインに行く線路が分かれる駅ナルボンヌを過ぎると車窓の両側とも石灰岩のゆるい丘陵が続いていた。

 カルカソンヌに13時過ぎに到着。さっそく駅前 の公衆電話から15kmほど北東にあるリモース鍾乳洞に電話。フランス語で出てきたが構わず、用意してきた英語の声明文(日本からはるばる来たのだから見せてくれ)を読み上げる。しかし最後に聞こえたのは「ノン」だった。 ここもHP情報では開いているのは4月~10月で予約が必要となっていた。予約すれば当然断わられるだろうから、ぶっつけ本番の泣き落とし戦術でやってみたのだが駄目だった。
 しかたないので、余った時間でカルカソンヌの城(写真06)を見た。城まで歩いて20分ぐらいだった。

 カルカソンヌ城はフランスでは一番良く保存されている中世の大きな城だ。近づくに従って、小高い丘の上に建った高い城壁が覆い被さってくる。城壁のやぐらの数も多い。城門をくぐると中にも町並みがあった。内城(日本で言えば本丸)の入り口にあたるところに切符売り場があった。切符売り場の女性が何語のパンフレットを渡そうか迷っていたので「ジャポネ」と申告した。そこには7カ国語のパンフレットが揃っていた。
 跳ね橋を渡って内城に入ったがどの通路を行っても、最後は鍵がかかっていて城壁の上に出られない。右往左往した挙句やっと「中庭で待っていると30分ごとに案内人が案内する」ということがわかった。フランス語が読めれば多分どこかに掲示がでていたのだろう。案内人が鍵を明けて城壁の上に案内した。説明はフランス語なのでわからないが、実戦的な城だった。

        写真06 実戦的なカルカソンヌの城

 駅に帰る途中、観光案内所に立ちよりピレネー地方の鍾乳洞について聞いた。ちょうど良い案内地図をくれたがみな閉まっているとのこと。ニオーという鍾乳洞が一つだけ開いており予約が必要とのこと。ニオー洞はピレネー県の県庁所在地フォアの先にあるタラスコンの近くらしい。

 公衆電話からニオー洞に「明日行く」と電話したら、次のようなやりとりになっ た。
・今どこにいる→カルカソンヌだ。
・車はあるのか→ない、バスで行く。
・それでは明日また電話してくれ。
どうやら車無しでは、フランス語の話せない日本人が、ここまで本当にたどり着けるか疑問に思ったのだろう。案内所でバス乗り場を聞いたら、「バスは当てにならない、列車で行け」とのこと。列車だと2倍半ぐらいの距離になるのだが。

 トゥールーズから乗り換えた列車の中で、同じボックスの対面に座っていた女の子に、観光案内所でもらった鍾乳洞のパンフレット4~5通を見せて「今、開いているところあるか」と英語で聞いたら、全部調べてくれたが「どこも開いていない」とのこと。その子が降りるときフランス語で何か言ったが意味はわからなかった。多分「がんばってちょうだい」とでも言ったのだろう。地図でよく調べるとニオー洞はフォアより数駅先のタラスコンの近くだった。車掌が検札に来たので、「この列車はタラスコンまで行くか」と聞いたら、「この列車はフォア止まりだ。今日はもうそれより先に行く列車はない」とのこと。それではフォアに泊まるしかない。

 列車がフォアに着いたのは夜の8時半だった。駅を出たが駅前は真っ暗で人家すらなかった。これでも県庁所在地かね。川沿いの暗い道を5分ほど歩いたらやっと夫婦連れが歩いているのに出会った。「ホテルあるか」「何ホテルだ」「予約はしていない、どこでも良い」のやりとりの末、町外れではあるが駅から一番近いホテルを教えてもらった。彼らにとっても英語は外国語のせいか単語を並べているだけだった。むしろそのほうが分かり易い。

 ホテルにチェックインしてから、町に出て夕食。とあるピザ屋に入ったらびっくりしたような顔をして迎えられた。普通なら注文を取るのに、「何しに来た」と聞かれてしまった。この付近まで日本人がくることは滅多にないのかも知れない。

第四日目
 フォアを9時頃の列車でタラスコンまで進んだ。そこからニオー洞へ「今からタクシーで行く」と電話。OKという答えが返ってきた。次にタクシー会社に電話。相手はフランス語しか話せないらしく会話は全く成り立たなかった。でも「スタツィオン、ジャポネ、タクシー」という言葉は通じたらしくすぐにタクシーが来た。

 20分ぐらいで洞口に着いた。 洞口は高さ40m・巾30mぐらいか。洞口のスペ ースが駐車場になっていた。洞口は南に向いていて、正面の谷の奥には雪を頂いたピレネーの山々がそびえていた。すごく景色の良いところだ。管理人室にはお兄ちゃんが一人いた。11時に案内するとのこと。腹を空かした鳩が足元に寄ってきたのでそれと一緒に持参のサンドイッチを食べた。

 11時直前にもう一人見物人が自動車で現われた。2人を案内していよいよ洞窟に入ることになった。残念ながら洞内は撮影禁止とのこと。洞窟はほぼ平坦で奥に向かってやや下っていた。洞幅は狭いところでも10mはあった。洞底はきれいにリムストーンで覆われていたが完全に踏み潰されて丸みを帯びていた。自然遺跡の保護がまったくされてない。ヨーロッパにしては珍しいなと思ったが、自然遺跡の保護という概念が生まれる何百年も前から人が入っていたのだろう。二次生成物はあまり多くなかったが、 落盤の少ない立派な鍾乳洞だった。

 入り口から800mでこの洞窟の売物のプレヒストリック(先史時代)の動物の壁画があった。実に写実的で生き生きと描かれていた。バイソン、鹿、猪などだった。約13000年前のものだという。そこは高さ40mぐらいある大きなホールだった。当方はホールの形のほうが気になるので、あちこちにライトを向けていたら「見るのはこっちだ」とでも言うように声をかけられた。向こうにとっても変な客だと 思ったに違いない。

 14時頃の列車で国境の駅ホスピターレまで進ん だ。ホスピターレから先はスペインかと思っていたが、地図をよく見ると、スペインの手前にアンドーラ共和国という小さな国があった。ホスピターレには15時半頃ついたが、首都のアンドーラまでのバスは19時までないという。駅前に立ち尽くしていたら、髯もじゃの兄ちゃんが声をかけてきた。フランス語で「どこへゆく」と言ったと思ったので「アンドーラ」と答えたら、どうやら「車が来るから乗っていけ」と言っているようだ。運を天にまかせてついて行くことにした。

 迎えの車が来るまで駅前のカフェで時間つぶし。当方の飲物までとってくれる気持ちのいい奴だった(写真10)。お互いに名前を名乗り、当方は日本人であることも紹介した。俺の名前はファファエルだと言うのでスペルを書いてもらったら「Raphael」だった。何回か発音してもらったがファファエルとしか聞こえないので、カタカナで「ファファエル」と振り仮名をつけたら珍しがって、「俺の紙にも書いてくれ」とのこと。お前の名前はと聞くので、紙にローマ字で書き出して発音して見せたら口の中で何回か繰り返していた。後で気がついたが、もし、私の名前を漢字で書いたらもっと珍しがったかもしれない。パリのモンマルトルでは中国人がフランス人の名前を漢字で表現するアルバイトをしていると聞いたこともある。

 彼の名前をカタカナで書き留めたら、その字を書いてくれと言っているように紙を差し出してきた。パリのモンマルトルでは中国人が「客の名前を漢字で書く」アルバイトをしていると聞いたこともあるので、ヨーロッパの人間は東洋の字(漢字やカタカナ)にエキゾチックな感じを持っているようだ。

 例の通り辞書を真ん中においてたどたどしい会話が始まった。その店のポスターにシベリアンハスキーの写真が大きく写っていたので「これはシベリアの犬か」と聞いたら、それは狼だと言っていた。そのポスターは「狼に注意」とでも書いてあったのかもしれない。

 車が来たので乗った。立派な舗装道路をぐんぐん登り、もう全山雪で覆われた高山地帯に入って行く。20分ぐらいで賑やかなスキー場に着いた(写真12)。その中のレストランがその兄ちゃんの家だった。

        写真10 髭もじゃの兄ちゃん

        写真12 スキー場:カスデラパーサ

 

 従って同乗もここまで。あとはタクシーで行けとのこと。料金を聞いたら220フラン(3300円)とのことなので行ってみることにした。タクシーを呼んでもらって、いよいよアンドーラへ。運転手は可愛い女の子だった。スイスのような美しい山国を想像してきたのだが、あるのは岩だらけの禿山ばかり。

 アンドーラはかなり大きな都市だった。「どのホテルにつけるか」と聞かれた。もう現金が底をついてきたので「シティバンクの前」と答えた。さっそくシティバンクのVISAカードで現金を引き出す操作をしたが「インバリッド」となり引き出せない。どうやら暗証番号が違うらしい。シティバンクのカードを持ってくれば良かった。残る現金は500フラン程度。あとは VISAカードだけで旅行しないといけない。タクシーやバスは現金でないと乗れないので一寸心細い。

 近くのホテルに入りVISAカードを示してOKか聞いたら、スペイン語で対応され面食らった。でも身振りでOKであることは分かった。パスポートを出せというのでフロントに預けた。さすが異国に来た感じだ。部屋には政府の認証つきの料金表が張ってあった。ペセタとフランの両方で書いてあったので安心した。

 夜、フロントでタウンマップをもらい、町を歩いてみた。近くのシティイバンクに行き、各国通貨の換算レイトを見たら、1フラン=25ペセタだった。宿の部屋にある料金表もこの換算率を使用していることが分かった。アンドーラは免税店ばかりが並ぶ、つまらない町だった。マクドナルドで夕食。お釣りが50フラン足りないので文句を言ったら、スペイン語で盛んに何か言っていたが立ち去らずにいたら、50フラン札を持ってきた。単なるミスか、日本人では金の計算が分からんだろうというごまかしか。


 アンドーラはメインストリートに沿って細長く続いていた。自動車がやたらと多く、町中で渋滞を起していた。どの交差点にも交通整理の巡査が出ていた。道の両側は免税店やホテルばかりが並び、特に見るべきものもなかった。たまたま通りかかったビルの表示を見たら「アンドラ政庁」と書いてあった。8階建ぐらいのビルだったが、この程度のビルで間に合うのかとびっくりした。そのビルを見上げていったら、その後方の思いがけないほど見上げる位置に雪だるまの電飾が光っていた。相当近くに急峻な山がそびえていることが分かった。
 帰りは別な道を通って帰ろうと横丁に入ったら、アパート群が並ぶ暗い行き止まりの道に入ってしまった。こんなところでブスッとやられたら身元不明の死体になってしまうなと少々怖かった。急いで元の道に引き返した。道すがら崖の上に建っているアパートを見たら、その基礎が石灰岩の崖の上に剥き出しで乗っていた。しかも崖の縁ぎりぎりに建っている。ひどい建て方をするものだ。地震の少ないヨーロッパではこれでもいいのか。


 明日ここにいてもつまらなそうなので一番のバスでフランスに帰ることにした。5時45分発とのこと。モーニングコールを5時にたのんで、バス乗場までのタクシーも呼んで貰うことにした。部屋に帰ってから明日以降の行程の計画を立てた。もう現金がないので駅から離れた鍾乳洞は無理。駅近くにある鍾乳洞をホームページのリストから探したが、なかった。しかたないので鉄道で石灰岩地帯の多い中央高地を東西で横断することにした。さながらフランス国鉄のローカル線の旅というコースに なってしまった。

第五日目
 タクシーの運転手にホスピターレゆきのバスの時刻表を示して「バスストップ」といったら確かにバスターミナルで降ろしてくれた。バルセロナ行きのバスがついていた。定刻5分前になってもホスピターレ行きのバスが現われないので売店に行って聞いたら、ホスピターレ行きのバスの発着場が最近変わったらしい。

 道順を教えて「急げ」と言っているのは身振りで分かるのだが、スペイン語では道順までは分からなかった。地名だけ紙に書いてもらって指差す方向に駆け出した。通行人に聞きながら進もうと思っていたのだが、あいにく朝が早いので人っ子一人通っていない。結局どこだか分からないでうろうろしているうちに時間が過ぎてしまった。次のホスピターレ行きは14時なので、こんな寒いところで待ってはいられない。しかたがないからバルセロナ行きのバスに乗ろうかとターミナルに戻ってきたら、それも出てしまった後だった。このときは途方にくれた。

 まだ真っ暗な町の中をとぼとぼ歩いていたらタクシーは結構走っていた。タクシーを止めて「ホスピターレ、いくら」と聞いたら400フラン(6000円)とのこと。現金が全部無くなってしまってはフランスに入ってからこまるので「300フランでどうか」と言ったら「駄目だ」というジェスチャーをして走り去ってしまった。

 タクシーの運転手にすればこんな市内で短距離走るより長距離客を捕まえたいはずだからもう少し当たってみることにした。その前に100フラン札を1枚ポケットに隠した。次にきたタクシーを止め「いくら」ときいたら同じく400フランとのこと。
・財布を出してこれしかない。
・ペセタは無いのか→ない。
・「小銭はこれだけ」と、コイン入れから30フランぐらいのものを示した。
・「乗っていけ」というジェスチャーをしたので「サンキュー」と言って乗り込んだ。

 それから先も本当に行く先が伝わっているのか心配だったが、磁石で見ると概ね東に進行していたのでまず間違いあるまい。そのうち昨日見覚えのあるスキー場の前を通ったので安心した。道路の最高地点付近で運転手が「ウヲー」という声を上げたので前を見たら、狼を跳ねる寸前だった。ドスンと音がしたので跳ねたことは間違いないが、体半分ぐらいは飛び退いていたので、致命傷ではないかも知れない。

 国境の警備所では「パスポート見せろ、ザックの中見せろ」と意外と厳しかった。昨日はこんなことなかった。地元の人の車に乗っていたためか。こんな朝暗いうちにタクシーで出て行くのを不審がられたせいか。無事通過して少し走った所で乗り逃がしたバスを追い抜いた。

 ホスピターレ駅には列車に十分間に合う時刻に着いた。運転手に財布を逆さにして有り金全部を払った。駅ではペルピニャンに行く切符をくれと言ったのだが「売れない」という。なぜだか理由は分からなかった。しかたないので、反対方向になるのだが、とりあえずトゥールーズまでの切符をVISAカードで買った。

 トゥールーズには9時半頃ついた。そこで昨夜作った、ローカル線めぐりに近い経路を書いた紙を示して、これをくれと頼んだら理解に苦しむという顔をしていた。日本で言えばさしずめこんな経路だろう。大阪から東京に行くのに、北陸線で富山に行き、高山線で名古屋に出て、中央線で塩尻を経由して東京に行くというようなものだ。

 緑の窓口の係員が大阪~名古屋~東京と打ち込むものだから、全然こちらの意図する線を走る列車にならない。フランスの地図を広げて「ここを通る列車が欲しい」と指差す。それでは、と打ち直してくれたが、中央高地を横断する列車が夜にかかってしまいこれでは景色が見えない。もっと早い列車に乗りたいと言ったら、この線は1日3本しか走っていない。お前のいう昼間の列車には間に合わないとのこと。「TGVを使ってもか」と聞いたら「そうだ」とのこと。この辺はTGVも在来線を走るのでそんなに速くないらしい。「それではノーサンキューだ。計画し直してくる」と言って窓口を離れたら、「せっかくお前の言う通りに提案したのに何だ」と不服そうな顔をしていた。 後ろには長い待ち行列ができていた。

 駅のカフェに入り、地図を広げて再検討。料金をVISAカードで払おうと思ったら、60フラン以上でなければ使えないとのこと。ここでまた、なけなしの35フランが出てゆく。トゥールーズはフランスでは西に位置しているのだから、中央高地を東で横断してから西で横断するのを、西で横断してから東で横断するように計画を書換えた。それを持って再度緑の窓口へ。今度はこちらの意図が伝わるよう「渓谷を昼間見たいのだ」と書き添えておいた。これで何とか希望どおりの列車が取れた。途中のクレルモンフェランで一泊する切符なので「ホテルも取るか」と聞かれた。「たのむ」と予約してもらった。トゥールーズに着いてからここに漕ぎ着くまでに2時間を要した。いやはや言葉が通じないとは不便なものだ。
 12時半頃の列車でクレルモンフェランに向けて出発。中央高地もこのラインではなだらかな丘になっていた。渓谷もたいしたものが無かった。むしろ沿線の寂れた田舎町の景色が印象的だった。

 この線といっても、いくつかのローカル線を渡って行くのだが、最高地点の近くは小さなゴルジュに沿ってあえぎながら登って行った。最高地点はスキー場らしく近くにリフトが見えていた。まだ雪はなかった。それから下りになり展望が開けた。列車のスピードも増し快調に下って行くと、眼下に西洋のおとぎの国のような美しい村が現われた。
 一面の緑の芝生(or牧場)の上に白い農家が点在し、教会や広場も揃っていた。その村のはずれには大きな館というかシャトーが広い庭をしたがえて建っていた。うっとり見とれていて写真を撮るのを忘れてしまった。
 クレルモンフェランのある平野にでるところもゴルジュなのだが、もう18時なので暗くてよく見えなかった。人里離れた山の上に城がライトアップされていた。

 この線は途中でいろいろなローカル線と交わるので、鉄道設備としても面白いものがあった。
・2本の線が松葉状に合流する駅で、駅舎がAの字の横棒の位置にあり、Aの字の△の部分がホームになっていた。日本ではこのような構造の駅は見られない。
・列車が走行中、レールの継目音の間隔を測ったら30秒で30回だった。と言うことは毎秒1回、レール長は25mなので、秒速25m=時速90kmになる。とてもそんなにスピードは出ていない。ひょっとするとレール長が日本より短いのかもしれない。
・客車は左右で窓の構造が異なっていた。片側の窓は上半分を内側に倒せるようになっているらしく、プラスチックの窓受けがついていた。もしかしたら、寝台車を改造したのかもしれない。ローカル線の客車なので。
・場内信号機に赤が二つ現示されていた。日本ではこのような現示方式はない。場内信号と出発信号は絶対停止なので、現示方法を閉塞信号機とは変えているのであろう。
・出発合図は日本のように旗を振るのではなく、白い羽子板のようなものに青い線が一本入ったものを振っていた。
・複線区間での進行方向は日本と同じなのに。単線の行き違いは相手列車を左に見る番線に進入して行き違いしていた。日本では右に見る番線に入るのだが。
・単線非電化の線路だが、日本のように線路に沿って通信線を張った電柱が建っていなかった。通信設備はどのようになっているのだろう。
・キロポストは2mぐらいの棒の上に横長の看板がついて赤字で記載されていた。日本では高さ80cmほどの太い三角柱なのだが。
・大駅は全ホームを包むように大きな屋根がかけられていた。日本ではホーム毎に屋根をつくる構造である。もっとも、フランスでも、新しい駅ではホーム毎に屋根が設けられている例もあった。
・これはパリリヨン駅に着いたとき見たのだが、パリリヨン駅はターミナル形式の配線(上野駅のような行き止まり形式)だったが、その先端部に機関車を隣の番戦に逃がすためのポイントが設けられていた。これは到着した列車の機関車をこのポイント経由で隣の番線に逃がして、他の仕事に使えるようにするためである。やはり機関車が長時間動けなくなるのでは不便なのだろう。しかし、隣の着発線をまるまる空けておかなければ、機関車がよその場所で仕事をすることができない。そのためには着発線の2本に1本は空けておかなければならないので、着発線の使用効率が悪くなる。
・駅の緑の窓口の係員はほとんど女性。昼休みになると完全に窓口が閉まってしまうのも徹底しているなと思った。


 クレルモンフェランには18時半頃ついた。駅に降りて気が付いたが、今日は予約したホテルを探さなければならない。かえって面倒なことをした。言葉ができないと道順を聞いても分からないからタクシーで行くことにした。駅前のタクシーにホテルの名前を示したらOKという返事。運転手が車から出てきて背中のナップザックをやにわにはずして自動車のトランクにいれた。膝に乗るくらいの荷物なのに。

 ホテルは駅から結構離れていた。鉄道で紹介するホテルが駅から遠いと言うのもおかしなものだ。メーターは22フランなのに50フランだという。メーターを指差して抗議すると、「荷物扱い料」だという。それで当方の小さなザックをトランクに入れたのか。 雲助だな。ここでまた 50 フラン消え、残るはコイン15フランのみ。

 ホテルのレストランで辞書を片手にフランス語のメニューと格闘していたら、痺れを切らしたギャルソンが英語で説明に来た。もうタクシーに乗る金が無いので駅までの道順と距離を調べることにした。ホテルでタウンマップを貰ったが縮尺が出ていないので距離は分からなかった。それで、もう真っ暗になっていたが、駅まで歩いて調べることにした。タクシーで来た道は遠回りなので、真っ直ぐ駅に行く道を歩いた。地図は正確だったので、駅までの半分と思われるところまでの時間を計って帰ってきた。 駅まで約25分と見ておけば良い。

第六日目
 列車は6時45分発なのでホテルを6時に出た。駅には6時25分に着いた。出発掲示板を見たが、乗る予定のニーム行きの列車がない。ホームへの入り口の上にあるテレビを見たら、乗るべき列車にバスのマークが付き AUTCARと付記されていた。

 案内所に行ったら運休であることは分かったが、代替バスが出るのかどうか要領を得なかった。次に切符売場に行って乗車券を示しながら「どうすればいい」と聞いたが、それは自分で決めろとのこと。代替バスが出るのかどうか聞きたかったが、辞書に適当な言葉が見つからなかったのでついにあきらめ、直接パリに行く列車に換えてもらうことにした。そのやりとりの過程でチラッと「ストライキ」という言葉が聞こえたので、「やまねこスト」でも発生したのか。ストが予定されているのなら、その列車の切符は発売しないはずだからだ。

 一番楽しみにしていた中央高地東部での横断ができなくなった。地図で見ると、ここは列車で3時間の間ずっとゴルジュに沿って走ることになっているからだ。しかも先日のアルデシュ峡谷にも近いので、ずっと石灰岩が続いていることが予想される。無念 残念。

 8時半頃発のパリ行き直通列車に乗った。いままでのローカル線の客車よりずっと上等な客車が使われていた。景色はつまらない田園風景ばかり。通路を挟んだ反対側の座席に座っているおばさんが携帯で大きな声で話している。仕事の連絡でもしているのか、次々と携帯をかけまくっていつまでもうるさい。近所の人が皆おばさんの方を見て、うるさいという表情をしたら、いたたまれずデッキに出て行った。
 パリ郊外の通勤駅と思われる駅前にはマイカーがどっさり並んでいた。日本のように自転車は見られなかった。自動車を駐車するスペースがあるのはうらやましい。

 パリ・リヨン駅に12時につき、なんの成果もないフランス石灰岩地帯探訪旅行が終わった。早速シャンゼリゼ通りにある大きな本屋に行ってフランスの地質図を買った。あちこちでつっかかりはしたが、言葉が通じない国でも、なんとかなるものだという自信を得た旅でもあった。

 

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