1973年の甲斐駒ヶ岳(S48年)

 1973年頃だったと思う。東京で勤務していた時、北海道勤務時代の山仲間が甲斐駒と仙丈に登りに来たので、私も参加した。この山行記録は、当時を思い出しつつ、2020年に書いたものである。

 彼ら3人は、前日に駒ヶ岳登山口の山荘に泊まっているので、当方は夜行で出かけ、韮崎に早朝ついて、一番バスで登山口まで行った。山荘の玄関に着いたら、もう3人がいつでも出発できる準備をして待っていた。

第一日目
 まずコースの打ち合わせ。そのころはまだ尾白川沿いに〇〇滝まで行って、そこから五合目小屋に突き上げるコースもあったので、尾白川コースにするか、黒戸尾根コースにするか相談したが、今日は天気があまり良くないので、尾根コースを登ることにした。

 黒戸尾根コースの出だしは急坂が続き、夜行の寝不足がたたって辛かった。おまけに途中から雨が降り出したのでポンチョを着て(写真01)、汗をかきながらの登りとなった。黒戸山の頂上を巻き、五合目小屋に着いたらトーテムポールが建っていた。尾白川に下る道は恐ろしく急峻だった(写真02)。明日は甲斐駒を経て仙丈まで行きたいので、もうひと踏ん張りして七丈小屋に向かう。

写真01 黒戸尾根の黒戸山付近(雨のためポンチョ着て登る)

写真02-1 五合目小屋から尾白川への下り道入口

 五合目を過ぎたら登り坂もぐっと急になった。岩場も出てきた。霧に巻かれて展望は効かない。雨と汗でぐしょぐしょになりながら、やっと七丈小屋に着いた。結構混んでいた。まず着替えと、登山靴を乾かすべくストーブの近くに靴を並べる。この頃の南アの小屋は素泊まりだったか、賄い付きだったかよく覚えていない。小屋内の照明は電気ではなくランプだったと思う。

 一連の作業を終え、やっと4人でゆっくり話せる時間になった。彼らはこの夏、知床半島の縦走をしてきたそうだ。「それはすごい」と、いろいろ話を聞く。

写真02-2(一連の作業を終え、やっと一息:七丈小屋前にて)

第二日目
 朝食を済ませ登山靴を手に取ったら、外は乾いていたが中はまだ濡れていた。今日は雲も切れ、薄日が差している。早速、鎖場を登ってゆく(写真03)。一連の急登が終わったころ下を見たら、2軒の七丈小屋が見えた(写真04)。急勾配が一旦緩くなったころ、やっと甲斐駒の頂上が見えた(写真05)。まだかなり登りがある。花崗岩の山なので岩場が白く見え、一瞬、雪山かと思ってしまう。左手に摩利支天が見えるはずなのだが、雲が切れずにとうとう見えなかった。

写真03 黒戸尾根8合目付近の岩場

写真04 黒戸尾根8合目付近より七丈小屋を見下ろす

写真05 黒戸尾根9合目より甲斐駒を見上げる

 ようやく頂上に着いた。この頃は霧に巻かれてしまい、頂上の祠しか見えない(写真06)。無念残念。甲斐駒は眺望が良いので有名な山なのに。結構な時間、霧が一瞬晴れるのを待ったが、とうとうそのチャンスはなかった。鋸尾根に行く道も発見できないまま、北沢峠に向けて下りについた。

写真06 駒ヶ岳頂上の祠

 北沢峠には仙水峠経由で下った。この道も結構急だった。まだ学生だった1965年の頃、韮崎からバスで白洲まで行き、大武川を遡行して途中で一泊ビバークして、仙水峠に登るルートを歩いてみたが、ひょんぐり滝付近で川に落ち、これはとても私の手におえる沢ではないとあきらめ、尻尾を巻いて帰ってきたことがある。

 あの頃の五万分の一には、大武川から仙水峠に行く道も、赤薙沢経由で白鳳峠に登る道も書いてあったが、今の25000にはどちらの道も無くなっている。広河原も北沢峠もバスで入れるようになったので、この道は廃道になったのだろう。当方の兄貴に聞くと、「俺たちの頃は北岳に行くには、韮崎からバスで白洲に行き、赤薙沢を登って白鳳峠を越えて、広河原小屋に泊まったものだ。今より丸一日余分にかかった」とのこと。

 話が横にそれてしまったが、駒ヶ岳→駒津峰→仙水峠→長衛小屋→北沢峠を経由して、仙丈岳には展望を期待して尾根道を登った。残念ながらずっと霧に囲まれたままで、景色は何も見えず。この日は、馬の背ヒュッテor薮沢小屋あたりに泊まったと思う。小屋に入る頃は風がかなり強くなっていて、寒かった。この小屋での記憶は何も残っていない。

第三日目
 濃い霧の中を出発。仙丈岳のおわん型の稜線を一回りしたが何も見えず。仙丈岳頂上にかなり大きなケルンが林立していたような気がする。次に小仙丈岳を通り、北沢峠に下った。ここから先は特に難しいところもないので、大休止。それから先はガツガツ歩いて、丹渓山荘を経由して、バスの発着する戸台に着いた。

  

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