80歳の富士登山

 2022年の夏は天気が悪かった。80歳の富士登山を企てて、7月25日ごろから毎日、富士山頂の天気予報を見ていたが、2日続けて晴れることはなかった。毎日・毎日、明日もあさってもダメかと根気よくチャンスをうかがっていた。ようやくそのチャンスが8月22~23日に訪れそうになってきた。

 21日になっても、その連続した晴予報は変わらなかったので、早速、富士山の3000m以上の山小屋全部に電話したが、どこも満員で泊まれなかった。仕方ないので、夜行日帰りで登ることにした。地元では、これを弾丸登山と呼んで、危険防止のため控えるよう呼び掛けている。しかし暑い日中登るより涼しい夜間に登る方が楽なので、毎日数千人の弾丸登山者がいるのも事実だ。特に外国人の登山者に多い。

 当方が何度も富士山に登るのには理由がある。古希以上で富士山頂上まで登った人を頂上の浅間神社が祝ってくれるからである。お神酒と記念の扇子をくれ、年末には「今年の高齢登拝者名簿」に載せて、自宅まで送ってくれるからである。これを見ると、①今年は古希以上の人が何人登ったか、②自分は齢の順で見ると上から何番目か、が分かるようになっている。今まで見た最高齢者は94歳の方だった。

 8月22日(月)、家を12時50分ごろ出て、列車で富士急行の富士山駅(元は富士吉田駅)まで行き、そこから登山バスで吉田口五合目まで行った。17:20頃五合目に着いたら、濃い霧に包まれ、気温も低い。レストハウスで持参した夕食を食べ、18:50に(まだ元気な自分の姿の)記念撮影をして登りだした(写真01)。

写真01 五合目出発前に記念写真


 まず最初は「泉が滝」までゆるゆる下ってゆく。ここで標高100m損をする。泉が滝は溶岩のくぼみを水がチョロチョロ流れているところで、馬の水飲み場ともなっている。ここ(標高2200m)からが頂上まで続く斜面の登りである。

 落石よけのシェルターの廊下を抜けると、第一関門である6合目の登山指導所についた。警察の山岳パトロール隊が常駐して、登山者からの質問を受けたり、危険防止のアドバイスをしたりしている。いつも「弾丸登山は危険なのでやめてください」と言われるので「もう富士山は十数回登っている、そのうち4回は冬富士登山だ」というと、「それなら大丈夫でしょう」と向こうが黙るという繰り返しだった。どういう訳か、今年は地元の手伝いのおばさんという感じの人が、指導所の建物の前で、「登山路と下山路の注意点」を書いたパンフレットを配っているだけだった。

 ここから上を見上げると7合目まで続く大きな斜面に山小屋の灯が点々と続いている。見上げるだけでウンザリする迫力がある。その間を登山者のキャップランプの灯がゆらゆらとつないでいる。「御来光(5時15分)までに頂上に着けばいいや」と下を向いて、30cmほどの小さい歩幅でただモクモクと登る。

 最初は火山噴出物が細かく割れたコークス状の斜面をジグザグに登ってゆく。いいかげん飽きたころ最初の山小屋に着いた。たまたま「こんばんは」と声をかけた女の子二人ずれが、山梨県で美容師の仕事をしているという中国人で日本語も上手だった。同じく中国人の友達と車で来て、富士登山しているとのこと。しばらく一緒に歩いたが当方の方が早いので、先に行くことにした。

 溶岩が盛り上がったような岩尾根が現れたら最初の山小屋である。コースタイムを記録するのも面倒なので、デジカメで山小屋名を撮影してゆく。そこからは、八合目までずっと岩尾根が続く。まだ高度順応していないので岩場で体がふらついて怖い。とうとう、まだ体が垂直に立っていないうちに前足を垂直に伸ばしたらしく、後ろのめりに岩場を転げ落ちて、頭と頬を強く打って止まった。幸いヘルメットをかぶっているので頭は何ともなかったが、頬は強い痛みが残った。上で見ていた人が「頭はどうですか、大分ひどい衝撃音がしましたよ」という。「ヘルメットをかぶっているので大丈夫なようです」と答えながら、胸をなでおろした。やはり80歳で脚力が不足しているのだろう。

 7合目も終わりに近づいた山小屋の脇に、山小屋より高い林が茂っていた。もうここなら3000m近くあるはずだ。当方が学生時代は6合目の六角堂あたりが森林限界だった。55年で森林限界が600mも上昇するのか。地球の温暖化のスピードに驚いた。そういえば前回登ったときは頂上の溶岩にも苔が生えていた。

 長い溶岩の尾根道も終わり八合目の山小屋群がパラパラと続いている。七合目ほど小屋群が密集していない。時刻も夜中の2時を越えたので、標高3250mと書いてある元祖室(写真02)で「食堂で何か食べられるか」と聞いてみたら、「即席めんにお湯をかけるだけで、外で食べる方式だ」という。それで結構と頼んだら一杯600円だった。富士山では水が貴重なので料金の半分以上は水代なのだろう。体も冷え、腹も空いていたので旨かった。

写真02 八合目の元祖室(富士山の山小屋は、昔は石室と呼んでいた)


 この山小屋はまだ名前に「室」を使っている。今では貴重な存在だ。こちらが学生の頃は富士山の山小屋は石室と呼ばれ、壁は溶岩のかけらを積み上げた中側に板を張っていた。外から見ると岩を積み上げただけなので石室と呼ばれていた。

 この頃になると当方の足も大分弱ってきた。八合目は山小屋の間隔が長いので、山小屋の灯がなかなか近づかない。各小屋毎にヘトヘトになりながら、牛の歩みで登る。とうとう最後の山小屋(御来光館3450m)の前を通って(写真03)、九合目の鳥居を目指す、胸突き八丁にかかった。

  写真03 御来光館前の通路(溶岩を積み上げた壁)

 急斜面を細かくジグザグを繰り返す登山道が続く。ここは明け方にはいつも渋滞する所だ。そんなところで七合目で分かれた中国人女性2人連れに出会った。「あーら、もうとっくに頂上についているのかと思っていた」と声をかけられてしまった。こちらは大分、バテバテバテだったので先に行ってもらうことにした。

 九合目の鳥居を過ぎると、もうじき日の出らしく東の空がだいぶ赤らんできた。雲は3500m付近に一層、その上に富士山より高い位置にもう一層の雲が広がり、青空は見えなかった。当方はここらで御来光を拝もうと登山道わきの岩場に座って日の出を待った。

 いよいよ御来光05:17(写真04)。赤い光線がパッとあたりを照らした。多くの登山者も赤く染まった斜面に座って御来光を見ていた(写真05)。せっかく迎えた御来光だが、太陽は、すぐに上の雲海に入ってしまった。

写真04 いよいよ御来光(左下は山中湖)

   写真05 御来光に染まる山肌と登山者


 最後の力を振り絞って頂上直下の鳥居(写真06)を潜り、吉田口頂上の久須志神社の前で記念撮影05:45(写真07)。吉田口頂上の広場は登山者で込み合っていた(写真08)。まず高齢登拝者の登録をしようと神社の入り口に行ったら、雪戸が固く締まり、「本年は終了しました、奥宮は28日まで開いています」との張り紙が出ていた(写真09)。

写真06 頂上直下の鳥居(冬はこの鳥居に頂上に向けて氷が張り付いている)

写真07 吉田口の頂上神社(久須志神社)前で記念撮影

    写真08 吉田口頂上の人混み

写真09 もう終了しましたの張り紙

 何の予告もなくこういうことをされては困るんだよな。奥宮とは富士宮口頂上にある神社なので、お鉢回りを半分していかないと到達できない。もうそんなエネルギーは残っていない。残念ながら今年の高齢登拝者の登録はあきらめるしかない。仕方なしに吉田口頂上近くの最高点、伊豆が岳まで行ってみたが、雲が多く、地上も主だった遠くの山も見えない。今回はいままでに登った富士山の中で一番天気が悪い。しかたないので、吉田口頂上から見たお鉢の写真だけ撮った(写真10)。

 写真10 吉田口頂上から見たお鉢(火口)

 吉田口頂上の広場に戻って、できるだけ風当たりの少ない場所に座り、ガスバーナーで餅を焼き、醤油を塗って、海苔を巻いて食べた。やはり暖かいものは旨い。食べ終わって、さて下ろうかと歩きだしたら、小型犬を連れた65歳ぐらいのおじさんが歩いてきた。そのワンコのいでたちがすごい(写真11)。

       写真11 富士山頂まで登ったワンコ       

 防寒具を着て、左右振り分けにしたザックを背負い、4本足には全部靴を履いていた。富士山の登山道は大部分コークスの上を歩くような道なので、犬でも靴を履かないと足裏が擦り切れてしまうのだろう。よくこの小型犬が往復15時間も歩いて頂上までやってきたものだ。犬種は分からないが、連れてきたおじさんんも偉いが、ここまで自分の足で登って来たワンコも偉い。

 07:38須走口下山路から下りに着いた。吉田口は長い岩場の道があり、下りでよく事故を起こしていたので、吉田口の下り専用の道として、ブルドーザーで火山礫の斜面を開鑿して作ったものだ。頂上3700mから6合目2400mまで、ずっとコークス状の滑りやすい長い下り道が続くので、チョットした小石でも回転しやすい石があると、てきめんに転び、たいていの人が何らかの異常をきたす。当方もその一人である。①つんのめり症状、②尻もち症状があるとのこと。

 いよいよ覚悟してその道を下り始めた。いつもは①のつんのめり症状になるので、今年はできるだけブレーキをかけて速度をおとすように歩いた。これなら尻もち症状になるはずだが、転がりやすい石を踏むとコロンと倒れてしまうのは同じだった。7合5勺ぐらいまで下ったらますます症状がひどくなり、あちこちで転ぶ。砂利道で転ぶようなものなので怪我はしないがかっこ悪い。ずっと近くを下って来た若い女性が見かねて、「このストックを使ってください」と当方に貸してくれた。

 上手な日本語だったので、そのときは気が付かなかったが、あとで何度もやり取りしていて中国人だと気が付いた。ストックをついていても足を乗せた石が転がると当方も転ぶ。そのつど、その女性と仲間が当方を引き起こしてくれる。何ともみっともないザマだ。ようやく7合目の公衆トイレが見えてきたので、「あそこでトイレによって一休みしてから下るので、どうも有難うございました」と言って、ストックを返し別れたのだが、トイレから出て来たら、私のザックの横に、そのストックが置いてあった。

 近くにいた山岳指導員と思われる男性が、「若い女性が事情を話して置いて行った」と説明してくれた。女性が話した症状から、「こりゃまだ介助が必要だろう」と判断したとのこと。「しばらく休んで、こういう運動を15分ぐらい繰り返してください」とアドバイスされた。そこで15分ぐらい費やしてリハビリ運動を繰り返してから出発した。

 ストックをついてゆっくり下っていたら、登りに一緒になった中国人の二人連れの女性が「あら、また一緒になりましたね」と追い付いてきた。ストックをついていても当方が良く転ぶので、その都度、腕をつかんで2人がかりで起こしてくれる。恥ずかしいのと申し訳ない気持ちで一杯だ。

 道々、「このストックをくれたのも中国人の女性だった」「中国を一人旅したことがあるが、何かに困って立ち往生していると、直に誰かが声をかけてくれた」と言ったら、中国では小さいときから困った人がいたら助けてあげなさいと言われて育つので、困っている人がいたら声をかけるのは中国人の常識になっているとのこと。

 そこから6合目の登山指導所の前を通り、5合目のバス停まではまだ1時間ほど歩いた。泉ヶ滝を過ぎ、バスが通れるような広い平らな道に出てもまだ、時々、すってんころりんと転ぶのにはあきれた。丁度昼食時だったので食事を一緒にしようと誘ったのだが、遠慮して、すぐ自動車で帰るとのこと。

 今回の富士登山は天気はあまり恵まれなかったが、旅の思い出としては最高だった。

 

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