歩行記録

 6年ほど前(2014年)からオールサンデーの生活に近くなったので、日々の歩行記録をつけるようになった。まだ週2日ほど勤めている間は、朝、通常より1時間早く家を出て、会社の数駅手前で電車を降り、会社まで3kmを歩いて行った。帰りも同じようにして帰って来たので、仕事がある日は6kmを歩いていた。会社に行かない日は、家の近所を4~6km歩いていたが、直に目ぼしいところは歩きつくしてしまった。
 こうなると歩く気力も失せる。どうやって歩くモチベーションを起こし、健康を維持するかを考えた。本編はその試行錯誤の記録である。個々の試行錯誤の具体的内容は各ジャンルに分散して載っているので見て頂きたい。

 幸い敬老パスも発給される年齢になっていた。これを使うと横浜市内の地下鉄とバスは只で乗れる。市外に乗り出すバスは、市内で乗車すれば終点まで只で乗れる。市外で乗っても市内まで乗車すれば、これも只で乗れる。パスの購入金額は本人の所得によって異なるが、横浜市は市域も広いので、このパスを使った方が断然お得である。日中のバスなど敬老パス所持者ばかりで、バス会社に申し訳ない感じである。

 それならば敬老パスを有効に使ってせっせと歩き、病気で病院にかかるのを減らせば市も喜ぶだろうと、一日6kmを目標に歩くことにした。そのご利益か、後期高齢者になってからも、掛け金以上の医療費(窓口で払う料金ではなく、実際にかかった医療費と比較して)を使ったことがない。

 そこで、敬老パスで遠くまで行き、その先を歩いて、また敬老パスで帰ってくるなど、毎回歩く場所を変えて散歩をするようにした。こうすると毎晩国土地理院orゼンリンの地図をwebで眺めて、「明日はどこを歩こうか」と計画する楽しみも増えた。見た後は「俺もずいぶん暇人になったなー」と感じるのも事実であるが。

 遠くまで行けるとなると何か歩くテーマを決めないと場所を探すのに苦労する。そのころやりかけていたテーマ①横浜市境踏破の次は、②杉山神社めぐりと決めた。その後も次々と歩きたいところが出てきた。③神奈川県境踏破、④横浜水道道踏破、⑤相模川踏破、⑥富士山を海抜0mから登る、⑦鶴見川源流めぐり、⑧富士塚めぐり、⑨19号水害調査、⑩鎌倉街道、などなど。

まだ⑦と⑨はHPに載せていないので、アウトラインを以下に示す。

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 ⑦鶴見川源流巡り

 まず、鶴見川の流路図を下に示す。鶴見川本流は○印の水源から河口まで3日かけて歩いた。その他の支流は、本流との合流点から水源目指して1日で歩いた。

図01(鶴見川本流は町田市から流出:〇印、途中で部分的に矢本川と呼ばれ、恩田川と合流してからまた鶴見川と呼ばれる)

 鶴見川本流は町田市上小山田の田中谷戸で地下からモクモクと湧きだし、鶴見で東京湾に注ぐ40kmほどの川である。小さいながらも人口密集地を流れるので一級河川の扱いになっている。本流は途中で矢本川と名を変えるが、横浜線の中山で恩田川が右岸から合流するあたりで、また鶴見川になる。その下流綱島付近で早淵川が左岸から合流し、さらに下流の川崎市南加瀬付近で左岸から矢上川が合流する。その後鶴見区の生麦付近で東京湾に入る。

写真02(鶴見川本流の水源:きれいな水が泉の底からもくもくと湧きだしている)

 恩田川は小田急を玉川学園付近で横切り、上流の薬師池の裏側あたりで道路の側溝となり流れは見えなくなる。早淵川はあざみ野で東急田園都市線を横切り、しばらくは道路の中央を流れているが、覚永寺信号で左に道路を外れ、丘陵地の裾を深い溝となって流れ下っている。500mぐらいで暗渠となり、舗装道路の下にもぐってしまう。その道は保木公園という大きな遊水地につながっている。多分ここが早淵川の水源湿地と思われる池もあり、白鷺が微動だもせず魚を狙っていた。

 矢上川は宮前平で東急田園都市線を横切り、川に蓋をして自転車置き場に利用され、商業地域や住宅街が入り混じった地域を、側溝として流れたり、暗渠で隠れてしまったりしながら、流れが細くなり、川崎市営バス菅生車庫の上まで追跡できるが、最後は土管から流れ出しており、その先は分からない。続いていてもせいぜい北部市場手前の交差点までであろう。

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 ⑨の水害調査は、2019年10月に東日本・北日本に大きな被害をもたらした台風19号による住宅地の出水原因を調べるため、鶴見川・多摩川周辺を歩いたものである。素人目ながらもある程度の因果関係は分かった。水のついた地域はおしなべて、目で見ても分かるほど周辺より低い。家を買う時はそのあたりをよく見て買わないといけないと肝に銘じた。

 多摩川は丸子多摩川~西府まで、鶴見川は新横浜~三輪までを、実際に堤防を歩いて調べた。どちらも流水が堤防を越えるところまでは達していなかった。堤防を見れば、水が上がった位置までゴミが付いているのですぐわかる。多摩川の方が水位は上がったようだ。台風当日大雨注意報が出ていたのは、箱根、丹沢、奥多摩、秩父山地だった。鶴見川は短いので、そのどれにも達していない。このため、多摩川の方が鶴見川より水位が上がったのだろう。

 二子玉川の東京都岸で堤防のないところから水があふれたという新聞記事があったので、そこも見に行った。正規の堤防はその外側にしっかり存在していた。堤防の内側(河川寄り)に住み着いた住民が悪いと言いたいところだ。経緯は、大正時代まで多摩川の流れを眺めながら料理を出すお茶屋群が堤防内にあった。その名残で引き続き人が住むようになり現在に至っているらしい。でもなぜ、河川敷に建築許可を出したのだろう。

 鶴見川は3カ所の遊水池を回ったが、三輪の遊水池は越流堤を越えなかったとのこと。川和の遊水池(市営地下鉄車両基地の地下に作った遊水池)は、越流堤ギリギリの線まで水が上がった跡があったので、遊水池事務所で聞いてみたが「水がどれだけ溜まったか分からない」とのこと。こういう問題に一番神経を使っている管理事務所でこの状態なので、心配するほどの流入はなかったと考えていいだろう。一番メインの新横浜の遊水池では貯水可能量の1/3ぐらい(130万トン)溜まったとのこと。

 多摩川には遊水池がないので、国土交通省の京浜河川事務所に聞いたら、「多摩川は勾配が急すぎて遊水池を作れないのだ」とのこと。河川改修で流路を真っすぐにしてしまったツケなのだろう。大昔は多摩川下流は大蛇行していた。その大蛇行を河川改修で直線化したので、同じ地域が東京都世田谷区と川崎市に分断されたところが多い。その証拠に等々力・野毛・瀬田などの地名が、世田谷区にも川崎市にも存在している。更に、川崎市中原区の等々力緑地には、昔は川の流れの跡を示す大きな曲がった池もあった。

「小河内ダムにはどのくらい水を溜めたのか」と聞いたら、東京都水道局に聞いてくれとのこと。多摩川の水利権は東京都が持っているのだろう。東京都水道局に聞いたら、小河内ダムには1300万トン溜めたとのこと。盛んに「これは外部とも連絡を取っている」=「東京都だけで勝手に決めたわけではない」ということをアッピールしていた。下流の多摩川の水位が意外と上がったので、東京都が非難されるのを警戒しているのであろう。

 総じて多摩川の土砂流出量はすさまじく、あれを片付けるには、相当な時間と予算が必要だろう。

 下水管より川の水位の方が高くなり、下水管を逆流して市街地に出水する、いわゆるバックウオーター現象がどこでも起こっていた。水門を閉めた場合は下水の出口がなくなるので、やはり下水管から下水があふれるという。どちらに転んでも対策は難しいところだ。写真04から、下水の出口より、川の水位の方がはるかに髙かったことが分かる。

写真04(バックウオーターを示す水位)

 各水門にポンプをつければ、水門を閉めてポンプで下水を川に放出することはできる。しかし莫大な金がかかるので、当面は現場・現場の状況を見て対処するしかあるまい。そのためかどうか知らないが、小さな水門の操作は「地元町内会長に委託する」という札が出ているところもあった。

写真06(住宅地に上がった水位)

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 これだけ歩いてくると、横浜市内の主要な道路はほとんど歩いたことになる。それを地図にプロットしたら、主要道路の一部で抜けている区間があちこちにある。それをつぶすべく、道路を歩くことだけを目的とした馬鹿馬鹿しい散歩も「都市道路を歩こう」というテーマで組み込んだ。

写真08(これまでに歩いた主要道)

 主要道路なのでトラックが多く走っている。まきおこす風が強いので、対面交通では目にホコリが入っていけない。そこで右側通行の原則に反するが、自動車の進行方向と同じ側の道路わきを歩くようにした。歩道がある場合はよいが、歩道がない箇所はさすがに怖くて歩けない。対面交通側を歩いた。

 主要道路なので乗用車もかなりのスピードで走っている。タイヤから出る騒音が非常にうるさく、iPodの音が聞こえない。自動車会社も車室内騒音低減ばかりでなく、外に漏れる騒音を低減する技術開発もしてもらいたいものである。

 道不案内で人に道を聞くときは、土着の人(農家、商店)に限る。ベッドタウンとして住んでいるサラリーマンに聞いてもほとんど知らない。また、女性もたいていの場合はダメ。「知らない」というだけならまだよいが、全然トンチンカンな方向を案内する人もいるので、無駄な大回りをすることも、ままある。どうも女性は方向感覚と言うより、地理感覚がまるでない人が多い。

 道路を長時間歩くときはトイレも必要だ。主要道なのでコンビニがあるので助かる。バスも走っているので天気が急変した時など、敬老パスでバスに乗って鉄道駅まで行き、電車で帰ってくればよい。

 八王子街道はR16なので横浜市内は全部歩いたが、国土地理院の25000を見たら、横須賀に延びる道路もR16になっている。急いで、高島町~田浦、田浦~走水の2回に分けて歩いた。ついでに、野口英世記念館(金沢区の旧長浜検疫所)、観音崎灯台も生まれて初めて見てきた。観音崎の表の顔は灯台だが、裏の顔は砲台だった。

 環状4号を歩いたとき、和泉町の旧米軍深谷通信基地の円形境界(直径1km)を物好き丸出して、一部藪漕ぎしながら歩いてきた。錨のマークが付いた旧帝国海軍の標識もまだいくつか残っていて、この通信基地の歴史が分かり面白かった。

写真10(旧帝国海軍の標識杭)

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 最近(2020年春から)はコロナウィルス騒ぎで3密(密接、密集、密閉)を避けるよう政府から強く要請されているので、電車やバスに乗るのもはばかられるようになった。そのため毎日の散歩も自宅から歩いて往復できるところに変更した。

 そこで今は(2020年5月)、朝4時半に起きて涼しいうちに、近くの川の土手を歩いて3kmほど上流にある神社を往復するというパターンに切り替えた。この時間に歩くのは初めてだが、お年寄りグループが三々五々歩いている。野良猫が餌を持ってきてくれる老人を待っている。その待っている姿勢が、前足をきちんと揃え端正に座っているので、とても野良猫とは思えない。

 神社は80段ほどの石段を登って、木々に囲まれた山上の参道を歩いてゆくと本殿に達すると言う、なかなか雰囲気の良い神社である。6時前でも、いつも一組か二組ぐらい参拝者が来ている。由緒記によればこの地域の7社ぐらいを合祀して、町名をとって神社名としたようである。この神社の歴史を感じさせるのは、明治以前の神仏混交時代の名残である鐘撞堂が残っていることである。戦前の金属供出運動の時は、「この鐘は火事のときに半鐘として使っている」として供出を免れたらしい。

 毎年の歩行距離はわずかずつだが年々伸びている。記録をとり始めたのが4月だったり、PCのシステムダウンでデータが年またがりで失われているので、ちゃんと1年分の歩行キロ数が揃っているのは4年分しかない。
  2017年:2102km、 2018年:2223km、 2019年:2326km、 2020年:2402km
 毎年すこしずつ増加しているが、年々齢をとるので、直に減少に転ずるだろう。これが我が体力のバロメータ代わりだ。減少に転じたらピンピン・コロリと行きたいものである。

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