2005年8月の初め頃から群馬県にある岩櫃山に登ろうと計画していたが、群馬県の天気がずっと「午後ところにより雷雨」と思わしくなかった。毎日、インターネットの天気予報で群馬県吾妻町を見ていたら、明日は一日中天気が良いというので出かけることにした。
今回登った岩櫃山の地図は下記の通り。吾妻線の郷原で降りて岩櫃山に登り、一駅手前の群馬原町まで、赤線のコースを歩いた。
(写真01 岩櫃山登山コース 郷原→岩櫃山→岩櫃城→群馬原町)
8月20日(土)、上野7:41発の鈍行に乗り、吾妻線の郷原(ごうばら)には10:50頃ついた。上野を出るときは快晴だったが、郷原では雲が広がり、時々日が射す程度。でも山が低いので頂上は雲に隠れていない。マッチ箱のような駅舎と背景に聳える岩山(岩櫃山)が絵葉書のような構図をなしている(写真02)。
写真02 郷原駅と岩櫃山
駅の右手に岩櫃山コースの案内板が建っている。吾妻町のHPに出ていたものと同じだった。駅を11:05に出発。ちょっと渋川よりに戻った踏切を渡ると豪農の館のような屋敷があった。指道標に従って緩い登りの自動車道を汗をかかないようゆっくり歩く。25分ほどで古谷の集落。集落の後に岩櫃山の高さ200mの岩壁が圧倒的な姿で立っている(写真04)。
写真04 直下の古谷から見上げた岩櫃山
集落を通り越した先に密岩コースの登山口がある。中年の女性登山者が「草ぼうぼうで通れそうもない」と引き返してきた。地元の吾妻町のHPでも紹介している登山道がそんなはずがないと思い、農家の庭先にいたおじさんに聞いたら「通れるよ」とのこと。行って見たら、登山口の手前50mほどのあぜ道のようなところが草ボウボウだったが、登山口の門柱があるところから先は草が生えていなかった(写真06)が、「注意:クマ出没」というおまけの看板が立っていた。登山口の前で昼食の休憩。若い女性の2人連れが登っていった。
写真06 密岩コース登山口
何か「ドーン」というような音が聞こえた。鳥追いのアセチレン爆弾でも鳴らしたのかと思っていたが、後にこの時刻に、中越で震度5の地震があったことが分かった。
登山口12:00発。いきなり急な登りになる。小さな窪状の地形で「昼なお暗き」というほど木が密生している。20分ほど登ったら左頭上の岩壁に穴のようなものが見えたので、コースを外れてガレ場を登ってみたが、岩屋程度のものだった。じきに稜線のコルについた。12:30着。右:山頂(岩櫃山)、下:郷原駅(密岩コース)の指道標が建っていた(写真08)。
(写真08 密岩コースの指道標)
ここから右に岩櫃山への稜線を行く。かなり岩もでてきた。稜線を歩くというよりも、稜線を右に左に渡り返してトラバースしてゆく。最初の見所は「天狗の懸け橋」。指道標があるが、どちらが本ルートでどちらが巻き道か分かり難い表示だ。右に行ったら天狗の懸け橋(ナチュラルブリッジ)の下を通る道で、懸け橋の上に女性が2人いた(写真10)。「そこに出るにはどう行くのか」ときいたら、「指道標を左に」というので引き返した。
(写真10 天狗の架け橋)
天狗の懸け橋の上に登ってみると、幅50cmぐらいのナチュラルブリッジが5mほど続いている。高さもそうないので特に緊張するほどのところではない。若い女性の一人が「おじさん大丈夫?」と声をかけてきた。そんな年寄に見られたか。「こんなところ何でもないよ」と渡って見せた。「へー、慣れてるんだ」などとぬかしていた。
その先は岩尾根を鎖で登る(写真12)。続いて穴のあいた大岩を潜り抜け、裏側の岩場を梯子で登る。面白いがどれも規模が小さい。妙義山と同じ凝灰岩なので岩は複雑に侵食されている。頂上直下の岩稜から古谷集落の屋根が真下に見下ろせた(写真14)。
(写真12 岩尾根を鎖で登る)
(写真14 頂上から直下の古谷を見下ろす)
頂上直下に鷹ノ巣遺跡と看板が建っていたので1分ほど下ってみたが、単なる岩壁の下の小さな平地だった。こんな山の上に何の遺跡があったのか。後ほどHPで調べてみたら、縄文か弥生の頃の埋葬地の跡とのこと。わざわざ山の上まで運んで埋葬したのか。
頂上は大きな岩峰なので鎖を使って登る。この山の鎖場の鎖はどこも細すぎて掴み難い。13:00頂上着。先ほどの女性が2人、昼食をとっていた(写真16)。一番高いところは2人に占領されているので、一段下で当方も昼食。頂上は危険防止のため鉄の手すりができている。空は一面の雲となってしまい、遠くはかすんでいる。南側足元に古谷集落、そのすぐ先は、もう吾妻川。鉄道はどこを走っているのか見えない。
(写真16 頂上で昼食)
そのうち、雷がゴロゴロ鳴り出し、雨も降ってきた。女性2人は大急ぎで降りて行った。当方は雨具を着て、女性軍が次の岩峰の上に立つのを写真にとってから(写真18)、下りにかかった。13:30。雨に濡れた鎖は滑りやすく、おまけに細いので、チョット緊張した。雨も強くなったので当方も急いで下る。尾根コースを下ろうと思っていたのだが、いつのまにか薄暗いゴルジュの中に入ってしまった。指道標によると「櫃の口」というらしい。チョロチョロ程度の小さな沢も流れていた。
(写真18 東に延びる岩稜)
更に下ると「岩櫃城址へ」という指道標があったので、右手の尾根に登る。林の中の小さなアップダウンを繰り返して行くと「本丸跡」という石碑の建つところに出た(写真20)。東屋があったのでチョット雨宿り。切掘(写真20)、○○郭、二の丸などを見ながら下る。
岩櫃城は一時期、信濃の真田家が支配していた。織田・徳川連合軍に武田勝頼が負けて逃げる際、真田昌幸は「天然の要害である岩櫃城に入るよう」勧めた。しかし、これも天然の要害である岩殿山の城主小山田信茂が岩殿山に籠ることを進言したため、勝頼は岩殿山に籠ることにした。ところが勝頼一行が笹子峠の麓まで来たとき、小山田信茂の謀反により勝頼一行の岩殿山城入りを断ってきた。ここで勝頼も覚悟を決め、景徳院で自害した。なお、主君を裏切った小山田信茂が織田方に「かくかくしかじか」と自分の働きを申し出たら、「主君を裏切るとは何事、そういう家臣は不要じゃ」と死罪に処せられたという。
(写真20 岩櫃城本丸跡) (写真20 岩櫃城切堀)
小型車なら通れるほどの道が横切っていたので、その道を左に進むとすぐ、沢コースの岩櫃山登山口にでた。登山口の脇に休憩場があったので入ったら、先ほどの女性2人が雨宿りをしていた。14:20着。雨が強くなったので当方もしばらく雨宿りすることにした。聞いてみたら、彼女達は雨具を持っていないとのこと。それで頂上を泡くって出発したのか。山に登るのに雨具なしとは信じられない。
煙草を吸いたくなったので彼女達に遠慮して外で吸った。かなりの雨だったがヘルメットと雨合羽のおかげで大して苦にもならなかった。ただ、タバコが濡れて困った。休憩所に入ったら「おじさん何やってるの」と聞いてきた。「ケイビングをやっている」と言ったら、「ケイビングって何?」ときた。「洞窟探検」と言ったら、「何それ?」ときた。一通りケイビングの話をしたら、「それでヘルメットとビニールのザックなのか」と納得していた。
14:40頃、西の空が少し明るくなり雨もやや小降りになったので、「西の空が明るくなったのでお先に」と言って出ようとしたら、「西の空が明るいとどうして出発するの?」ときた。「天気は西から変わってくるので、西の空が明るければもうじき雨はやむ、ということさ」と説明して休憩場を出た。
平沢集落をバイパスする道を下ると谷川沿いの道に出た。左側(谷側)を注意しながら進んだ。「観音山コースへ」という指道標があったので下ったら、大きな洞窟に出た。すぐ行き止まりだろうと思いながら洞窟を奥へ進んだら、右に右に曲がり頭上に竪穴もあいていた。下方にも穴があき、鎖が下がっているでないか。これは思わぬ面白いところに出たと、その鎖を下ったら、洞窟の外に出た。そこには「第三石門」という看板が建っていた(写真22)。
(写真22 滝不動に下る途中の洞窟:第三石門)
少し下ると高さ15mほどの不動の滝があり(写真24)、滝はこの雷雨で濁っていた。その下流を赤い欄干のある橋で渡ると、そこには「滝不動」のお堂があった(写真26)。誰もいないひっそりとした境内。その脇の小沢はゴルジュ状になり、岩壁に梯子もセットされていた。○○窟、○○神などの看板が建っていたので、それぞれ見所なのだろう。
(写真24 不動滝)
(写真26 滝不動)
滝不動の下にある駐車場から川を渡ったところに温泉の汲み上げ施設があった(写真28)。これが25000に載っている温泉記号の正体か。その温泉をどこに引いているかパイプをたどってみたかったが、道路の脇に埋めたのか、すぐに見えなくなってしまった。
(写真28 25000地図の温泉記号の正体)
滝不動を出て、平沢への自動車道路と合流するころには雨もすっかり上がった。R145の広い道に出ると左手に「岩櫃温泉」が見えたが、いかにもヘルスセンターという感じなので立ち寄り湯せず駅へ。 群馬原町駅には15:50頃ついた。原町駅は最近建替えたものらしく、小さいがデザインの良い駅舎だった(写真30)。
(写真30 群馬原町駅)
こんな小さな駅に駅員がいたのに驚いたが、今日の午後吾妻線で事故(自然災害)があったらしく、列車が大きく乱れているので、その案内のため臨時に張り付いているようだった。
結局40分遅れで高崎行きの鈍行に乗った。17:00頃発。高崎で一本待って埼京線経由の三島行きに乗った。来週の幌尻岳の足慣らしには手ごろな山だった。
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