鎌倉街道を歩く

 2019年の11月から2020年の4月にかけて鎌倉街道の中央線以南を歩いた。800年も前の街道なので当時のままの姿の道は、町田市小野路付近と、鎌倉市御霊神社付近の2ヶ所に、計700mほどしか残っていなかった。

 鎌倉街道は、鎌倉に一大事が起こったとき、鎌倉幕府を支える御家人が戦支度ですぐ駆けつけられるように整備した道であるので、江戸時代の街道のように宿場や荷駄運送を組織化したシステムはなく、ただ単に道があるというだけなので、使われなくなるとすぐ藪に埋もれてしまうためだろう。

 御家人の領地は関東一圓に広がっているため、鎌倉街道は鎌倉から関東各地に放射状に広がっている。そのため関東には、鎌倉街道と呼ばれる道があちこちに残っていて、どれがメインの街道なのかを定めるのは難しい。我が家の近くにも「鎌倉道」との石碑が建っているところがある。

 まあ、細かい詮索はさておいて「とにかく歩いてみよう」ということで出かけた。それにしても何か指針がなければコースも決まらないため、「鎌倉街道歩き」、内田晃、創英社/三省堂、
に記載されているコースを歩くことにした。歩いた順序は北から順に歩いたわけではないが、ここでは北から順に紹介することとする。

 

1回目(西国分寺~永山)

 昔は国分寺から単線の下河原線が府中競馬場まで走っていたが、その線路用地を現在の武蔵野線が利用している。西国分寺の南口を出て、小さな指道標に導かれていくと、鎌倉古道はすぐ近くだった。山を大きくV字型に開鑿し、その底を道幅1mぐらいの鎌倉街道が走っていた(写真02)。しかし、V字型に開削された道は明るく、全体で100mぐらいしかない。路面も舗装されていて、50年ほど前に歩いたときに感じた「山の中」というイメージは全然なくなっていた。すぐに国分寺尼僧院跡の広場(写真04)になり、住宅地の中の道になってしまった。

        写真02 西国分寺付近の鎌倉街道

          写真04 国分寺尼僧院跡地

 鎌倉街道は東芝府中工場の中を通っているので、府中工場の北門まで行って、工場内を通る鎌倉街道をイメージングし、工場の外側を回って府中刑務所・北府中駅を見てから甲州街道を通って、分倍河原に行く道に入った。この道には地元が建てた案内表示が多く、この道が鎌倉古道であること、この道はいくたの闘いの行軍路として使われたので「陣街道」とも呼ばれていることなどが解説されていた(写真06)。

       写真06 鎌倉街道を陣街道と呼ぶ説明標

 中央高速を潜ると直に、左側に、「分倍河原古戦場」の碑が建ち、「分倍河原の合戦」の説明板(写真08)があった。今は細長い公園になっているだけで古戦場を感じさせるものは何もなかった。案内板によると、新田勢も初日の合戦では負けて所沢方面に退いたが、相模の三浦勢などが合流したので、翌日の早朝北条勢を急襲して、これを破ったとのこと。この戦から鎌倉の北条氏が滅びるまでたった6日とは驚いた。夜を日に次いで攻め寄せたのだろう。

        写真08 分倍河原合戦の説明板

 京王中河原駅前を通り、関戸橋で多摩川を渡り、大通りの鎌倉街道から右に入る旧道を通って丘陵に登ってゆくと、多摩市庁舎の脇を通った。市庁舎が街から離れた山の上にあるのに驚いた。永山駅へ行く道が分からなくなったので、階段で下に降り、地元の人に聞いて、永山駅に通じる広い道に入った。その大きな十字路に鎌倉街道という標識が立っていた。その交差点から乞田川を渡って永山駅までは10分たらずだった。

 

2回目(永山~町田)

 永山駅から現在の鎌倉街道という大通りに出るまでがややこしい。さんざん迷った挙句、なんとかその道にたどり着いた。この現在の鎌倉街道は永山駅前を走る道路より、山を一つ、西側に越えた道路なのでそのつもりで探そう。

 鎌倉街道に出たら、貝取公園に登り遺跡を見て、公園の西側の道に下る。この道を南へ2kmほど進むと、地元では尾根幹線道路と呼ばれている道と交差する。道路敷きの幅は広いが真ん中に幅広い分離帯があり、両端の道路は普通の道路である。この交差点を渡ると左に妙櫻寺(写真10)があり、

      写真10 妙櫻寺(鎌倉古道に続く道の目印)

 道なりに進むと道路が小さな峠状になるところ(写真12)で左に山道が分かれる。この道が昔のままの鎌倉街道であると言われている。この道は500mぐらい続いており、写真13の道へと続いている。まさに往時の鎌倉街道という雰囲気である。

     写真12 自動車道から左に鎌倉街道が分かれてゆく

          写真13 鎌倉街道がつづく

 そのうち、関戸の切通しと呼ばれるところに出る(写真14)。ここから先も幅1mぐらいの道路だが、奥にある耕作地に資材を運ぶため道は舗装されてしまっている。その道を道祖神や祠を見ながら下ると小野路の家並に出る。ここは宿場の街並みを残すように配慮しているので、その面影に浸ろう。それには小野路の里山交流館で休むのが良い(写真16)。

           写真14 関屋の切通し

         写真16 小野路の里山交流館

 それから先、町田までの間に野津田公園、薬師池公園などがあるが、わざわざ訪れるほどのところでもないのでバスで町田に出るのもよい。

 

3回目(町田~瀬谷)

 JR町田駅北口を出て、原町田中央通りを南東に向かう。これが旧鎌倉街道らしい。JR横浜線を円形スロープの人道橋で渡り、町田の天満宮に達する。お宮は大きいがあまり歴史的由緒のあるものはないらしい(写真18)。

  写真18 町田の天満宮(狛犬が三対も並んでいるがみな新しい)

 神社の外側を一回りして線路沿いを金森の杉山神社に向かう。杉山神社は、鶴見川流域に50ヶ所もあるが、鶴見川流域に入植した豪族の守り神なので、鎌倉街道とは無縁である。鶴金橋から西に曲がり、境川を渡ったところにある泉龍寺は美しい三重塔もあり見ごたえがある(写真20)。鶴金橋と鶴金橋交差点との間に神奈川県境踏破の時に歩いた、境川の旧河川敷(写真22)が見下ろせたのは懐かしかった。

         写真20 泉龍寺の三重塔と本堂

 写真22 境川の旧河川敷(境川の河川改修で真っすぐにしたが、県境は相変わらずここ)

 それから先は広い自動車道の右や左に入っていくが大した見ものはない。南町田駅の手前で八王子バイパスに沿って南町田駅へ。駅の屋根が美しい曲線(写真24)になっているのに驚いた。この駅は南側からは何回か乗り降りしたが、こんな美しい曲線の屋根を持っているとは気が付かなかった。最近作った屋根なのか、それとも当方が見落としていただけなのか。

   写真24 東急田園都市線の南町田駅(屋根の曲線が美しい)

 鶴間公園の脇を一回りして鶴間小学校の近くに行ったら、入学式があったらしく、両親と一緒に歩く新入生の列が続いていた(写真26)。コロナウィルス騒ぎで入学式中止の学校が多い中、よく開いたものだ。「入学式ができてよかったね」と新入生に語り掛けたら、お母さんから「有難うございます」と言われてしまった。

    写真26 コロナ騒ぎにもめげず、小学校一年生の入学式

 ほとんどの新入生にお父さんとお母さんが揃ってついて来ていた。当方は我が子の小学校の入学式に行ったのだろうか。家に帰ったら女房に聞いてみようか考えたが、行かなかった公算の方が高いので、薮蛇にならないよう黙っていることにした。

 そこを過ぎて、歩道橋で八王子バイパスを渡り、何とか寺の坂道を登ったところで道を間違えたらしく、それから先は案内地図と現場の状況が一致しなくなった。どうも境川が近くにありすぎる。境川から離れるため、瀬谷入口と書かれた交叉点を左に曲がって登って行った。日経の印刷工場前を過ぎたら、ようやく東名高速の高架が見えてきた。めでたし、めでたし。

 東名高速の下を潜ったら、案内地図に出ている神社仏閣が続いて現れたので、これが昔の鎌倉街道らしい。牢場坂を見て、元の道にもどり南へ南へと進む。このへんは小型のマイカーが頻繁に走っていて、道路を渡るのも神経を使う。バス交通が不便なのだろう。

 北向き地蔵尊(写真28)のところで右に曲がり、本当の旧鎌倉街道と思しきところに入った。道も狭くなり、道路周辺の雰囲気もますます「鎌倉街道」らしくなってきた。瀬谷銀行の跡という立看板があったので読んでみたら、この辺の農家は明治期は生糸場を設立し、多くの資金が必要だったので、地元の名士の小島政五郎が銀行を興したとのこと。それで、街道沿いの農家の規模が大きいことが分かった(写真30)。

           写真28 北向き地蔵尊

       写真30 瀬谷銀行の説明板と大きな農家

 狭い道の両側に昔ながらの平屋や二階建ての大きな家屋が並び、きれいに刈り揃えた生け垣があり、当時の梯子やふいごをぶら下げた大きな納屋や、欅の大木がそびえた門が続いていて(写真32)、当時を忍ばせてくれる。

写真32 はしごやふいごをぶら下げた大きな納屋        樹齢500年はあろうかという大木

 瀬谷が近くなったころ日枝神社の大ケヤキを見た。高さ35mで、枝の途中に葉っぱが密集して生えた「まり」のようなものが寄生していた(写真34)。あれは何だろう。その先の角地には「道祖神」と彫った石碑が建っていた(写真36)。地元の人はみな、これが鎌倉街道だと言うことを知っていた。どうやら由緒正しい鎌倉街道らしい。

  写真34 日枝神社:天然記念物の欅の大木

          写真36 石碑の形をした道祖神

 

4回目(瀬谷~下飯田)

 瀬谷駅から住宅地の中を徳善禅寺(写真38)まで歩いた。道すがらの家も、昔から住んでいる古式ゆかしい大きな家が沢山あった。道もせいぜい4m道路で緩くカーブしながら続いている。

           写真38 徳善寺の山門

 相鉄をガードで潜り、同じような道を南に歩く。道が二つにわかれるところには。道の真ん中にロータリーのように道祖神があった(写真40)。佐馬神社は神社ではあるが鐘楼も揃っていた(写真42)。神社に鐘楼があるのは江戸時代の神仏混交の名残で、古い神社であることを示している。

        写真40 ロータリーのような道祖神

   写真42 佐馬神社(手前:鐘楼、左:拝殿、右:神楽殿)

 相沢川に沿って下るところで地図を読み違え、相沢川を渡った先の広い道路を南下したため、以降は全くお門違いの方向に進んでしまった。途中で気が付いたので、宮沢と言うところから、できるだけ南へ・西へという方向に道をとった。

 ある団地で新幹線にぶつかったが、すぐ脇の川は改修中で道がない。しかたないので戻ったら、公園の脇に新幹線を渡る自動車も通れる橋があった(写真44)。しかしその橋の先の道は、まさに登山道並みの細道だ(写真45)。細道を歩いて行ったら5分ほどでバス道路に出た。多分、新幹線建設の時に地元が「ここに新幹線を渡る橋をつけてくれ」と条件をつけたのだろうが、開業から55年経っても山道のままとは。ごね得の見本のようなものだ。

     写真44 新幹線を渡る橋             写真45 新幹線を渡った先は山道

 バス道を進んで行ったらようやく場所が分かる地点に着いた。これでは予定の探訪ヶ所の半分しか回れないことになる。もう一度出直すことにした。

 

やり直し4回目(瀬谷~下飯田)

 このコースの出だし部分は前回歩いているので、できる限り飛ばす。佐馬神社を越えて、勝手知ったる旧鎌倉街道をひたすら南進する。いよいよ、前回間違えた交叉点に出た。ここは十分気を付けて進み、無事、相沢川に出た。その川に沿って南に向かう。水はきれいだったが魚は見られなかった。次の目標は新幹線だ。相沢川から離れないよう気を付けて南進する。

 新幹線の下をくぐると左手の山の上に何かお寺(本興寺)が見え、その麓に瀬谷区緑道が続いている。しばらくその緑道を進んでから寺に登る階段が現れた。赤い仁王門(写真46)がある立派なお寺だ。境内が広い割には堂塔伽藍は少ないが、本堂の彫刻は見事だった(写真48)。今日は暑いせいか、まだ12時だというのに喉が渇いた。自動販売機のジュースでのどを潤す。

          写真46 本興寺の仁王像

        写真48 本興寺本堂の見事な彫刻

 それから先はバス道路を行くのか、その左側の旧道と思われる小道を行くのかよく分からなかった。小道の方に入ってしばらく進んでから地元のおばさんに「飯田神社はどこですか」と聞いたら、「あのカーブミラーのある所を左に入って、ひたすら進むと、右手に森が見えてくる。その森が飯田神社だ」と、実に分かり易い教え方だった。その通り行ったら、ドンピシャ、飯田神社に着いた。女性でもこういう地理的感覚が発達している人がいるのかと見直した。

 飯田神社も、拝殿・鐘楼・神楽殿がそろっている神社だった(写真50)。鎌倉街道沿いの神社はこの3点セットが揃っている神社が多い。それだけ古い神社が多いのかもしれない。説明板によると、ここの神楽殿は明治時代には学校として使われていたそうだ(写真52)。

      写真50 飯田神社の拝殿・鐘楼・神楽殿

      写真52 明治時代は学校として使われた神楽殿

 長後街道との交差点を過ぎ、第一の長屋門の屋敷を見送って、道がT字路になったところで斜め右の道に入る。前回はここに気づかず、直進してしまったところだ。農村の道に戻ったなと思ったら、町会役員と思われるおじいさんが町会掲示板の張替えをしていたので、地元の人なら知っているだろうと思い、「この道が旧鎌倉街道ですか」と聞いたら、「そのように言われています」と返事が返ってきた。さすが地元の人だ。

 この細道にある長屋門(写真54)の方がバス道路の長屋門より立派だった。それを過ぎると直にこの旧鎌倉街道もバス道路に合流し、相鉄線のゆめが丘駅に登る道に入る。ゆめが丘駅の周辺は相当大きな宅地開発らしく、広さ100m四方で深さ10mぐらいの大きな調整池を作っていた。宅地造成工事の中を歩いて地下鉄下飯田駅に達した。

     写真54 旧道にある長屋門、屋敷の構えも立派

 

5回目(下飯田~藤沢)

 駅を出てすぐ佐馬神社へ。お寺の建物かと思うような拝殿だった。鐘楼と思われる建物もあった。神仏分離令まではお寺として機能していたのだろう。

 境川遊水池の近くで、琴平神社と東泉寺を見た。お寺と神社が同じ敷地に同居している作りだった(写真56)。遊水公園の外周に沿って進むと(写真58)、元生糸場の建物を使った記念館がある。俣野集落に入るとまだ農村情緒が残っている風景もみられる。

 写真56 神社とお寺が同一敷地に同居(左:琴平神社、右:東泉寺)

   写真58 境川の俣野遊水地の一角(全体では巨大な遊水地)

 上俣野神社を見て観音堂交叉点についたら、すぐ後ろの山の上に、旧ドリームランドの高い塔が良く見える。今では東京薬科大学の建物(写真60)になっている。明治学院のグランドの前を通って八坂神社の方に向かった。この辺は地図で見ると、直径1kmの「深谷通信基地跡地」や「ウィトリッヒの森」のすぐ近くなのだ。

 写真60 旧ドリームランドのホテルタワー(今は東京薬科大学の建物)

 八坂神社は建物がお寺のような感じだったので(写真62)、地元の人に「これは神社なのですか」と聞いたら、「鳥居があるから神社なのでしょう」という。そういわれても鳥居がどこにあるか見えない。あちこち探しまわった挙句、100mほど離れて鳥居があった。神社と鳥居の間は畑になっている(写真64)。昔は参道があったのだろうが、どういう訳か、そこが畑になってしまっている。こんなのを見たのは初めてだ。鳥居の付近に「ここに鎌倉街道が走っていた」という説明書きがあった(写真66)。

写真62 八坂神社(左側の大きな円盤は太い桜の幹から切り抜いたもの)

写真64 八坂神社の鳥居(鳥居と拝殿の間に畑が入り込んでしまった)

     写真66 鳥居の近くには鎌倉街道の説明板があった

 俣野中央公園という高台まで登り、富士丹沢の写真を撮り、昔の庄屋の家と思われる豪壮な家(長屋門と大きな屋根の高い母屋:写真68)を見て進むと、R1の藤沢バイパスに出た。鉄砲宿と言う面白い名前のバス停を見かけたので、地元の人に聞き込みをして、その由来を書いてある説明板(写真70)をやっと見つけた。その悲しい話にしばらく涙が止まらなかった。

 写真68 立派な長屋門と大きな母屋(この付近の名主の家とのこと)

      写真70 鉄砲宿の名前の由来

 鉄砲宿バス停からしばらく南下し、陸橋がある交叉点を左に入る。なんともその場しのぎの造成地と言う坂道を下って右に曲がる。ガソリンスタンドのある角から左に坂道を登ってゆくと、住宅地の中の柄沢神社に着く。ここも神社とはいえ鐘楼もある。あとは大した見ものもないので、藤沢駅までひたすら歩く。

6回目(藤沢~鎌倉)

 R1の遊行寺交差点を右折して進むと左側の高台に慈眼寺がある。渡内交差点を右に入り、日枝神社、二傳寺があるはずだが、二傳寺は見つからなかった。

 平良文の居城である村岡城址公園も見てみたが、城の遺構は何もなく時間を損しただけという感じ。坂道を下り交差点を右へ。「なんだかわからない大きな施設」を左に見て歩いてゆくと、また交差点に出るので、ここを左に曲がる。しばらく行くと東海道本線を地下道で潜る入口(写真72)が見つかる。地下道を抜けたら線路沿いを右方向に進む。

       写真72 東海道線を潜る地下道への入り口

 小山が見えるので、その右脇を回りこむように進むと、今井工業の建物がある。門の右脇の小道が公道で、それをまっすぐ進むと正真正銘の鎌倉古道に入る(写真74)。古道への入り口には「鎌倉古道(上の道)」という石碑が建っている。わずか130mぐらいしかないが、雑木林の中に鎌倉古道が延びている。途中で右側に御霊神社への裏参道が分かれている。わずかの距離なので御霊神社にも寄って行こう。

 写真74 何とも場違いな鎌倉古道への入り口(正面の奥が鎌倉古道)

 御霊神社の裏参道から戻り、鎌倉古道を進むと直に舗装道路にでる(写真76)。ここから先は神戸製鋼所藤沢事業所の金網に沿って進む。金網越しに鎌倉景政ゆかりの「兜松」(写真78)が見える。

      写真76 あっという間に鎌倉古道も終わりだ

    写真78 兜松(神戸製鋼事業所のフェンスの外から撮影)

 柏尾川を渡り、川に沿って左へ。「湘南液化ガス」の手前を右に曲がり、泉光院を見てせっせと進む。多分この辺で道が分からなくなるだろう。当方もその一人である。右手に大き原っぱが広がっている。これが洲崎古戦場の跡だ。新田軍と北条軍合わせて六万騎が戦ったといわれる古戦場なので広さも相当なものである。

 しばらく進むと湘南モノレール下の通りに出る。この右手に見える駅が深沢駅である。左に少し歩くと洲崎古戦場跡の碑がある。新田義貞は鎌倉を攻略するに当たって、全軍を三つに分け、巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂から攻め込んだ。義貞は本隊を率いて、洲崎から鎌倉街道を進み、化粧坂に向かった。

 現代の鎌倉街道歩きは、洲崎古戦場跡から、住宅地の中の登り坂を登り(写真80)、頂上の「山の上ロータリー」から源氏山に向かう道を進む。この辺は案内板がないので、地元の人に聞きながら進むとよい。とは言っても静かな住宅街で人が歩いていることはめったにない。方向感覚を研ぎ澄まして地図をよく読んで進むしかない。舗装道路が下り坂になるところの右側に葛原岡神社の案内板があるので、そこから右へ入る(写真82)。しばらくは別荘のような建物の前を通り過ぎてゆくと葛原岡神社に達する。

     写真80 山の上ロータリーへ登る道、意外と長い

  写真82 葛原岡神社への案内板が建っている:ここを奥に進む

 ここからはいろいろ見る場所があるが、化粧坂降り口(写真84)・源氏山の頼朝像(写真86)・寿福寺外周を通って鎌倉駅へ下るのが一番早い。寿福寺の外周通路に太田道灌の墓があるとは知らなかった(写真88)。ただし、外周通路には少々手ごわいところもある(写真90)。最後は寿福寺の山門をくぐり自動車道路へ出る。鎌倉駅までは10分ぐらいである。

          写真84 化粧坂の降り口

          写真86 源氏山の頼朝像

           写真88 太田道灌の墓

      写真90 寿福寺の外周通路

 

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