とうとう山古志を訪ねた


****** 山古志と当方の出会い ******

 もう20年も前、府中市教育委員会主催:中越地震カンパのチャリティー映画祭「掘るまいか」が開催された。「掘るまいか」という意味と「山古志村」がどこにあるかも分からず、とにかく行って映画を鑑賞した。
 「掘るまいか」の舞台となった新潟県山古志村は中越地震(震度7強)の震源地で、一村壊滅的な被害を受け、住民の多くは現在長岡市の仮設住宅で避難生活を送っているが、この山古志村農民の不撓不屈の精神を表すものとして、彼らが戦前戦後にかけて、手で掘りぬいた約1kmのトンネルの建設記録映画が「掘るまいか」だった。

山古志村の位置(写真01) 鉄道線路の小出駅と小千谷駅から位置を想定して下さい

 この山古志村の小松倉地区は四周を山で囲まれ、冬には4mの雪が積もり、峠道はとても歩ける状態ではなくなる。病人が出ても医者に診てもらう手だてもない。冬でも安全に通れる通路の確保が、北越雪譜の時代からの悲願であった。
 小松倉では山の斜面に小さな田をつくり、水は、付近の山に横穴を掘って湧き出す清水を田に引いて使っていた。小松倉の人はこれを横井戸と呼んでいる。すなわち穴を掘るのは日常茶飯事の事だった。

 このことに気が付いた小松倉の農民有志が次のように皆に呼び掛けた。「峠の下に小出に出るトンネルを、農閑期に交代で掘ろうではないか(掘るまいか)」。それはいい案だと、総論賛成だが、農閑期(冬)は出稼ぎに出ないと生活していけないという人も多く、なかなか全員の賛成は得られなかったが、発案者グループの粘り強い説得で、やっと、大方の賛同が得られた。

 そこで専門家の技術者に話を持ち込んだところ、
①小松倉地区の山の地質構造は、石化していない粘板岩・泥岩なので、手持ちの片歯つるはしでも掘れるだろう。
測量した結果、当初計画では、距離は922mの直線トンネル、大きさは、高さ1.8m、幅1.2m。その後拡幅して、現在は、髙さ2.5~3m、幅2.3m、長さは小出口洞口の崩落により877m
③トンネルの入り口は、尾根の先端から掘り進み、尾根の先端を出口とする(トンネルの入り口・出口が雪で埋まらないようにするため)。
というアドバイスが得られ、1933年(昭和8年)手掘り工事を開始した

 「掘るまいか」という映画は、この手掘りトンネル建設の記録である。再現映像でトンネルを掘り進めるシーンや、トンネルの深さが700m近くになると酸欠状態に遭遇したことなどが紹介されるが、要所要所になると、当時実際にトンネル掘りに参加した「じいさん・ばあさん」が経験談で補強するので、実感がわき、素晴らしい映画だった。

 小松倉の農民が交代で掘り進めたが、折から大東亜戦争がはじまり、建設資材(トロッコやレール)の調達も思うに任せず、働き手の若者も次から次へと出征し、トンネルを掘る主力部隊がいなくなったので工事は中断。戦後1947年(昭和22年)に新潟県庁の応援もあって資材を確保し、工事を再開。1949年(昭和24年)に隧道が完成し、冬でも安全に小出に出られるようになったとのこと。この話に感動し、チャンスがあれば、実際に現地を見てみたいと考えていた。

 今では手掘りトンネルに並行してR291のトンネルができており、手掘りトンネルは中山隧道と呼ばれるようになっている。手掘りの壁面の風化も進み、崩落の危険があるので、入口から70mまでしか入れない。その間の壁面に、手掘りのつるはしの跡が残り、説明看板や、トロッコの再現模型などが並んでいる。これらの管理は「中山隧道保存会」が担当している。保存会のメンバーはまだ実際に掘った方々のようだが、じきに代替わりが進むだろう。生き証人がいる間に見に行くことをお勧めする。


****** 寿命は待ってくれない、いざ、中山隧道へ *******

 当方も今年で80歳になるので、まだ人手を借りずに歩けるうちに見に行こうと決心し、2022年5月に、中山隧道を見に出かけた。

 当方は運転免許を持っていないので、村内を歩いて移動しなければならない。山古志村(現:長岡市山古志支所)に問い合わせて村内だけを走る公益バス(クローバーバス)の時刻表と、村内の見どころパンフレットを送ってもらった。それと並行してWebでも見どころを調べてみた。民宿は村内に3軒ある。

 「第一日目は小出からタクシーで中山隧道入口まで行き、中山隧道をじっくり歩いて見て、小松倉の民宿に泊まり、第二日目はクローバーバスで、小松倉→山古志支所→闘牛場を回り、闘牛を見てからクローバーバスと一般バスを乗り継いで長岡に出て、新幹線で帰る」という予定を立てた。

 まず宿を確保しようと小松倉の民宿に電話したら、何回かけても出ない。「この電話はもう使われていない」との応答もない。山古志支所に問い合わせたら、小松倉の民宿はやめてしまったとのこと。それならWebからも消しておいてもらいたいものだ。
 仕方ないので、別の民宿に宿泊申込のメールを送ったが返事がない。3日待って返事がないので電話したら、コロナで民宿業も成り立たなくなったので、廃業したとのこと。次に、最後の民宿にメールを送ったら、2日後に「コロナで一日一室だけで営業している。その日はもう予約が入っている」と返事が来た。結局1週間かかって山古志の民宿は使えないことが分かった。
 仕方ないので、長岡のビジネスホテルを予約し、翌日、バスで再度山古志に入ることとした。

 これと並行して、中山隧道保存会のホームページの問合せ欄から、いくつか質問してみたが、5日待っても返事がない。たまりかねて電話してみたら、人は詰めているらしくすぐ出た。メールを出したのだが返事がないと言ったら、「どれどれ」と、メールを確認している始末。

 民宿も保存会も農村時間で動いているようだ。ホームページはソフト会社に頼んで作ってもらうので、一応の機能は揃っているが、まだIT生活に慣れていないので十分に使いこなせないのだろう。この前段の作業で10日間もかかってしまった。

 次に村内の見学場所を考えるに当たって、クローバーバスの時刻表を見て驚いた。例えば、小松倉と村内のバスターミナルである山古志支所間を結ぶバスの時刻表は写真03の通りである。

      写真03(小松倉→山古志支所の便は朝の2本しかない)

 小松倉から支所に行くバスは朝2本しかない。支所から小松倉に来るバスは5本もあるのだから、その折り返しのバスがあるはずなのに無い。クローバーバスに電話で聞いたら「帰りは回送にしている」とのこと。このバスダイヤは学校の生徒用ダイヤであって、日中、小松倉から支所方向に行く村人は、皆、マイカーなのだろう。
 実際にバスが走っているのに、日中のバスを回送扱いにしているのは、運転士の時間当たり単価を安くして、少しでも経費を節約している、山古志村の経営努力なのだろう。通常、乗務員の給与は、客扱い便か回送扱い便かによって単価が異なるからだ。

 この状況を踏まえて、村内のクローバーバスは当てにせず、全部歩くことで計画を立てた。小出から中山隧道の入り口までタクシーに乗れば、山古志村内はどんなルートを歩いても、12~15kmも歩けば山古志支所のバスターミナルまで行けることが分かった。

 次に村内の見学ヶ所を選択した。中山隧道は両方の入り口(小出方と小松倉方)をみて、小松倉では横井戸を見せてもらい、次に木籠の中越地震による民家水没跡をみて、自動車道路ではあるが長い上り坂を登って闘牛場を見学してから、山古志支所でバスに乗り、長岡に出るコースを考えた(図05)。

               図05(山古志村内見学ルート)

 そんなとき、大学同期の友人からメールが来た。今、これこれ・このような旅行を計画していると話したら、「俺が車を出そう」と言ってくれた。彼の家は滋賀県なので固辞したのだが、「まあ、遠慮するな。俺も見たいところがある」ということで、小出駅前で拾ってもらうことにした。

 

****** 現地編 *******

2022年5月
 小出駅前9時頃、同期の車に乗った。ずっと雁木が続く小出の町中を通ったが、土曜なのでひっそりしていた。只見線の越後広瀬を通りR291に入る。道路は寂しいほど空いている。やがて目指す中山トンネルが見えてきた。付近を見ると、5月の後半だと言うのに道路沿いの側溝にはまだ雪の大きな塊が残っている。

 ここで現在の中山トンネルと手掘りの中山隧道の位置関係を明らかにするため、少し戻ったところから両者を入れた写真を撮る(写真07)。東側入り口を見るため、R291のトンネル入り口の脇を登って、隧道の入り口を見に行った。入口は柵で覆われ、内部は水が溜まって、いかにも荒れた感じだった(写真08)。

写真07(トンネルの左上に見えるのが中山隧道)   写真08(中山隧道の東口、洞内は水が溜まっている)

 次に西側の入り口を見るためR291のトンネルを走り抜けて、中山隧道の西側入口に行った。こちらの方がメインの入り口で、広い駐車場や説明板があり(写真09、10)、照明やトロッコの実物も展示してある(写真11、12)。

     写真09(中山隧道西口)                 写真10(説明板)

  写真11(隧道断面:網は最近貼ったもの)        写真12(当時使ったトロッコ:複製)

 小松倉では横穴を見たいので個々の農家と交渉しなければならない。沿道に散在する「この家なら留守ではなさそうだ」と思える農家の玄関を開けて、大声で「横井戸を見せてもらえませんか」と声をかける。かなり図太い神経が無ければできない役だ。奥から何の返事もない家も多い。

 ある農家で庭に出ていた奥さんに、「掘るまいか」を20年ほど前に見て、中山隧道をぜひ見たくなったので出かけてきた。その中で小松倉の人はみな「横井戸」を掘っていたというので、その横井戸を見たいのですが、この付近にありますか? と聞いたら、

 「私もその映画に出たよ」というので、「そんなきれいな人いたかな?」と思わず口を突いて出てしまった。「横井戸は中山隧道手前の左側の田んぼを登るとあるよ。でもその靴で登れるかな」とのこと。登れるかどうかは別にして、とにかく行ってみることにした。

 車で引き返し、ここと思われる4枚ぐらいの田んぼの脇をかなりの水量の水が流れている。あぜ道を散歩用の運動靴で歩いてゆく。4枚目の終点まで来たら水流が左右に分かれ、右側からくる水の上部には大きな雪田が見えるので、これは横井戸ではない。左から流れてくる水を追いかけるため斜面を登ったら、運動靴が泥に埋まってしまい、進めない。やはり奥さんが言っていたように長靴が必要なのだ。
 しかたないので横井戸はここであきらめ、次の目的地を回ることにした。自動車に乗る前に、田んぼに落ちていた乾いた草で靴を良くぬぐった。横井戸の写真は別のHPから引用して下に示す。

写真13(本物の横井戸の写真) shinko-web.jp/series/579/より引用

 次は木籠の中越地震遺構を回った。中越地震で崩れ落ちた土砂が川をせき止めたため、上流側の農家が次々と水没し、中には完全に水没してしまった家もあると言う。現在はほとんどの家が撤去されているが、2軒ほど一階部分が泥に埋まった状態で残っている(写真16)。説明板を見ると当時の水位が分かる(写真15)。よくぞ自分の家を、後世への啓もうのためこの姿で残してくれたものだと頭が下がる。近くに震災復興資料館兼土産物屋があるので、もっと詳しい情報が見られるが、今回は先を急いだ。

写真15(青色部分が水没した)  写真16(一階部分が泥に埋まったままの家:最高水位は橋まで上がった)

 その道をまっすぐ進むと、急勾配のヘアピンカーブが続き、闘牛場に出る。ここは明日も来るので、会場の構造物と写真だけを見て、今日の昼飯場所へ急ぐ。山古志支所付近には食堂がないので、山古志の郷土料理を食べさせると言う「多菜田」目指して、虫亀まで登る。この辺は棚田が密集しているので、写真を撮りたい方は準備を怠りなく。

 「多菜田」についてみたら、もう3組も入っていて、我々の座るちゃぶ台がない。どのくらい待つのかと店員に聞いてみたが、「さあ、分かりません」とのことなので、ここを諦め小千谷に向かった。小千谷で、沿道のありふれた食堂で、ありふれた昼食。

 その食堂で、「中越地震の時、崩れた土砂に埋まった自動車から、4日ぶりに発見されたお母さんと赤ちゃんの話のある場所はどこか。手を合わせたい」と聞いたら、「よく来てくれました。有難うございます」とまるで自分の家族のことのように感謝されてしまった。その後現地に着くまでにあと2回、道を聞いたが、どこでも「ありがとうございます」と言われた。この辺の人の心の優しさが見えるようだ。その場所は妙見メモリアルパークと名前が付いているとのこと。

 その場所は今いるところより長岡寄りなので、先に、彼推薦のJR小千谷発電所を見に行った。最初に発電所の水圧鉄管を見た。その太さに驚いた。水圧鉄管の直径は5mぐらいあるのではないか(写真18)。水圧鉄管がこんなに太い発電所を見たのは初めてだ。地図で見ると水をためる調整池は2つあり、低い方の調整池の標高は92m、高い方の調整池は144m、放流先の信濃川の標高は48mなので、相当な落差がある。(JR小千谷発電所地図19)

     写真18(発電所の水圧鉄管)             地図19(小千谷発電所の地図)

 信濃川にはJRの発電所がもう一つあり、3カ所全部合わせて発電量は44.9万KW。佐久間ダムに比べたら半分ぐらいだが、それでもJR東日本の消費電力の40%を賄っているとのこと(Wikipedia)。

 次に妙見メモリアルパークに向かった。その場所は信濃川に臨んだ急斜面の真下だった。中越地震で急斜面が崩落し(写真22)、たまたま下を走っていた乗用車が巻き込まれたようだ。4日ぶりに自動車が発見された。おかあさんと3歳の子は既に亡くなっていたが、2歳の赤ちゃんは奇跡的に生きていたと、当時テレビで有名になった話だ。その赤ちゃんを土中から抱き上げた消防士の嬉しそうな顔が今でも忘れられない。

写真22(信濃川に臨んだ急斜面が崩落し、下の自動車道路を襲った) 写真23(メモリアルパーク入り口)

 あとは長岡のホテルに送ってもらうだけ。当方は車を運転しないので、どの道を通っているか分からない。
長岡駅から3分のホテル前まで送ってもらい、彼に最敬礼して別れた。15:40だった


***** 2日目:長岡見物 *****
 
 山古志村の闘牛(牛の角突き)へ行くバスは11:20発なので、それまで長岡市内を見物した。まず、駅東口のバスターミナルで、山古志に行くバスの発車場所を確認。西口に戻って駅広の周りを歩いていたら、長岡城本丸跡の碑が建っていたのに驚いた。駅から150mぐらいしか離れていない市役所の中に二の丸跡の碑が建っていた。と言うことは、本丸(城の中心地)を潰して鉄道を建設したのか。明治政府(薩長閥)の長岡藩に対する仕返しだなという気がした。

 それから少し歩いて河井継之助記念館に行った。継之助の屋敷跡に建てられたものだそうだが、敷地が小さいのに驚いた。開館が10:00からというので11:20発のバスに間に合うか心配だったが入った。展示室は2室だけで、漢文で書かれた文書類は読めないので、図表類とガトリング砲の複製模型だけ見て出てきた。ガトリング砲の弾倉が垂直に立っているのが印象的だった。

 長岡では河井継之助は郷土の偉人としてたたえられているが、当方の考え方は違う。戊辰戦争の際、押し寄せた官軍側と「非戦・中立で長岡藩は残す」という交渉をしたが、官軍側が認めず戦争となったと伝えられている。非戦・中立で長岡藩を残して、会津攻めにかかった後、長岡藩が裏切って後ろから攻めたら、官軍側の存亡にかかわる。そんな交渉に官軍が乗るわけはない。なんで非武装中立の交渉をしなかったのか。河井継之助ほどの人間がそのくらいのこと分からないのか。
 河井継之助が徹底抗戦の道を進めたため、長岡は丸焼けになり、町民も大災難に遭遇したのだ。そのほか、長岡市は昭和20年(1945年)8月1日に、米軍B29の無差別大空襲を受け焼け野原になっている。駅周辺の道路が碁盤目状に整っているのは、明治政府が長岡城を潰したことと空襲で焼け野原になったためであろう。


***** 山古志の闘牛 *****
 
 11:20発の山古志闘牛会場行のバスに乗った。乗客数は定員の半分ぐらい。隣の席は長岡在住の奥さんで、何度も闘牛を見に行っているとのこと。闘牛見物の要点を教わった。これは前回(といっても、コロナで2年中止になったので、3年前)の取り組み表だと言って見せてくれたものには、力士名が「角栄」というような牛も出場していた。

 山古志土産に「かぐらなんばん味噌」はどうか、と聞いてみたら、「あれは激辛で私も料理法に迷っている」とのことだったのでやめることにした。結局、今回の旅行の土産は、新潟定番の「笹団子」にした。帰りにそれを買った坂口屋の「あん」は美味しかった。土産を配った人の中には「今でもこんな手のかかる包装をしているお菓子があるとは思わなかった」という人もいた。

 バスが停まった駐車場で入場券(2200円/人)を買い、今日の取り組み表をもらう(写真24)。概ね、同年齢の牛同士で戦わせているようだ。長岡の奥さんのすすめで、出入り口に一番近い席に座った。ここだと牛の土俵入り前の様子が見えるからだ。土俵入り前に雄たけびをしている牛もいる。日本の闘牛(牛の角突き)は、スペインのように牛と人間(闘牛士)の戦いではなく、牛同士の押し相撲である。

               写真24(取り組み表)

 牛が土俵に入ると、まず前足を折って、首を砂にこすりつけている(写真25)。これは何の儀式なのか。人間が教えたものか、戦い前の牛の習性なのか。よく似たような対戦相手同士という場合もあるので、尻尾に赤と白のリボンをつけて、素人観客にも見分けがつくようにしている。牛の首から鼻にかけてにぎにぎしい化粧まわしがついている。

写真25(土俵に入ると、牛は、まず首を土俵の土につける)

 いよいよ角を組み合わせて押し合いが始まると、周りを取り囲む勢子が威勢良く声をかけて牛をけしかける(写真26)。牛が自由に動けるように、鼻に通している綱を外している。両力士の押し合いが始まり、広い土俵の隅々まで移動して伯仲した押し相撲が演じられる(写真27)。牛に押しつぶされないよう、勢子の環もそれにつれて移動する。

 写真26(まわりをかこむ勢子が牛をけしかける)       写真27(実力伯仲した押し合い)

 勝敗はどうやって判断するのだろうかと思っていたら、場内に響く放送で、両方の牛が十分押し切ったところで、牛が怪我をする前に引き分けにするのが、牛の角突きの作法ですと解説が入る。がっぷり押し合っている牛を引き離すときが一番難しいらしい。まず、牛の後ろ足に素早くロープをかけ(写真28)、後ろ足を引っ張って牛を引き離す。牛の鼻の穴に特殊な用具で一瞬でロープを通し、鼻を引っ張って牛を鎮める。鼻を引っ張るのが一番効果があるらしい。

    写真28(牛を引き離すときは、後ろ脚にロープをつけて引っ張る、それから鼻輪)

 今日の取り組みは13番ほどでおしまい。4月~10月ぐらいまで毎月開かれているようである。牛の角突きは国指定の重要無形民俗文化財とのこと。牛の角突きは隣の小千谷市でも行われている。

 

****** エピローグ ******

 長岡から乗った帰りの新幹線で、20年間ため込んできた山古志村のイメージと現実の山古志村のイメージを突き合せてみた。越後の国に数百年続く「古志郡」の名を残した最後の地域、「山古志」には何か思い入れがあった。小松倉の民宿で一晩過ごせなかったのが返す返すも残念だった。小松倉で、実際にトンネルを掘った人に会い、当時の話も聞きたかった。

 しかしながら山古志全体として、豪雪対策の家(1Fは雪に埋まるのでコンクリート造り、2F3Fは木造)で統一されており、サイケデリックで景観を壊すような家は見られなかった。山また山が連なる地形にもかかわらず、山腹は小さな田んぼが連なり、水が豊富に供給され、山の中の桃源郷という感じで、ため込んできた山古志村のイメージ通りだった。しかし、こういう景色が続くことを願った方がいいのかどうかは、山古志の人の判断に任せよう。

 最後に、長岡から乗った上越新幹線のトンネル区間が多いことに改めて驚いた。家に帰ってから国土地理院の地図で長岡から高崎までの明かり区間(トンネルでない区間)の距離を測ったら、29.2km。長岡~高崎間は165.6kmなので、トンネル区間率は82%にもなった。


トップページに戻る場合は、下のトップページをクリック