北岳遭難事故

 2019年の夏、3日間の予定で南アルプスの白峰三山に一人で出掛けた。1日目は甲府からバスで広河原に入り、白根御池小屋まで3時間半を登った。

 2日目は小屋を5:30に出て(写真02)、池塘に並ぶテント群を見送り(写真04)、大樺沢の二股→八本歯のコルルートに入った。大樺沢にはまだ雪渓が豊富に残っていた。天気は快晴。右手には北岳バットレスの岩壁がそそり立っている。大樺沢の雪渓(写真06)を越えたあたりで、真新しい橙色のテープをつけたケルンがあり、そこから右手に入る踏み跡が分かれていたので、その道に入った。

   写真02(白根御小屋を出発)

         写真04(白根御池池塘のテント村)

             写真06(大樺沢の雪渓) 

 その道を1時間ほど登ったら北岳バットレスの下で道が消えてしまった。見上げると中段でクライマー4人が岩壁にアタックしていた。しまった、八本歯コルへのルートではなく、北岳バットレスへの道を登ってしまったことに気が付いた。

写真08(登ってきた道はバットレスにぶつかって行き止まり、○印は登攀中のクライマー)

 いまから1時間も下って、また登りなおすのは時間がもったいない。山腹を観察すると、幸い、左手に草が生い茂った斜面が続いている(写真10)。この斜面を進んで八本歯のコルに突き上げる登山道に合流しようと、道なき山腹に突入した。登った標高を損しないよう、現在の高度(2750m)をキープするよう水平に進んだ。最初のうちは雑草の斜面だったが、だんだんとブッシュや灌木が増えてきて、歩きにくくなった。そのような状態で1時間進んでも正規のルートには到達しなかった。

写真10(左手に草の斜面が続いている。道はないがこれをたどれば、八本歯のコルへの登山道に出るはずだ)

 沢を横切らなければならないところも多くなり、涸れ沢は岩屑が崩れやすく、そこを横断するときは落石を起こさないよう慎重さが必要だった。下の方に登山道があるからだ。下の方でヘリの爆音が聞こえるので、見たら、大樺沢の雪渓の上あたりでヘリがホバリングをしていた。誰か事故を起こしたのだろうか(写真12)

    写真12(大樺沢の上でヘリがホバリングしている、遭難事故か?)

 2時間ほど悪戦苦闘しながら斜面をトラバースしたが、まだ八本歯のコルに突き上げる登山道と交わらない。こんなに遠いわけないのだが。地図をしっかり見ようとしたが、胸のポケットに入れておいた地図が見当たらない。なんどもブッシュくぐりで下を向いたので、どこかで落としたらしい。そのうちブッシュに這い松が混ざるようになってきた(写真14)。

        写真14(這い松漕ぎは恐ろしく抵抗が強い)

 這い松の藪漕ぎは恐ろしく抵抗が強い。草や灌木の比ではない。這い松地帯は高度を保持するため水平に進もうと思っても、枝の弾力で押し戻されてしまう。おまけに、涸れ沢を横切った対岸は2mほどの崖が続き登れない。高度を失わないよう上流側に向かって急傾斜で崩れやすい沢を登る。10分ぐらい登ったら、なんとか登れそうなルンゼを見つけたので、そこから登ったら一面の這い松帯の斜面に出た。

 這い松の抵抗が一段と強くなり水平には進めないので、やや下り気味に這い松帯をかき分けて行った。足元は岩の露頭が複雑に突き出していて、えらく歩きにくい。そんななか、這い松の枝を両手でつかんで一歩踏み出したら、登山靴が滑って、完全に斜面と並行になるまで滑り落ちてしまった。幸い、両手で枝をつかんでいたので滑落することはなかったが、幅30cmほどの岩のテラスに足がつく形で止まっていた(写真16)。

 写真16(草が生い茂ってテラスの端は見えないが、巾30cmのテラスで止まった)

 その狭いテラスにザックを置いて周囲を観察した。自分の立っている這い松の斜面は傾斜70度ほど。正面に深さ10mほどの涸れ沢があり、対岸は10mほどの岩壁になっていた。その岩壁は手掛かりは多そうだったが、すでに腕力を使い果たし登れる自信はない。なんとも意地悪く、その涸れ沢の向こう側に八本歯のコルへ行く登山道があるらしく、時折、登山者の声も聞こえる。

 これまでの這い松との格闘で腕の力を使い果たし、70度の崩れやすい斜面を下まで降りる自信がない。いろいろ検討してみたが、あきらめて、警察の山岳レスキューに電話することにした。当方の携帯はガラケーなので、正確な場所を伝えるのが難しいだろうなと悩んだ。

11:20ごろ
 当方から110番に電話。多分、東京の110番センターが出ると思ったので、「南アルプスの北岳で滑落し、斜面の途中で動けなくなっている。ヘリのレスキューをお願いしたい。管轄警察署は山梨県の南アルプス署だ」と伝えた。「直に山梨県警から電話を入れるので待っていてくれ。携帯の電池はあるか」「まだ2/3は残っている」と返事して電話は切れた。

11:25ごろ
 山梨県警の救難ヘリセンターの指令から電話が入った。
・現在の情況は?
・八本歯のコルへの登山道を間違えて、バットレスの下まで行ってしまったので、斜面をトラバースして八本歯のコルへの登山道に向かったが、急な這い松の斜面で滑り落ちて、幅30cmほどのテラスで身動きが取れなくなっている。
・前に深さ10m程の沢があり、その沢まで下りられない。その沢を渡ったところには登山道があるようで、登山者の話し声も聞こえる。
・登山者の声が聞こえるほど近いのなら、その沢を渡って尾根に登れないか。
・すでに3時間もブッシュの中を歩いてきたので、手の力が尽き、傾斜70度ほどの斜面を降りられない。もし下られたとしても、対岸の壁を登れる自信はない。

(登山道の登山者の声が聞こえるということから、登るのに疲れて、どこか適当なところまでヘリで運んでくれという横着な要求ではないかと、疑念を持ったのであろう)
・「警察のヘリでレスキューとなると、どこどこの山まで運んでくれというのは通りませんよ。必ず管轄警察署に行って、事故状況を聞くことになりますがいいですか」と念を押してきた。
・「もちろんそれで結構です」ということで詳しい場所の説明に入った。

・八本歯のコルへのルート上で、高度2750m。高度は自分の持っている高度計で測ったものだ。
あなたのいる場所の上空は?
私の体の周辺は這い松の葉が延びているが、上空10mではヘリがホバリングできるスペースがある。
あなたの体重は?
・55kg
あなたの携帯では位置が正確に分からない。ヘリが近づいたら、どうやって誘導するのか?
白い手ぬぐいを持っているので、それを振る。
携帯の電池残量は? まだ2/3残っている。
・それではヘリを出す。10分ぐらいかかる。

11:35ごろ
・ヘリの爆音が近づいてきたが、当方がいる谷の上に来ない。なんともじれったい。一日千秋の思いとはまさにこのこと。
・パイロットから「遭難者を発見できない」という連絡が指令に入ったのであろう、
・ヘリ指令から「あなたのいる場所は」と聞いてきた。
・「爆音から判断するとヘリは私のいる場所より北岳に近い方を探しているようだ。爆音は聞こえるが機体は見えない。もう一本東側の沢を探してほしい」と伝えた。
・目印を登山ルートで伝えても、ヘリからは登山道が見えない部分が多いのだろう。
・捜索ルートを変更する運動に入ったのか、爆音は遠くに消えていった。

・やがて爆音が轟き、ヘリが見えてきた。このときは本当にうれしかった。
 這い松につかまりながら、手ぬぐいを延ばし、腕を最大限に回して手ぬぐいを振った。
・レスキュー隊員がヘリ胴体の扉を開けてこちらを見下ろしている。場所と情況を観察しているようだ。
 ロープが降りてくるかと期待していたが、何か拡声器で放送すると飛び去ってしまった。爆音がうるさくて内容は聞き取れなかった。

12:17ごろ
・ヘリ指令から携帯に電話が入った。
・ヘリは一旦基地に引き返し、10分ほどでまたそちらに向かう。
 (状況から見てレスキュー資材に不足があったのかもしれない)
・ヘリが再度到着する前に、あなたの周辺の這い松の枝をできるだけ、折っておいてください。
・電池の残量は?

12:33ごろ
・ヘリ指令から、「今、ヘリが現場に向かったので、荷物は背負って待機していてください」と連絡が入った。

何時ごろか時計を見るのを忘れたが、いよいよ救出
・ヘリが頭上まで来てホバリングするとかなり強い風圧だ。
・レスキュー隊員がロープを滑り降りてきた。30cmほどしかないテラスにドンピシャ降り立った。当方の胴体にハーネスをつけ、ハーネスを両手でしっかり握っていてくださいと言う。
・レスキュー隊員が私の体を抱えるようにして、上の隊員がロープを巻き上げるスイッチを入れた。
・体が回転するだろうなと思ったが、回転することもなくスムーズに巻き上げが終わり、ヘリ内の床に滑り込んだ。
 よほど入念にロープのねじれをとってプーリーに巻き付けてあるのだろう。
・ヘリにはパイロットと機関士とレスキュー隊員が2人乗っていた。
・レスキュー隊員の一人が当方の顔写真を撮っていた。もう一人のレスキュー隊員は、当方が首からぶら下げている高度計を指さして、「それは高度計か」と聞いてきた。
・遭難者の手前、あまりきょろきょろ周囲の景色を見るのも不謹慎と思われたので、おとなしくしていた。
 一度だけ後ろを振り返ってみたら、八ヶ岳の大きな裾野が広がっていた。
・ヘリが着陸したのは、山梨県警遭難救助隊のヘリポートだった。小高い山の上にあるようだったが、どの辺になるのだろう。

 当方の歩いたルートとヘリが飛んだルートを図で示すと、おおよそ、図18のようになるのではないか。

                        図18

・あとは所轄の警察署に行って事故調書の作成に入った。本人が委縮しないように最大限の注意を払って、紳士的な扱いだった。
・遭難事故は地元の方々に多大な迷惑をかける。これを最後にしなければ。

・今回の遭難原因は、1にも2にも、這い松をかき分ける抵抗があんなに強いものだと知らなかったことにつきる。
・これまで神奈川県境踏破、横浜市境踏破などで藪漕ぎは何度も経験してきたが、標高が低いので這い松は混ざっていなかった。そのため這い松の怖さを知らなかったことによる過信が全ての原因だ。
・3000m級の山となると這い松を考慮しなければならない。

・山梨県警のレスキュー隊にはなんとお詫びして良いか分からない。

 

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