1969年(昭和44年)5月、大阪で勤務していたころ、職場の若者7人で奄美大島に行くことになった。皆は奄美大島から大東島を回ると言うので、その間、私だけ別行動で、洞窟のある沖永良部島と徳之島を回り、最後の日に奄美大島の名瀬港で合流することにした。今にして思うと、5月といえばお盆休みでもないのに、7人がまとめて9日間も、よく休めたものだ。
写真は残っているが文字化した旅行記録は残っていない。このルポは、アルバムに記載されていた日程表を基に、あやふやな記憶をたどって2019年に作成したものである。
第1日目
大阪から寝台特急で鹿児島に向かった。取れた寝台は上中下いろいろあるが、背の低い奴が上段ということになった。上段は頭が天井につかえ居心地が悪い(写真02)。鹿児島には昼頃着いたと思うが、奄美行きの船は夕方なのでそれまで各自好きなところに行って時間つぶし。もう薄暗くなったころ奄美行きの夜行巡航船に乗った。船室の床で7人で車座になり、話したり・飲んだり・ゲームをして時間を潰した。
写真02 鹿児島行きブルトレ 寝台上段(頭がつかえる)
奄美大島の地図
奄美大島
第2日目
名瀬港に何時ごろ着いたか忘れてしまった。天気は曇り。民宿のある「用」という集落は奄美大島の北端にあり、レンタカー2台に分乗して進む。道は黄色い土がむき出しになったでこぼこ道で、奄美大島は山が多いので自動車道も結構登り下りがある。夕方、「用」の民宿に着いた。
このへんの家はみな、台風よけの石垣で囲まれ(写真04)ている。石垣の隙間にハブがいることもあるので気を付けるよう言われた。庭にはハイビスカスの花(写真05)も咲いていた。名前は何度も聞いたことがあるが実物を見たのは初めてだ。きれいな花だった。夕食までに笠利岬を見に行くことにした。笠利岬は奄美大島北端というだけで、取り立ててみるものもなかった。
写真04 民宿○○ 後ろの石垣にはハブがいるかもしれない
写真05 ハイビスカス
我々一同、若さにあふれいつも腹を空かせているので、夕食は旨かった。夕食後、民宿のおじさんが「これから浜で蛇皮線を聞かせるから」というので浜に行った。浜に行ったら砂の台の上に泡盛がボトルで置いてあり、グラスは湯のみだ。「いくらでも飲んでくれ、リクエストに応じて蛇皮線を弾くので、みんな輪を作って踊ってくれ」という(写真06)。
写真06 砂浜で蛇皮線に合わせて適当に踊る(酒は泡盛)
その近くに、近所のおばあさんが籠を背負って休んでいた。夕暮れで暗くなった浜辺を背景にいい構図(自分では芸術写真と思っている)の写真が撮れた(写真08)。大阪より日の入りが1時間も遅い奄美大島でも、とっぷり日が暮れるまで踊り・歌い・飲んで、民宿に戻った。その日は、二日連続の夜行で疲れていたので、前後不覚で寝た。
写真08 地元のおばあさん(絵になっている)
第3日目
天気はまあまあ。朝飯後、「用」集落の海岸でサンゴ狩り。そのころは観光客も少なかったのだろう、「サンゴを取ったり、折ったりしてはいけません」というような看板はなかった。海岸はびっしりとサンゴで覆われて、その上を海水が20~30cmぐらい覆っている。沖に向かって歩くと、サンゴが「ボキ、ボキ」と折れる音がする。
50~100mぐらい沖に出るとサンゴの林も無くなり、急激に深くなる。その先に何か尖った背びれのようなものが見えた。地元の人が「あれは鮫だから気を付けるよう」注意してくれた。恐ろしいことだ。こんな近くに鮫がいるなんて。したがってサンゴの林から先には行かないようにした。海水も恐ろしいほどきれいだ。まるで水が無いかのようにサンゴやウニやヒトデが見える(写真10:3枚)。この日は薄曇りにもかかわらず、結構、日に焼けた。背中がヒリヒリする。
写真10-1 サンゴの林でかっこの良いサンゴを探す
写真10-2 サンゴとウニとなんだろう
写真10-3 大きなヒトデ(直径30cmぐらい)
民宿の庭にマンゴーの木があって実がたくさんなっているいる。民宿の人が「食べたければ登ってとってもいいよ」というので、仲間の一人がスルスルと登り、実をもいで落としてくれた(写真12)。
写真12 マンゴーの木に登って採る
夕食は奄美鶏飯という、一種のおじや。10種類ぐらいの具を入れて、土鍋でグツグツ煮込んだもの。これが滅法うまくておかわりの連続。これは作り方を聞いてきた、結婚してから、その時の記憶を頼りに作ってみたが、舌が覚えていたような味にならなかった。東京付近で1~2ヶ所、奄美鶏飯という看板を見かけたので入ってみたが、「用」の民宿の味を出すところはなかった。
第4日目
今日は車で大島の南半分を回ることにした。大島の瀬戸内海と言われている、瀬戸内町と加計呂麻島に囲まれた内海を見に行った。ここにはマングローブと呼ばれる海水中に根を張った木々がうっそうと茂っているとのこと。行って見たら、海水に入る前に多数の細い根に分かれて、海中に延びていた。これで木の幹をガッチリ支えられるのだろうか。珍しい形態だ。
明日から当方一人で別行動となるので、皆が乗った車を見送ってから、地元の床屋に入って整髪。当方は一目で観光客と分かるので標準語で対応してくれたが、たまたま入ってきた地元の人同士の会話は全然わからない。まさに外国語を聞いているようだ。昔、薩摩が、忍びが国内に入ってきたら言葉で分かるように、薩摩人同士は必ず薩摩弁で話すように定めていたと言うことを思い出した。ここの言葉は薩摩弁とも違うようだ。
この日の夜は一人で、瀬戸内町の古仁屋港から夜行の巡航船に乗って沖永良部島に向かった。沖永良部の知名までは180kmあり、途中で徳之島にも寄るので、当時は13時間ぐらいかかったと思う。
第5日目
沖永良部島
巡航船で昼過ぎ頃、沖永良部島の知名港についた。知名には巡航船が着岸できる桟橋がないので、沖合で艀(はしけ)に乗り移って上陸する(写真14-1)。知名の港はこんな感じである(写真14-2)。前もって申し込んでおいた近くの国民宿舎に荷を置いて、すぐ目の前の海岸に行ったらウニが一杯いた。裸足では歩けないほどビッシリいた。誰が採っても良いらしい。海で遊んでいる人が皆、ウニをとっていたので当方もウニ採りに参加した。ずいぶん採って、棒でつついて穴をあけ、黄色い実を吸ってみた。塩味が効いていて旨かった。
写真14-1 知名港は艀(はしけ)に乗り移ってから上陸する
写真14-2 知名港の風景
第6日目
朝、宿を出て全部歩きで、昇竜洞→水連洞→田皆崎を回った(沖永良部島の地図参照)。昇竜洞は観光洞なので道ははっきりしている。この穴は500mぐらいで、流水の中を上流から下流に向かって通り抜けるようになっている。水流の中を歩きながら鍾乳石の林の下を潜り(写真16-1)、カーテンの前で記念撮影して(写真16-2)、下流の出口に達する。なかなか面白かった。 なお、沖永良部島にはハブはいないそうである。
写真16-1 昇竜洞 流水につかりながら鍾乳石の林の下を進む
写真16-2 カーテン(薄い鍾乳石)をたたくと金属性の音がする
次は観光洞ではない水連洞を探す。50000の地図では大津勘という集落の近くなので、まず人に聞きながら大津勘を訪ねる。たった一軒あった、よろず屋でカップ麺を買い、お湯をもらって食べる。ついでに水連洞への道も聞き、歩き始めた。道が分からなくなったので、その付近の家で改めて道を聞いた。板の間に3歳ぐらいの可愛い男の子が座っていた(写真18)。この子も今では50歳を越えたろう。
写真18 大津勘集落で見かけた可愛い子
畑の脇を通り、だんだんと山の中へ入ってゆく。やっとかなり大きな洞口が見えた。水が流れ出しているところを見ると、この穴は下流側から入るらしい。洞壁をトラバースしたり、リムストーンをよじ登ったりしながら20分ぐらいで反対側の竪穴洞口(写真20)に出てしまった。
写真20 水連洞の竪穴(出口にも入口にも使える)
水連洞はもっとキレイな洞窟で、プールもあるという事前情報だったので、どこかでルートを間違えたのか。この竪穴の先は薮と灌木地帯に突っ込むような気配なので敬遠して、もと来たルートを戻ることにした。帰りは横に入るルートはないか、入念に調べながら進んだが、別ルートはとうとう発見できなかった。
しかたないので、田皆崎に行くことにしてバス時刻を見たら2時間も待たねばならない。田皆崎まで歩くことにした。日に照らされて暑い道を歩く。道路周辺の農家の屋根はみなこういう形をしている(写真22)。
写真22 沖永良部島の農家の屋根の形
暑い中を歩いて田皆崎に着いた。事前に調べた情報では、「石灰岩の大きな塊を切り出している、中には大理石化したものもある」とのことなので切り出した断面をよく見たが、大理石らしいものは見られなかった。骨折り損のくたびれ儲けで、帰りはバスで知名に帰ってきた。
第7日目
徳之島
沖永良部島から徳之島に巡航船で渡り、亀徳港で上陸。犬田布(いぬたぶ)の方に行くバスに乗り、どこか山の中で下車。あとは歩いて風葬洞(写真24)を参観。穴は間違いなくサンゴ礁が溶けた鍾乳洞だ。昔は西南諸島は風葬だったそうだ。洞内のあちこちに遺骨が散らばっていたのを、現在は、収納棺に集めて葬ったとのこと(写真24)。しかし、今ではwebを当たっても、国土地理院の25000を当たっても、この風葬洞のことは全く出てこない。場所的には徳之島地図の×印のあたりだったと思う。
写真24-1 風葬洞の入り口(後ろの四角い棺に遺骨を集めてある)
写真24-2 棺の中の遺骨
風葬洞を出てから犬田布までバスに乗り、犬田布岬にある戦艦大和の鎮魂碑を見た。「大和が沖縄出撃の途中、この岬の沖合で米艦載機の攻撃を受け、撃沈した。戦死者は二千余名」という碑が建っていた。手を合わせて拝んでから、徳之島の西岸を秋利神めざしてセッセと歩き出した。島だから大した距離ではないだろうと思っていたが、ずいぶん距離があった。秋利神からはバスで平土野(へどの)まで行き、バス停付近の人家で聞いて、宿に入った。部屋の天井にはヤモリが張り付いていた(写真26)。ヤモリは虫を食べるだけで悪さはしないからそのままにしておいた。
宿では、泥染めの反物(大島紬)を土産に買わないかと随分進められた。値段を聞いたらS44年の時点でも万のオーダーだったので、買うのをやめた。
写真26 宿の天井に張り付いているヤモリ
第8日目
平土野を朝でてバスで亀徳へ。亀徳から昼間の巡航船で名瀬に行き、名瀬で仲間と合流。その日の夜の巡航船で鹿児島へ向かったと思う。名瀬で撮ったと思われる仲間との写真を最後に載せる(写真28)。「鹿児島からはまた、夜行の寝台特急で大阪に向かった」と書きたいところだが、アルバムでは「鹿児島→別府→大阪」となっていて、大阪帰着は10日目となっている。なんで別府を回ったのか不明である。
写真28 オールキャスト7名
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