横浜吉田新田

 

 2016年4月、横浜開港資料館の吉田新田企画展を見に行って興味が湧いたので、実際に吉田新田の痕跡を尋ね歩いてみた。吉田新田とは、間口(1.4km)=桜木町駅~石川町駅、奥行(2.1km)=桜木町~南太田に及ぶ大きな入江だったところを、1656年に江戸の材木商であった吉田勘兵衛が幕府の許可を得て埋め立てを開始した新田である。埋め立ての技術面は黒田助兵衛が請け負って工事がはじめられた。

 1650年ごろの横浜の海岸線は、図1で水色の線で示したようになっており、のちに、幕末になって港が開かれた横浜村とは、小さな砂洲の上にあるほんの小さな寒村にすぎなかった。

 当初の吉田新田の埋め立て範囲は現在のJR根岸線までで、そこに埋め立てた土砂が流れ出さないよう丈夫な潮除け堤防を築いた。したがって、塩除け堤防から横浜村と書いた砂嘴までは大きな入海となっていた。横浜村が半島となっていたため、幕末に諸外国との開港通商条約を結ぶにあたっては、外国人居留区を横浜村の半島に押し込め、また、日本人が自由に外国人居留区に入り込まないようにするため、この入り江に橋を架け関所を設けて、厳重に出入りを取り締まった。このため、外国人居留区側を関内と呼ぶようになった。その名残がJR根岸線と横浜市営地下鉄の駅名として残っている。

 1657年梅雨の長雨で潮除け堤防が崩れ、埋め立てた砂が流れ出てしまった。再度の工事に農民は反対したが、吉田勘兵衛の必死の説得により、2回目の埋め立てが再開され、工事面は砂村新左エ門が請け負った。1659年に工事を再開し1667年に完成した大きな干拓農地である。幕末の横浜港開港以降の人口急増に伴う再度の埋め立て地も含めると、現在の横浜市の主要部はほとんどこの中に入っている。

 図1 1650年当時の横浜の海岸線(水色)、横浜村は小さな砂洲の上の寒村に過ぎなかった。

 1656~1667年の工事で、図2の茶色のハッチング部分を埋め立てて吉田新田を造成した。具体的には、現在のJR根岸線付近に潮除け堤防を作り、左下から流れ込む大岡川を南太田付近で大岡川と中村川に分流し、その間を埋め立てて吉田新田を造成した。吉田新田の中央には中川を設け、田畑の灌漑用水とした。潮除け堤防と横浜村の間は遊水地として残した。この形で幕末の横浜開港まで推移した。今でも残る長者町という地名は吉田勘兵衛の屋敷があった所である。

図2 1656~1667年の工事で茶色のハッチング部分が埋め立てられ、吉田新田ができた。

 幕末に横浜村の海側に港を作り、外国との交易が盛んになるにつれて横浜村(関内)の人口も急激に増加したので、1890年ごろ、図3のように遊水地を埋め立てて市街地とした(黒のハッチング部分)。それに合わせて中村川の海への流路を作った(元町・中華街駅付近の中村川)。その後、横浜市の発展に伴い、吉田新田の農地も市街地化され、順次横浜市に編入され、横浜市中枢部を形成するに至った。

        図3 1890年(明治20年)ごろには全部陸地となった。

 吉田新田を尋ねるため、2016年4月に歩いたルートは図4の通りで、①関内から吉田新田の中川を遡り、大岡川と中村川の分流地点を訪ね、②中村川から本牧の海に抜ける掘割川を通って、③江戸時代の郡の名前が残る久良岐公園を抜けて上大岡に至るというものである。

 図4 吉田新田と掘割川・久良岐郡を尋ねるコース

 まず地下鉄関内駅から伊勢佐木長者町まで歩いたら、元中川が流れていた跡は細長い公園道路として整備されていた(写真10)。坂東橋・吉野町を経て、右手に日枝小学校を眺めると、その隣にお三の宮(日枝神社)がある。この神社は吉田新田の水の神様として安置された神社である(写真11)。その狛犬はなかなか迫力のある形相をしている(写真12)

 写真10 元の中川は埋め立てられ、道路公園となっていた

   写真11 灌漑用水の守り神:お三の宮(日枝神社)

         写真12 お三の宮(日枝神社)の狛犬の形相

 ここで上流(上大岡)から流れてきた大岡川は、吉田新田の北側を流れる大岡川と中央を流れる中川と南側を流れる中村川の3本に分流される。その分流点を上流側から眺めると写真13のようになっている。左に流れるのが大岡川で正面に流れるのが中村川である。中川は今では埋められてしまって暗渠になっているが、その水の取り入れ口が小さな水門(黄色矢印)となっている。上を通っているのはその後作られた首都高速道路である。

写真13 左に流れるのが大岡川、直進するのが中村川、黄色矢印が中川の水門

 中村川に沿って下流側に進むと、中村川と海をつなぐ放水路兼海運水路が右手に向かって流れ出ている(写真14)。この放水路(写真15)に沿って磯子方向へ歩いてゆくと、横浜市電保存館の前を通り、八幡橋を経て、海(東京湾)に出る。そこには横浜市民ヨットハーバーがある。

    写真14 中村川から分かれる海への放水路

     写真15 中村川の放水路に沿って海へ

 ここで吉田新田の探索は終わり、江戸時代の地名が残っている久良岐公園を訪ねるコースに入る。磯子駅まではR16(横須賀街道)を歩く。磯子駅の山側には見上げるような山の上に湾曲したマンション群が建っている(写真16)。ここは1960年に建てられた元磯子プリンスホテルで、映画「天国と地獄」のロケにも使われた有名な場所である。

写真16 山の上に建つマンション(元は磯子プリンスホテル)

 山の上まで登るには有料のエレベータに乗る必要がある(写真17)。山上に出ると海の眺めが素晴らしい。しかし今では海上は埋め立てられ、工場群しか見えない(写真18)。山上のエレベータコンコースから出ると目の前に古風な邸宅が建っている(写真19)。これはプリンスホテルができるずっと前(1937年:昭和12年)から建っている。この山の上からの眺めをこよなく愛した東伏見宮の別邸である。プリンスホテル時代は貴賓館として利用されたらしい。

写真17   改札口         エレベータホールまでの通路       エレベータ乗り場

       写真18 山の上からの眺め

        写真19 東伏見の宮家の別邸

 ここから山の上のくねくね曲がった自動車道路を地図を頼りに歩いてゆくと、20分ほどで久良岐公園につく(写真20)。この名前は、この辺は江戸時代は久良岐郡と呼ばれていたことに由来する。どういう因縁か知らないが、ここには横浜市電の1000番代の車両が静態保存されている(写真21)。

         写真20 久良岐公園

写真21 久良岐公園に保存されている横浜市電1000番代車両

 ここから山の反対側に下ると上大岡駅である。しかし、まったく区画整理されていないようで、迷路のような小道を地図を懸命に読んで進む必要がある。地図を見るのが苦手な人にはお勧めできない。

 

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