ヨーロッパの戦跡(ヴェルダン・マジノ)

 ヴェルダン(Verdun)とは、第一次大戦の激戦地の一つで、独仏ともに一歩も引かず戦ったため、10ヶ月で両軍合わせて70万人の戦死傷者を出したという極め付きの戦場だ。「西部戦線異状なし」の舞台となったところである。 日本では日露戦争の203高地で5万人の戦死傷者が出たことで大問題になったのに比べると、西洋人の思考回路は日本人には理解できない。

 マジノ線(Maginot Line)とは、第二次大戦の直前、フランスがドイツの侵攻に備えて建設した、北はルクセンブルク付近から南は地中海近くにまで至る長大な要塞群の総称で、全部で108の要塞があるという。これだけ立派な要塞線を作っても、ドイツ軍が要塞を避けて、アルデンヌの森からフランスに攻め込んだので、無用の長物だったらしい。

 2013年8月、フランスの青年が2日間かけて車で案内してくれたので手作り旅行の範疇には入らないが、こういう歴史を訪ねる旅もあるという意味で取り上げた。

第一日(晴れ)
 パリを9:30ごろ出発し、ストラスブールに行く高速道で北東に向かう。高速といえども道路の両側は有刺鉄線の柵が作ってあるだけだ。日本の高速道の厳重な塀に比べてなんとも頼りないガードだ。危険行為は自己責任という考え方が徹底している のだろう。高速道路にかかる橋が少ないのにも驚いた。10kmで4~5本程度だった。これでよく地元住民から苦情が出ないものだ。フランスの農場はそれほど大きいのだろう。

 12:50頃いよいよ高速道路から降りて一般道をヴェルダンに向かう。13:20頃目的地のヴォクア(Vauquis)に着いた。ここは当時の塹壕が保存状態よく残っているところだ。のどかな小さな村という感じだが、左手の山に登るとヴォクアの本当の姿が現れた。頂上に出たところはフランス側の塹壕だったらしく鉄条網が残されていた(写真06)。谷間をはさんでドイツ側の塹壕も間近に見える。

         写真06 フランス軍塹壕の鉄条網

 両軍の間の谷間になったところに小さな集落があったが、激しい砲撃により吹き飛び、砲弾であいた穴の列が谷間のように見えるのだ。村の建物があった位置と砲弾が落ちた位置を示す図も展示されていた。そうとう大きな砲弾らしく、一つの穴が直径50m・深さ15mぐらいある。その大きさが分かるよう当方が中に立って写真を撮ってもらった(写真10)。

         写真10 砲弾の穴の大きさ(人間と比較)

 この砲撃で出来た谷をはさんで両軍の塹壕線を築いたらしく、すごい至近距離なのに驚いた。ドイツ軍の塹壕に入ってみた。こちらはちゃんとレンガで補強してあり、一過性の塹壕ではない(写真 12)。

        写真12 レンガで固めたドイツ軍の塹壕

 レンガで固めた開削式の塹壕の上にはさびた鉄条網が残っていた。中には完全に地下壕になった部分もあるので、キャップランプをつけて入ってみたが(写真13)、5mぐらいで扉が閉まりそれより奥には入れなかった(写真14)。

          写真13 地下壕に入れるところもある

     写真14 5mほどで扉があり、それより先は入洞できない

 煉瓦で固められた塹壕の先には、ドイツ軍の機関銃砲座が残っていた(写真15)谷向こうはフランス軍の塹壕なので、その至近距離に驚いた。

          写真15 ドイツ軍の機関銃砲座


 14:15にヴォクアを出発して14:50ヴェルダンに着いた。市内は観光客が多かったが日本人はまったく見かけなかった。ヴェルダンの表側(東側)に出ると、ムース川が流れ、橋の正面に城門が残っていた(写真16)。ここがヴェルダンの大手門なのだろう。

             写真16 ヴェルダンの城門

 城壁は既に取り払われていた。ムース川は、ここから北に流れて、オランダとベルギーの境界あたりで海に注ぐ川だ。ヴェルダンの戦いで70万人もの戦死傷者がでたのは、第一次大戦ではタンクや毒ガスが発明され、実際に使用されたので戦死者も多くなったと分析されている。飛行機もこのとき発明され実際に使われたが、まだ複葉機でふらふら飛ぶ程度だったので、主として偵察用だったらしい。城門近くの小高い丘の上にはヴェルダンの戦いの戦没者の大きな慰霊碑が建っていた(写真18)。それによるとフランス軍として植民地の住民も動員されたようだ。

           写真18 ヴェルダン市内にある慰霊碑

 ヴェルダンの戦いでは、お互いに塹壕を掘り、一斉砲撃のあと、突撃を繰り返して一進一退の戦となったので、大局的に見ると戦線が膠着し、ドイツの参謀本部の戦況記録では、「本日、西部戦線異状なし」と一行で片付けられていたが、実際には、毎日何千人もの戦死傷者が出ていたということを訴えているのが「西部戦線異状なし」という作品のテーマである。

 今日泊まるホテルは木造5階建てで、装飾のモチーフは鶏だった。床は鶏の模様をあしらった赤い絨毯が一面に敷き詰められ、階段の途中には鶏の形をした陶器の飾り物がおいてあった。鶏がフランスの国鳥だからだろう。5階建てなのでエレベータもついているが、網戸の扉を開けて乗る方式の骨董品的価値がある代物だった。ホテルに荷物を置いてから、ヴェルダンの主戦場を見学 に行った。
 ムース川を渡り、丘を登ってゆくと、まずヴェルダン戦史博物館があり、建物の前に当時の大砲や砲弾が展示してあった。第一次世界大戦当時の砲弾とはいえ、その大きさに驚いた。長さは当方の背丈より高く、太さも当方の胴回りより太い(写真19)。ヴェルダンに来る前にヴォクワで見た大きな砲弾の穴も頷ける。大砲は第一次大戦で完成の域に達していたようだ。

          写真19 第一次大戦当時の砲弾

 更に車で進むと戦死者の広大な墓地があり、無数の十字架が並んでいた。その前に高い塔をもった慰霊館が建っていた。慰霊館内部の壁には戦死者の名前と召集年月日と戦死年月日を書いた陶板がびっしりと貼られていた。詳細に見ると、召集されてから4ヶ月ぐらいで戦死している人もかなり見受けられた。心にシュンとなるものを感じた。
 その慰霊館の中央付近に高い塔に登る階段があり、入場料5ユーロを払って6階建てぐらいの高さまで登る。最上階から戦死者の墓地を見下ろすと、緑の芝生の上に、白い十字架が果てしなく続いている(写真20)。

          写真20 ヴェルダンの戦死者の墓標

    写真21 戦死者の墓地(フランスの知人が送ってくれた航空写真:パリからセスナで往復)


 次に一番の激戦となったドーモン要塞に向かう。高さ10mほどの山の側面に、黒く変色した要塞のコンクリート壁が出ており、あちこちに開いた穴から大砲が外を狙っている(写真22)。

             写真22 ドーモン要塞の壁

 要塞の主要施設は地下化されている。入場料10ユーロを払って中に入る。切符を切っている係員に「日本人は来ているか」と聞いてみたら、来場者の記録台帳のようなものを開いて、「今月は日本人は見当たらない」と言っていた。やはり日本人でここを訪れる人は少ないようだ。

 要塞の主構造は東西に伸び、地下3階建てにな っている。東西に伸びるメイン通路(写真24)を東に向かい、次に西に向かって各施設が見学できるようになっている。

          写真24 ドーモン要塞内の主要通路

 外に向けて開いた小さな穴はすべて大砲が設置されているか観測用の窓になっていた。要塞の頂上にある大きな旋回砲塔を動かす機械設備も見られるようになっている(写真26)。かなり大仕掛けな装置で、砲塔を上下する装置、砲を回転させる装置、砲弾を運び上げる装置、打ち終わった後の空薬きょうを取り下ろす装置など、必要なものはみな揃っていたが、いかにも時代物という感じの機械だった。

            写真26 主砲塔を動かす装置

 地下構造物のコンクリート天井からコンクリートを溶かした小さな鍾乳石がストローのように垂れ下がっている(写真 28)。この写真はトイレではないだろうか。

          写真28 要塞のセメントを溶かした鍾乳石

 当然のことながら、地下2階3階には、兵士の休養室、食堂、病院、発電室等も並んでいる。ここが指令室だというところもあったが、机と通信施設が並んでいるだけだった。
 ドーモン要塞はドイツ軍によって地面の形が変わるまで徹底的に砲撃されたが(写真30)、フランス側が要塞の中に立てこもり激しく抵抗したとのこと。一度はドイツ軍に内部まで占領されたが、最終的にはまたフランス側が取り戻したようだ。この写真で見ると、ドーモン要塞は五角形をしている。フランスの要塞が五角形をしているというのは、五稜郭を思いださせる。五稜郭建設を指導した幕府側の軍事顧問団もフランスから来てい たはずだ。

 写真30 砲撃を受ける前(上)と砲撃を受けた後(下)

 見学を終わり出口に出てきたらパンフレット類が並んでいたが、フランス語・ドイツ語・英語のパンフレットだけだった。絵葉書などの単価が高いような気がしたが、ノルマンディーほど商業的でなく好感が持てた。ヴェルダンを見に来る人もみな真面目に戦跡を訪ねる旅のようだ。ドーモン要塞の上に登ったらメインの砲塔が残っていた(写真32)。この鉄板の厚さでは薄すぎるので、これは史跡用に復元したものだろう。

            写真32 主砲塔の地上部

 砲撃するときは、直径4~5mの鉄製の砲塔が地面からせり上がり、砲口を覗かせて砲撃する方式となっていた。ドーモン要塞の屋根の上は土をかぶせ緑で偽装し、ところどころに砲塔が頭を見せている(写真34)。 その砲塔を固めている壁の側面には不気味な銃眼も見える(写真36)。

        写真34 草で覆われたドーモン要塞の屋根上

       写真36 砲塔側面の壁から覗く不気味な銃眼

 

写真37 ドーモン要塞の航空写真(フランスの知人より):砲撃を受けて要塞の屋根がでこぼこになっている。

     要塞の周りを囲む空堀を歩いて一周したら、空堀の中にも銃眼が設置されていた。

 

        写真38 ボー要塞の航空写真(フランスの知人より) 

        この要塞も屋根上に旋回砲塔があり、砲塔の鉄の厚さは15cmぐらいだった。

 

(補遺)ドイツのユダヤ人狩りについて次のような解釈もある。

 この戦闘を含め第一次大戦では、それまでの戦争に比べ戦死者数が桁違いに増えた。第一次世界大戦は、連合国軍がドイツ本土に侵攻する前にドイツが降伏したため、ドイツ国内は戦火でひどい目に遭っていない。当時、バイエルン地方の一伍長に過ぎなかったヒトラーは次のように考えた。

「この戦争に負けたのは、死傷者があまりにも多く、前線に兵を送ると国内の生産要員が足りず、武器弾薬や食料を送ることができなくなったため戦に負けたのだ。次の戦争では、ドイツ国内はもとより、占領地域からもユダヤ人を根こそぎドイツに移住させ、生産はユダヤ人にやらせ、戦争はドイツ人がやる」という戦略を立てた。このため、強制的にドイツに連れてきたユダヤ人を、働ける者と働けない者に分け、働けない者(老人・子供)に無駄飯を食わせるわけにはいかないと、すぐにアウシュビッツに送った。まだ働けそうな者は工場に送り、経営者に「使えるかどうか」のリストを提出させた。ここにシンドラーのリストのような美談の発生する余地があった。

 

第二日目(晴れ・ときどき曇り)
 7時ごろ目がさめたので一人でシタデル(ヴェルダン市内の要塞)を探す散歩に出かけた。HPに出ていたシタデルの写真をデジカメに収めてきたので、それを通行人に見せながら、「これはどこにあるか」と聞きながら進む。地元の人でもほとんど知らないらしく、同じ地域を行ったり来たりした。その途中で、偶然、馬が引くゴミ収集車が通っていった。自動車のごみ収集車も走っていたので、エコ意識高揚のための、宣伝用ゴミ収集馬車なのだろうが面白い趣向だ(写真42)。

           写真42 馬が引くごみ収集車

 最後は出勤途上と思われるビジネスマンに聞いた。この人はさすがジェントルマンだけあって、「これはシタデルという。この道を真っ直ぐ進んだところにある」と、しっかり教えてくれた。その道をずいぶん歩いたら、ようやく「シタデルへ 100m」という看板が見えた。小躍りしながら走ってゆくと右側の台地の下部に写真の形状と同じア ーチ型の門が見えた(写真44)。

            写真44 シタデルへの入口
 写真から想像した大きさより、ずっと小ぶりなものだった。どうやらこの門の役目は、外部から市内の要塞に入る人間用の門らしい。この付近でも戦があったのか、大砲などが展示され旗も掲揚されていた。

 10:00いよいよマジノ(maginot)線の要塞に向けて出発した。高速を降りて、とある田舎町で昼食。家並みは木枠が白壁から浮き出したドイツ風の民家が続く(写真46)。この辺は戦争のたびに、ドイツに編入されたり・フランスに編入されたりしたアルザスロレーヌ地方なので、両方の文化が混ざっているのだろう。

          写真46 ドイツ風の民家が続く

 食事のとき案内のフランス青年が他の客にマジノ線の要塞に行く道を聞いていた。「道が分かりにくいので、自分の車について来い」と案内してくれることになった。コースはかなり右に左に曲がっていた。最後は、「ここが入り口だ」というジェスチャーをして走り去っていった。その入り口から、いくつか曲折はあったが、一本道でマジノ線の要塞群のひとつであるショーネンボルグ(Schoenenbourg)要塞に着いた。森の中にニョッキリとコンクリートの塊が顔を覗かせていた。いかにも無骨な様相だ(写真 48)。

           写真48 マジノ要塞の入り口

 第二次大戦なら飛行機や戦車を使った機動戦の時代に突入していたのに、なんでこんな動けない要塞を大金をかけて作ったのだろう。大金をかけてマジノ線を作ったため、第二次大戦中、フランスは軍事費が足りず、戦車も飛行機も不足していたそうだ。この計画を推し進めたmaginot将軍のセンスのなさにあきれつつ見学を開始した。

 入場料10ユーロを払って、入り口で「見学に要する時間は?」と聞いたら、「おおよそ2時間」とのこと。半そでのシャツで入ろうとしたら「内部は 13℃なので、それでは途中で寒くなる、これをもって行け」と長袖のジャンパーを貸してくれた。結果論から言えばこのジャンパーは使うことはなかったので、邪魔なだけだった。東洋から来たおじいさんに気を使ってくれたのかもしれない。
 内部は巨大な地下都市という感じだった。ショーネンボルグ要塞の規模は入り口から6kmほど伸びた地下回廊の端に砲塔が6個ほど設置されているという変わったものだった(写真 50)。

         写真50 ショーネンボルグ要塞の平面図

 なぜこのような形にしたかは不明。もっとも、説明パネルを丹念に読めばどこかに書いてあったのかも知れない。深さは地下6階で、コンクリートで固められた回廊には電気動力のトロッコが走っている。入るとすぐ鉄製の分厚い扉がある。敵兵が要塞まで雪崩れ込んでくる事態になったときは、ここが第一の関門(写真52)である。扉の脇には必ず、扉の外を狙える位置に銃眼が開いている。ここはそれを更に徹底して、扉の前に迫った敵兵を後ろから銃撃できるように配置してあった。

         写真52 マジノ要塞入り口部の扉


 それを過ぎると砲弾運搬用のリフト(荷物用エレベータ)を中心にして、その周りに螺旋階段がついている。目を廻しながら螺旋階段を地下6階まで下り、水平回廊の入り口付近に設置された厳重な鉄扉を開けて水平回廊に入った。
 この地下6階の入り口付近の構造は複雑で、どこをどう歩いたか分からないが、厨房所、食堂、休養室、シャワー室、トイレ、発電所、ディーゼル発電機室、憲兵室、郵便局、手術室、病室、礼拝室などが次々と現れた。当時(第二次大戦)の砲弾も展示されていたが、ヴェルダンの博物館前に展示されていた砲弾と大差なかった。次に長い長い水平回廊に入る。回廊の途中にトロッコや機関車が展示されていたが鉱山で使っている機関車とそっくりだった(写真56)。

        写真56 マジノ要塞内のトロッコ用機関車

 ながーい回廊を 15 分ほど歩いた先で見学コー スは終わりだったので、6km先の6個の砲塔までは行っていないはずだ。それでも2時間ぐらいかかった。出口近くなってから主砲塔を動かす装置の実物(写真58)を見ることができた。

          写真58 主砲塔を動かす装置
 総じて、マジノ線の要塞はヴェルダンの要塞群よりずっと規模は大きいが、設計思想は大差ないという感じだった。

 マジノ線の要塞を出てから、近くにあるフランスとドイツの国境を見に行った。今は、ユーロ圏内は国境のチェックなしに自由に通過できるので、どうなっているか興味があったからだ。国境は、道路わきに「ここからドイツ領」という立て札が建っているだけで(写真60)、車も人も自由に通行していた。島国の日本人から見ると、国境のイメージがぜんぜん違う。

       写真 60 ドイツとの国境(看板が建っているだけ)


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