鉄道唱歌考

鉄道唱歌考 (2019年2月作成)

 若かりし頃、乗り鉄だったので趣味が嵩じて鉄道唱歌を全部(新橋~神戸)覚えてしまった。七五調でリズムがよく、沿線の名所旧跡や歴史が歌い込まれ、全体が一つの物語のようになっている。この話が出たら次の話はあれだという具合に覚えてゆくと、丸暗記もそんなに苦にならない。

 鉄道唱歌は、作詞は大和田建樹、作曲は多梅若(おおのうめわか)で、最初に発行された時は「地理教育鉄道唱歌」として明治33年5月に発行された(岩波文庫日本唱歌集より)。東海道線の全通は明治22年7月なので、開通記念として作られたということでもないらしい。

 今まで、鉄道唱歌の歌詞に疑問を持つこなく歌ってきたが、退職して暇ができたら、「なんでこんな順番になっているのだろう」とか「この歌詞の意味は何だろう」と疑問が出てきた。それらを鉄道唱歌考としてまとめてみた。

最初は疑問点ではなく鉄道唱歌の構成から見ていこう。

1.寄り道
 鉄道唱歌は東海道線に乗っているだけでなく、途中であちこちに寄り道している。東海道五十三次を歩いて旅したころは滅多に旅に出る機会はないので、沿道の名所旧跡(伊勢神宮など)に寄りながら旅した雰囲気が残っている。

 具体的には、6番:大船から横須賀線に入り、鎌倉を見物して横須賀に寄り道している。軍港があったので海軍の顔を立てたのであろう。次の寄り道は、20番:清水から三保の松原に立ち寄っている。26番:天竜川ではその水源の諏訪湖の御神渡りを紹介し、30番:豊橋では豊川稲荷に、35番:大垣では養老の滝に立ち寄っている。39~44番:琵琶湖南岸を走るところでは近江八景を歌い込んでおり、61番:大阪から神戸に行く途中では神崎(尼崎)からわざわざ有馬温泉にも湯あみに立ち寄っている。

6番:鎌倉

   横須賀行きは乗り換えと  呼ばれておるる大船の つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や訪ね見ん

10番:横須賀
   汽車より逗子を眺めつつ
  はや横須賀に着きにけ
  見よやドックに集まりし
  わが軍艦の壮大を

20番:三保の松原
  三保の松原田子の浦
  逆さに映る富士の嶺を
  波に眺むる舟人は
  夏も冬とや思うらん

26番:諏訪湖の御神渡り
  この水上にありと聞く
  諏訪の湖水の冬景色
  雪と氷のかけはしを
  わたるは神か里人か

30番:豊川稲荷
  豊橋降りて乗る汽車は
  これぞ豊川稲荷道
  東海道にてすぐれたる
  海の眺めは蒲郡    

35番:養老の滝
  父やしないし養老の
  滝は今なお大垣を
  三里へだてて流れたり
  孝子の名誉ともろともに

39~44番:近江八景
  勢多(瀬田)夕照 [せた の せきしょう]:瀬田の唐橋→瀬田の長橋横に見て
  石山秋月 [いしやま の しゅうげつ]:石山寺→行けば石山観世音
  粟津晴嵐 [あわづ の せいらん]:粟津原→粟津の松にこととえば
  矢橋帰帆 [やばせ の きはん]:矢橋→矢走に帰る船の帆も
  三井晩鐘 [みい の ばんしょう]:三井寺(園城寺)→たえまに響く三井の鐘
  唐崎夜雨 [からさき の やう]:唐崎神社→夕暮れ寒き唐崎の松には雨のかかるらん
  堅田落雁 [かたた の らくがん]:浮御堂→堅田におつる雁がねの
  比良暮雪 [ひら の ぼせつ]:比良山系→比良の高嶺は雪ならで

61番:有馬温泉
  神崎よりは乗り換えて
  湯あみにのぼる有馬山
  池田伊丹と名にききし
  酒の産地も通るなり


2.歴史のあるところを詳しく紹介している。
 沿線各市町村を紹介しながら進んでゆくが、歴史のある所ほど歌詞も長い。東京は3.5番、横浜は1番、鎌倉は3.5番、名古屋は0.5番、京都は8番、大阪は4番、神戸も4番を使って紹介している。特に京都は歴史が長いので8番もある。鉄道唱歌を歌うだけで京都の観光巡りをした気分になる


3.キロ程と番数の関係
 開通当時の東海道線は御殿場線経由だったので、国府津~沼津は御殿場線経由の距離にして、各駅までの東京からの距離を求め、各駅の始まり番数との関係を調べると次の通りである。キロ程と歌詞番数の相関係数は0.992とほぼ1(正比例)に近いので、歌詞数は距離に比例して作ったと考えられる。御殿場線経由の方が11km長くなる。

     キロ程 歌詞番
 東京    0.0    1
 横浜   28.8   5
 静岡   191.2   21

 名古屋 377.0  34
 京都  524.6  46
 大阪  567.4  56
 神戸  600.5  62
 相関係数 R=0.992


4.鉄道唱歌になんで三島が出てくるの
 旧東海道線は御殿場線経由だったので三島を通っていないはずなのに、御殿場→三島→沼津の順で歌われている。

  ここぞ御殿場夏ならば
  我も登山を試みん
  高さは一万数千尺
  十三州もただ一目

  三島は近年開けたる
  豆相線路の分かれ道
  駅にはこの地の名を得たる
  官幣大社の宮居あり

  沼津の海に聞こえたる
  里は牛臥我入道
  春は花咲く桃の頃
  夏は涼しき海のそば

 鉄道唱歌で歌われている三島駅は、現在の御殿場線の下戸狩である。旧東海道線では、この下戸狩が三島駅だった。地図で見ると現在の三島駅と下戸狩は1.5kmぐらいしか離れていない。豆相鉄道(現在の駿豆鉄道)もこの駅から分岐していた。丹那トンネルが開通し、東海道線が国府津→小田原→熱海→(現在の)三島→沼津のルートに変わったときに下戸狩と改称された。
 蛇足ながら、現在三島から出ている鉄道は「駿豆鉄道」と呼んでいるが、当時は「豆相鉄道」という名前であったことから考えると、三島~小田原~国府津をつなぐ目的で作った鉄道なのかもしれない。

 図02は、昔の地図と現在の地図を左右に対比して表示し、地図の上でカーソルを移動すれば、新旧両方の地図の同一地点をカーソルが動いてゆくという優れものである。地図は国土地理院が提供し、各団体がそれぞれ個性のある地図群を提供しているので、一度使って見る価値がある。面白くてあっという間に時間が経過してしまう。左側の地図が東海道線が御殿場線を走っていた時代の地図で、赤枠で囲んだ駅が「みしま」駅である。丹那トンネルが開通し、東海道線に三島駅が移った後は、御殿場線の「下戸狩」駅になって現在も存続している。

     図02 現在の御殿場線と東海道線の位置関係(下戸狩と三島はすぐ近くである)

 

  御殿場の歌詞では、富士山に登ると十三州(昔の国名で13ヶ国)も見えると歌っている。伊能忠敬の実測日本地図ができる前に、富士見十三州輿地全図という版画版の地図(横1.4m、縦1.2m)が江戸で発行されている。その十三州はどこかも考察しておこう。

 実測によらず、絵図をつなぎ合わせただけにしては、海岸線の形などは現在の地図と比べてもそん色ないほどのできである。この地図には各地の村名がびっしり書き込まれており、作者の情報収集力と編集能力の高さに驚く。

 江戸時代の話なので、各地の信仰登山で有名な山が見えるかどうかで判断するのが妥当だろう。その山が富士山頂から見えるかどうかは国土地理院地形図1/25000の機能の一つ「地形断面を描画する機能」で確かめてゆくことにする。

 甲斐(金峰山)、駿河(愛鷹山)、伊豆(大瀬崎)、遠江(御前崎)

 相模(大山)、武蔵(大岳山or御岳山or江戸市街)、安房(洲崎)、上総(富津岬)、下総(犬吠埼)

 上野(赤城山)、下野(男体山)、常陸(筑波山)

 信濃(御嶽山)、越中(立山?)

 立山から富士山は十分見えるが、富士山から見た立山は手前に北アルプスの稜線があるので、頂上付近の小さな山容しか見えず、立派な望遠鏡もなかった江戸時代にあれが立山だと認識できたかどうか疑わしい。従って、富士山から見える範囲は、越中を除いた十三州ということになる。

 


5.川崎の歌詞に「電気の道すぐに」があるのはどうしてか。

  梅に名をえし大森を
  すぐれば早も川崎の
  大師河原は程ちかし
  急げや電気の道すぐに

 明治29年当時川崎大師への参詣客が多いことから、川崎から大師までの電気鉄道の建設が検討されていた。明治32年に大師電気鉄道会社が設立され、翌33年1月には開通した。鉄道唱歌の初版本が発行されたのは明治33年5月なので、まだ建設中に歌詞が作られたと考えれば、「電気の道すぐに」は大師電気鉄道をさすと思われる。(川崎市より)
 ただしこのときは川崎から大師までの参詣客を輸送していた人力車夫組合の反対で、六郷橋始発の路線だったそうである。 なお、この大師電気鉄道が京浜急行の母体である。

      写真04 川崎大師駅のホームにある古レールの柱(1928年製)

 

6.鎌倉の大仏と星月夜は関係があるのか

  北は円覚建長寺
  南は大仏星月夜
  片瀬腰越江の島も
  ただ半日の道ぞかし

 大仏の南に鎌倉十井の一つとして有名な星月ノ井と呼ばれる井戸があり、鎌倉を読む歌の枕詞に「星月夜」が使われていたことから「大仏星月夜」になったと思われる。(鎌倉市より)

   写真05 極楽寺坂入口にある「星月の井戸」

 まあ作詞者はいろいろな言葉を考えただろうが、七五調でまとめるにはこの字数が好都合だったのだろう。

 星月ノ井は極楽寺坂切通しの鎌倉側出口付近にあり、Wikipediaによると新田義貞の鎌倉攻めのとき、極楽寺口で義貞軍が手痛い反撃を受けて敗退し、改めて稲村ケ崎から干潮のときに攻め入ったとのこと。

 

7.宇津ノ谷峠の「山きりぬきし洞の道」とは何か
 
  駿州一の大都会
  静岡いでて阿倍川を
  渡ればここぞ宇津ノ谷の
  山きりぬきし洞の道

 「山きりぬきし洞の道」という文句が気にかかる。宇津ノ谷峠は江戸時代の東海道にある峠道であるが、鉄道はもっと海側を通っているので、鉄道のトンネルでないことは明らかである。しかし江戸時代の峠道にトンネルがあったとも思えない。とするとこのトンネルはなんだろう。

 

         図08 宇津ノ谷峠の峠道と各時代のトンネル

 

 宇津ノ谷峠(図08)には、①平安時代からの官道(蔦の細道)、②秀吉が小田原征伐のとき開いたと伝わる旧東海道の宇津ノ谷峠道、③明治になってから旧東海道の交通量も大きく増えたので、峠道を頂上まで登ることなく、トンネルで通過できるようにした明治時代のトンネル③があることが分かった。このトンネルは地元の村長が音頭を取って開鑿したもので日本最初の有料トンネルとのこと。そのトンネルの開通時期は鉄道唱歌より早いので、鉄道唱歌に歌い込まれていてもおかしくはないと思われる。(静岡市より)

 現在の国土地理院地図25000分の1で見ると(図08)、宇津ノ谷峠には、明治、大正、昭和、平成の4本のトンネルがあるのも面白い。そのトンネルを静岡市側から眺めると(写真09)のように見える。

 

           写真09 明治・大正・昭和・平成の各トンネルの様相

 

            写真10:江戸時代以前の道(①蔦の細道)

      写真11:小田原征伐の際、秀吉が改修したと伝わる②宇津ノ谷峠道

 小田原征伐では豊臣方の軍勢21万で小田原を包囲したので、その軍勢用の食料・武器・弾薬の輸送量も莫大な量に達したので、蔦の細道のような険路では間に合わなかったのであろう。

 

写真12:宇津ノ谷宿(築100年以上の木造の旅籠が連なり、往時をしのばせている)

 

   写真13(明治の宇津ノ谷トンネル南口:図08で太く塗った赤線)

       写真14 明治の宇津ノ谷トンネルの取付道路の錦絵

左:トンネルの前後も人力車や荷車が通れるよう道路を拡幅した、 右:人力車と茶屋

 明治10年に開通した宇津ノ谷峠の道路トンネルは、順調に利用者数が増加していたが、明治22年に鉄道が開通すると、利用者数が10分の1に激減してしまった。

 

8.東海道線からは見えない伏見稲荷の赤い大鳥居が出てくるのは

  45番 大石良雄が山科の その隠れ家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山

 大津から京都までのルートは山が連続し、当時の技術では長いトンネルを掘れなかったので、大津から南下し、600mほどの初代逢坂山トンネルで山科盆地に抜け、伏見稲荷の南を回って、現在の奈良線の「稲荷駅」を通り、北上して京都駅に達していた。このため、現在の東海道線からは見えない「赤き鳥居」が歌い込まれている(図15)。

 なお、現在の複線化された東海道線のルート(新逢坂山トンネル+東山トンネル=4.14km)になったのは、1921年(大正10年)である。この図を見ると、当時の鉄道線路の跡地が名神高速道路用地として使われているのが分かる。

   図15 東海道線建設当初は、大津から京都は大きく南に迂回して京都に達していた。


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