干支の駅名の年賀状

 若かりし頃、その年の干支にちなんだ駅名を刷り込んで年賀状を出したら面白かろうと思いつき、S48年の牛年から始めた。駅名を探すのは国鉄線だけに限ったが、時刻表の線路図をたどって探すのが大変だった。牛のつく駅は20もあったので、印刷屋にたのんで印刷した(写真02)。印刷屋も年賀状の文言を入れなくていいですかと首をかしげていた。今ならワープロで簡単に自製できるのだが。

 写真02 牛のつく駅名(S48)

 年賀状を送った人からは、「これは面白い。読み方がわからない駅が多いので、読み方も書いてくれるとありがたい」との感想が多かったので、翌年は読み方もつけることにした。翌S49は虎年なので、線路図をたどってみたが3つしか見つからない。これなら版画で刷っても大丈夫だ。高校生のころ使った彫刻刀を引っ張り出して、年末に一生懸命彫った(写真04)。

     写真04 虎のつく駅名(S49)

 よみ仮名を苦労して彫ったが、刷るときに絵の具をつけすぎると仮名の内部が絵の具で埋まってしまい、ちゃんと読めるのは半分ぐらいしかなかった。素人の彫刻では無理かもしれないとあきらめ、翌年からはまた、読み仮名なしにした。
 年賀状を送った大学時代の鉄道研究部の仲間から、中央西線の古虎渓(ここけい)駅が抜けていると指摘されてしまった。眠い目をこすりながら線路図をたどったのが悪かったか。

 S50の兎年はいくら線路図をたどっても兎のつく駅名がない。たった2年でこの企ては破産かと慌てた。職場の仲間に兎を見つけたら1駅につき1000円の賞金を出すと呼びかけたら、やはり物好きがいて、「卯年で探せばありますよ」と、四国の卯之町と北海道の卯原内(うばらない)を探してくれた。今では卯原内駅は無くなってしまった。賞金2000円を払って、早速版画を彫り始めた(写真06)。

 写真06 卯のつく駅名(S50)

 こんな調子で、龍(辰)・蛇(巳)・馬(午)を版画で彫って進めたが、S54年の羊(未)で困ってしまった。いくら探しても羊(未)のつく駅名がない。やけっぱちで中国の鉄路時刻表を覗いてみたら、羊の駅名はすぐ見つかった。やはり中国では羊は日々の生活でも関係が深いのであろう。
 面白いのは「581公里(581キロ)」という不精な駅名もあった。多分沙漠を貫く鉄道で、現在は町などないから地名もない。そこで線路のキロ程を使って仮の駅名にしたのであろう。そのうち、人が住み・地名ができれば、それが駅名になるのだろう。

 さて駅名がないとすると、年賀状にどう表すかが問題だ。苦し紛れに、羊の図案の中に「駅名なし」という注釈を加えた版画を彫った(写真08)。これが予想に反して好評で、駅名に関する蘊蓄(うんちく)をあちこちで話すことになった。

写真08 羊の駅名の表し方(S54)

 S55の猿(申)年は(天北線の猿払、磐越西線の猿和田、中央本線の猿橋、総武本線の猿田)と4つだったので版画を彫った。S56の鶏(酉)年は、三陸海岸の磯鶏(宮古の隣で無人駅)しかなかったので、この年も版画にした(写真10)。S57の犬(戌)年はたくさんあると思ったが、意外や意外、3駅しかなかったのでこの年も版画。S58の猪(亥)年は高山線で富山県に入ってすぐにある、猪谷駅しかなかったので版画にした。この駅から猪谷線が分かれて神岡鉱山に通じている。

 写真10 酉年の駅名(S56)

 S59の鼠(子)年は(羽越本線の鼠ヶ関、宗谷本線の音威子府、天北線の上音威子府、池北線の訓子府、池北線の西訓子府)の5駅あったので印刷にした。しかし、北海道の駅名に「子」が入っていても、アイヌ語の発音に漢字の音を当てはめただけなので干支の意味はない。

 S60の丑年となると干支も一回りしてしまう。12年前と同じことを繰り返しても芸がないので、現地の駅に行って、その駅のスタンプを押すことにした。虎のつく駅は3つほどあるが、一番行きやすい虎姫(北陸本線で米原の近く)に行って、250枚の年賀状に駅のスタンプを押した。長時間かかるので駅員が「何をしているのですか」と聞きに来た。「かくかくしかじか」と話したら喜んでいた。ここは織田信長が浅井長政の小谷城を攻めて自害させた有名な戦の現地なので、駅のスタンプにもそれが彫られていた(写真12)。

写真12 虎年の駅名のスタンプ(北陸線の虎姫)

 S62はまた卯年である。卯原内のある湧網線はS62.3の廃止なので、S61年末にスタンプを押しに行くときはまだ駅は存在したが、無人駅なのでスタンプは置いてない。もう一つの駅は四国・愛媛県なのでこれも遠い。結局、「卯」という大きなスタンプを買ってきて、これを押してお茶を濁した。手抜きも甚だしい。

 それから次の卯年までの主な駅の現地駅スタンプだけを紹介しよう(写真14)。遠くの駅だと現地で泊まらなければならないので、スタンプ押しが年末の一仕事になった。

 

 卯之町は歴史が古く、幕末の高野長英が追手を逃れて潜伏していたところでもあるらしい。日本で一番古い小学校の建物も残っていて、街並みもそれにふさわしい。ここは現地で一泊したので、夜、近くの飲み屋に出掛け「これこれしかじかで来た。こんど来たらまた寄るよ」と言ったら、おかみが「12年後までこの店が続いているかどうか分からないわよ」と言っていた。

 

 現地駅のスタンプを使う方式は、無人駅の場合はスタンプがないので、どうも具合が悪い。このころにはデジカメ写真で年賀状を作るのが当たり前になってきた。それなら、駅舎の写真を使えば干支の駅が無人駅でも大丈夫だ。
 H14の午年のときからデジカメ写真を使うことにした。無人駅の筑肥線の駒鳴駅(こまなき)に行き、駅名標を入れて写真を撮り、自宅のパソコンで作成した(写真16)。 

写真16 筑肥線:駒鳴駅(H14)

 

 そのうち干支の駅名にも飽きてきたので、何か変わった趣向の駅を題材に取り上げるようになった。まず最初は駅にしめ縄がかかっているので有名な出雲横田駅を取り上げた。現地についてみたら駅ではなく神社の拝殿という感じだった。これも面白い。それで作った年賀状は写真18のとおりである。

写真18 木次線:出雲横田駅(正面の引き戸が駅への入り口)

 このときの取材旅行はなんとも不思議な旅だった。その様子は、このHPの旅行編→「馬籠・木次線・帝釈峡」に載っているので、興味のある方は見ていただきたい。

 

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