2006年9月、中国国内では一番高いと言われている、四川省西部の大雪山脈にあるミニヤコンカ山7556m(中国名:貢嗄山)を眺める旅に出かけた。費用を安くするため中国の現地募集バスツアー(海螺溝氷河ツアー:2泊3日)を利用することにした。
ミニヤコンカは1982年5月に登山家の松田宏也氏が雪崩で遭難し、19日後に独力でベースキャンプまで下山したことで有名な山だ。そこで地元民に発見され、麓の病院まで搬送され、奇跡的に一命をとりとめた。今では松田さんを搬送した道が「松田宏也小路」としてハイキングコースになっている。
第1日目(晴) 成都→濾定→磨西
7:50にバスツアーのガイドがホテルのフロントまで迎えに来てくれた。大きなザックをホテルに預け、ケイビングザック一つを背負って出かけた。氷河ツアーの費用は、3星クラスホテルの個室使用で670元(10050円)だった。
ホテル前に止まっているマイクロバスに乗った。もう他の客はすべて乗っているようだった。後ろの方の空いている席に座り、隣の人に「日本人です。どうぞ宜しく」と挨拶した。感じのよい40歳ぐらいの人だった。
中国人用の現地募集ツアーに参加したのだから当たり前だが、案内はすべて中国語。しかもものすごい速さでしゃべるので全然分からない。まあ何とかなるさと腹を据えて景色を見る。
成都郊外の高速道路入口のようなところでトイレ休憩。トイレから出て来たらバスがいない。どこかに移動したようだ。あわくって探していたら、赤いシャツを着た男の子が迎えに来てくれた。助かった。どうやら、日本人が参加しているといううわさは一瞬にして広まり、その子供のお母さんが私を見つけたので子供を迎えに寄越したらしい。そのお母さんから「自動車の番号を控えておいたら」と薦められた。バスはガソリンスタンドの手前からスタンドの先まで移動していた。
トイレの出入り口に積んであった四川省の観光地図を開いて今日のルートの確認をする。ガイドの説明によると、雅安というところまで150kmぐらい高速で行き、そこから二郎山を越え、濾定を見て、磨西で泊まるとのこと。何気なくその地図の端を見たら2.5元と値段が書いてあった。しまった無人で販売していたのか。タダだと思って金を払わず持ってきてしまった。後ろめたい気がする。
高速道路を降りてしばらく行くとかなり立派な岩壁で囲まれた峡谷を通過する。地図をよく見たら「碧峰峡」と小さな赤い文字があった。ここも名所のひとつなのだろう。
昼にはチト早いが最初の休み場所についた。天全という結構大きな町だった。そこのホテルの食堂で昼食。当然ながら食事は中華料理。10人ぐらいづつ丸テーブルに座った。もう日本人だというのが知れ渡っているので、周りの人があれこれ世話を焼いてくれる。お茶をつぎ、箸を取ってくれ、手拭の紙も廻してくれる。
成昆線の中ほどぶしつけな質問は飛びださないが、結構質問が飛んできた。日本ではどこに住んでいるか。何歳か。日本では何をしているか。今回の旅行は何日でどこを回ったか。どこが一番よかったか。中国の印象は。中国語はどこで習ったか。奥さんはどうして一緒に来ないのか、等々。
レストランの壁に「歓迎瀑電移民」と書いてあったので「あれはどういう意味か」と隣の人に聞いたら、天全ではダム建設などで労働力を集めている最中なので、ダム建設の出稼ぎ労働者歓迎という意味だとのこと。
料理がテーブルに並びはじめると、早速ものすごい速さで食事が始まった。手が料理の上を二重三重に交差する。料理も自分の箸で取る。要らなくなったお茶は床に捨てる。ご飯が残っている場合はテーブルクロスの上に捨てる。テーブルの上は汚れるのが当たり前という認識のようだ。そのためにビニールのテーブルクロスが敷いてあり、食事後はテーブルクロスごとゴミを回収する。これが中国流なのだろうと当方もそれに習った。
本場の中国料理は骨付きの肉が多いので食べるのに苦労した。できるだけ野菜料理を選んで食べた。これ以降の旅行でもすべてそうだったが、肉料理3~4品、魚料理1品、野菜料理3~4品、スープ2品というのが、このようなツアーの大方の相場らしい。スープは日本ほど塩味が効いておらず淡白だった。ご飯は洗面器のようなボールに盛られて出てくる。お代わり自由だが、大抵の場合一杯で十分だった。当方は、中国人の食べ方の速さに圧倒され、最後はスープをご飯にかけて流し込むことが多かった。
そこから二郎山に向けて九十九折の急な登りが続く。14:30ごろ二郎山のトンネル入口に着いた(写真02)。こぎれいな公園になっていてトイレ休憩をとった。露天商が並び何やら得体の知れないものを売っている。その一つに行って見たら、硬いピンクの石のようなものを鉈で割って量り売りしている。隣の人に聞いたら蜂蜜とのこと。蜂蜜は液体だとばかり思っていたのでびっくり仰天(写真04)。
写真02 二郎山トンネル入り口(排気ガスの色がすごい)
写真04 固形蜂蜜と鹿のペニスを売っている
本当かどうか確かめるため、「ほんのちょっとだけくれ」と言ったら、ひとかけらくれた。食べてみたら本当においしい。角砂糖のような単純な甘さではなく、蜂蜜の奥深い味がする。それで当方も一塊買うことにした。帰りのザックが重くなると飛行機が心配なので小さな塊を買った。12元だった。これを日本に帰ってからいろいろな人に見せたが「蜂蜜」と当てた人はいなかった。
しかし、会社にいる中国人の張さんに写真を見せたら「これは蜂蜜だ」と即座に当てた。さすが中国人だ。張さんの話によると、ミツバチが何らかの原因で巣を捨てて移動してしまうと、蜜の溜まった巣がだんだんと乾燥してこのような硬い塊になるらしい。それが動物に食べられる前にたまたま人に発見されると、このようにして売りに出されるとのこと。かなり貴重なものらしい。
張さんが、蜂蜜の横においてある薬草のようなものを指差して「これは何だか分かるか」と聞いてきた。当方は薬草の一種だろうと特に興味も払っていなかったが、「これは鹿のペニスを干したものだ。中国では強壮剤として珍重されている」とのこと。店によっては、牛や馬のペニスでごまかすやつがいるので注意が必要とのこと。そんなのが強壮剤になるのかと驚いた。熊の胆まで薬にする国だからいろいろなものがあるんだろう。そう言われて見ればその薬草の形はペニスに似ている。
長い二郎山トンネルを抜けると大渡河(揚子江の支流の上流)が深い谷間の底を流れていた。相当の高度差がある。川を右に見たり左に見たりしながら九十九折の道を川岸まで下った。川沿いをしばらく遡るといよいよ濾定橋に着いた、15:30。
川の左岸(写真では右側)には結構大きな町「濾定」があった(写真06)。多くは観光ホテルらしい。ここで1時間とるので、各自、自由に濾定橋を参観してくれとのこと。ここでみんなが散ったので、ガイドを捕まえて、「当方、あなたの中国語がほとんど聞き取れないので、自由参観やホテルに着いたときは、集合場所や時刻をメモに書いて渡して欲しい、手間をかけるのでチップだ」と言って100元渡した。遠慮していたが「まあまあ」といって無理やり渡した。
写真06 濾定橋と濾定の街並み(川は大渡河)
濾定橋を見に行った。橋の入口に門がある。ここでガイドからもらった入場券を示して吊橋の上に出る。対岸にも門があり、その後に屋根の反ったお寺があった(写真08)。一幅の絵になっている。濾定橋は、太い鎖が両側に4本、渡り板の下に5本ぐらいあるだろうか。頑丈な吊橋だ。渡り板は10cm間隔程度の隙間があり、下を流れる大渡河の茶色い急流が見える。
写真08 濾定橋(太い鎖6本で張った、吊り橋)
濾定橋とは、紅軍(中国共産党軍)長征のとき、国民党軍が渡り板をはずして対岸に機関銃を備えて待ち構えていたので、決死的な戦闘の末、やっとこの橋を奪取し、対岸に渡ることができたとのことで、中国の解放戦争の聖地となっている。今では観光名所で観光バスは必ず立ち寄るところらしい。
橋はしっかりしているので大して揺れず、楽に渡れた。対岸に渡ったところに「濾定橋」と縦書きの石碑が立っていた。これが康熙帝の字とのこと。後のお寺にも行こうと思ったが時間があまりないのでやめた。
橋の上では7~8名の団体が、紅軍の服を着て旗を立て武器を持ってカッコを取っている(写真12)。この解放軍の服装は有料で貸してくれる。当方もおばさんからさかんにこれを着て写真を撮れと薦められた。
写真12 濾定橋で紅軍の服を着て記念撮影
バスに戻って今日の泊まり場所磨西に向かう。悪路をぐいぐい登ってゆくと台地状の町に出た(写真14)。道の両側に家並みが続いていて、結構大きな町だった。道が鍵の手に曲がったところにある旅館の食堂で夕食。昼飯のときと同じような忙しい状態で食事を取った。隣の青年が酒を飲むかと薦めてくれた。香りをかいだら良いにおいがしたので頼むことにした。食事が終わって酒のお金を店員に払おうとしたら受け取らない。どうやら青年が払ってくれたようだ。いつ酒代を払ったのだろう。システムがよく分からない。
写真14 磨西は台地上の町
食事が終わったら、当方ともう一組のアベックを、バスで別のホテルに送ってくれた。3星クラスの個室で申し込んでいたので宿が違うらしい。そのホテルは海螺溝大酒店という広い前庭のついた豪華なホテルだった(写真16)。磨西一のホテルではないか。フロントでガイドが手続きを済ませ、「明日は起床○時、食事○時、迎え○時なので、それまでにフロントに来て欲しい」と紙に書き出してくれた。100元のチップをはずんだ甲斐があった。
写真16 本日の宿「海螺溝大酒店」
フロントから部屋まではすごい美人が案内してくれた。この女性は翌日も案内してくれたが、それ以外では会ったことがないので、ホテルの顔として案内だけを担当しているのではないか。フロントには江沢民の大きな絵が描いてあったので、江沢民の親類縁者が経営しているホテルなのかもしれない。
部屋に荷物を置いてからホテルの庭を散歩した。ホテルのオーナー一家か知らないが品のいい老人が犬を連れて散歩していた。犬が当方に吠えついたので飼い主が申し訳ないとしきりに謝っていた。ホテルの玄関口に回ったら、先ほどの美人が「何か用か」というような顔で出てきたので、「あなたはすごくきれいだ」と単刀直入の中国語で話したら、「謝謝」といっていた。「何国からきたのか」と聞くので「日本から」と答えた。高度計を出してみたら1900mだったので、「ここの海抜は1900mか」と聞いたら「2000mぐらいだ」とのこと。とすると濾定から700mも登ったことになる。どうりで険しい道だった。
第2日目(晴) 磨西→ゴンガ(貢嗄)山→ゴンガ温泉→磨西
7:00にホテルのレストランに行ったらひっそりしていた。服務員が料理をそろえてくれるのを待つような感じで食べた。アベック組は食堂では見かけなかった。朝食後フロントで待っていたら、7:50ごろ、オートバイでガイドが迎えに来た。もう一組のアベックは今日の氷河ツアーには参加しないらしい。ガイドの背中に必死につかまって、みんなが泊まっている旅館の前に着いた。マイクロバスにはもうみんな乗っていて、すぐ出発。
自動車道は急峻な山腹をうねうねと登ってゆく。しかも谷底までの深さもかなりある。道路沿いや対岸の山腹には、日本風の黒い瓦の乗った民家が点在している。この辺の少数民族の家らしい。1号営地でゴンガ温泉を見下ろし、2号営地では小さな谷に囲まれた一軒宿の温泉を見送った。温泉に入るなら2号営地がよさそうだ。
3号営地に近づくと谷の奥にゴンガ山らしき雪のついた山が見えてきた。ゴンガ山は海抜7556mなので中国国内にある山としては最高峰である。有名な金山飯店のある3号営地でエコバスに乗り換えて海螺溝ロープウエー乗り場まで行った。9:30着。ここでエコバス代とロープウエー代140元を払った。これは旅行費用に含まれていないとパンフにも明記されていた。
ゴンドラは6人乗りとのことで、当方が割り当てられたゴンドラはおばさん4人とその女の子1人の組だった(写真18)。早い話全部女性。女の子は活発でガンガン質問してくる。つられておばさん達からもいろいろ聞かれた。
写真18 ロープウエイのゴンドラの同乗者
ロープウエイはオーストリアのドッペルマイヤー製だった。建設も請け負ったらしい。ゴンドラが動き出すと直に海螺溝氷河の上に出た。しかし表面は岩屑や土埃だらけで、その気で見ないと氷河であることに気づかないだろう(写真20)。
更に登ると海螺溝氷河が大きなアイスフォールとなって流れ下り、足下ではズタズタに切れ目の入った氷河となって流れている(写真22)。
写真20 泥と砂だらけの氷河表面
写真22 氷河の上の方にはアイスフォールも見える
四合営地駅:山頂駅(3600m)まで20分ぐらいだった。その展望台から氷河を見下ろすと、豆粒程度の人影が大きなクレバスの周辺を散歩しているのが見えた(写真24)。あそこまで降りられるのか。
写真24 氷河の脇まで下りられる
そこから氷河まで10分ほど歩いて下った。女の子(小学6年生)が前を歩きながら、「おじさんここ滑るよ、注意して」などと声をかけてくれるのでなんとなく気恥ずかしい。「俺は登山もケイビングもやっているベテランだぞ。しかも登山靴をはいている。あんたはズックじゃないか。そっちこそ気をつけろよ」と言いたい所だったが、だまって「はいはい」とついていった。
クレバスの近くに降り、三々五々散歩したり写真を撮ったりした。残念ながらこの付近ではもう氷が真っ黒に汚れている。氷河沿いにアイスフォールまで登れば純白な氷の写真が撮れそうだ。しかしそれには装備と相当な時間が要る。観光ツアーではあきらめるしかない。
すぐ上の斜面にハイキング姿の中国青年3人組がいた。バックの鋭くとがったゴンガ山を背景に一幅の絵になる。写真を撮ろうとしたら退こうとするので「そのまま、そのまま」といって元に戻ってもらい、写真を撮った(写真26)。更に、自分では芸術作品と自負するゴンガ山(写真28)の写真も撮れた。
写真26 ハイキング姿の中国青年3人組
写真28 ゴンガ(貢嗄)山
おばさん達と遊んでいる間の会話で日本人だと知れているので、帰りは籠屋にずいぶんしつこく声をかけられた(写真30)。たった10分ほどの登りなのに40元とのこと。「高い、不要」を繰り返しつつロープウエー山上駅の展望台に戻った。このころには稜線に小さな雲がかかっていた。いいときに参観できた。
写真3 駕籠屋(歩いて10分の登りが40元だった)
山頂駅に戻ったら誰かが「ここで小食だ」という。小食とは昼食のことだろうと思って、店で腹にたまりそうなものを買って食べだしたら、ガイドが「ロープウエイに乗ってください」というので、両手に食べ物を抱えたまま乗ったら、そんなものを持っているのは当方だけ。恥ずかしかった。
下りのゴンドラでは氷河がかなり低いところまで流れているのが見えた(写真32)。案内書には海螺溝氷河は世界で一番低いところ(2900m)まで流れている氷河だと書いてあったのもうなづける。
写真32 海抜2900mまで流れ下る氷河
12:35麓駅に着き、駅前のレストランで昼食とのこと。「昼食はもう済ませたので当方は付近を散歩したい」とガイドに言ったら、日本人一人で散歩させるのは心配だったらしく、「食べなくてもいいから座っていてくれ」とのこと。もっぱらお茶と野菜の炒め物だけで過ごしていたら(写真36)、周りからどうしたと心配されて困った。ここでも小学6年の女の子が活発に話し、親に「何してくれ、かにしてくれ」と甘えていた。多分、一人っ子政策のため我侭放題に育ってきたのだろう。でも利口そうな子だった。
写真36 バスツアーの昼食
昼食後エコバスで金山飯店まで下った(14:20)。ここでマイクロバスに乗り換え2号営地の温泉に向かうのかと思っていたら1号営地の温泉プールまで下ってしまった。残念。ここで3時間もあるとのこと。それなら2号営地にも寄ってくれればいいのに。しかも温泉代は各自負担だった(60元)。
しかたなくそこで3時間つぶした。いろいろな湯船があり、それぞれもっともらしい名前が付いていた。50mの本格的な温泉プールは太いパイプでふんだんにお湯が注がれていた。太鼓橋がかかり赤い花が美しい湯船、鍾乳洞をあしらった温泉プールもあったが、どれも人工的過ぎて情緒がない(写真38)。温泉資料館の外壁には「孔明がここゴンガ温泉で大軍を養生させた」という説明文がはめ込まれていた(写真42)。
写真38 50mプール ○○花池 鍾乳洞プール
写真42 孔明が大軍を休ませた故事
いいかげん温泉も飽きたので上がって冷たいものでも飲もうと、戸外の茶館に行ってみたが冷たい飲み物はなかった。売店で冷たいコーラを探したがそれもなかった。このあと成都に戻ってからもとうとう冷たい飲み物にはありつけなかった。まだ冷蔵庫が普及していないからか、それとも冷やして飲む習慣がないのか。
バスで磨西に向け出発。17:20ごろ、磨西の旅館街の手前で金花寺という寺に寄った(写真46)。この時間になって、まだ見学かよという感じのほうが強かった。ここは紅軍長征の途上、濾定橋の戦闘を前にして、周辺のチベット族と紅軍との間で不戦協定を結んだところとのこと。寺の壁に毛沢東が紅軍兵士を前に演説している絵が描かれていた。
写真46 紅軍とチベット高僧が停戦協定を話し合った金花寺
金花寺をガイドつきで参観するとは思わなかった。赤いチーパオの若い女の子が案内してくれた。その中国語が早すぎて聞いていても分からないので写真を撮っていたら、「ここは撮影禁止です」と注意された。こんな何の変哲もない、名もない寺がなんで撮影禁止なんだという感じ。ひょっとしたら名もない寺ではなく、解放戦争の重要な遺跡なのかもしれない。
ある建物の前で長々と説明が続いた。同じツアーの男どもは誰もいなくなってしまった。説明が終わり建物に入ったらお坊さんの説教が10分ぐらいあり、50~60cmの長い太い線香を渡してくれた。寸志でいいのだろうと10元出したら仲間の女性から「30元ですよ」といわれた。そうかありがたいお説教を受けるためのお布施なのかとそのときになってやっと分かった。それで男どもは皆、逃げてしまったのだ。
長い線香をお坊さんが渡そうとするので「帰りの飛行機に積めないので、線香は要らない」といったら、お坊さんが一生懸命説明している。何度も聞き返し、「この線香は、本堂前の香炉に立てるものだ」ということがやっと分かった。それをもらってから、並んでいる仏典の本を見ていたら「それはあなたにあげる」というのでもらってきた。
外に出て香炉で火をつけて線香を上げようとしたら、そばにいた男の係員が仏典を持っていってしまった。なんだ折角もらった記念品なのにと思ったが線香を上げている間に係員が見えなくなってしまった。ガイドがもう時間なので急いでバスに乗ってくれと言いに来たのでバスに向かって歩き出したら、例の係員が追いかけてきて仏典を返してくれた。多分、お坊さんに、「それは日本人にあげたものだ」と言われたのだろう。
そこからチョット下ったところにある昨日と同じ旅館の食堂で夕食。また忙しい食事が始まった。今夜もいろいろな質問が飛び出した。でも成昆線のように金の話はでなかった。やはり生活水準の違いなのか。とにかく皆親切だ。食事の後、ガイドがバイクで当方のホテルまで送ってくれた。磨西の町の中を「じいさま」が後ろにしがみついてバイクに乗ってゆく姿が滑稽だったのか、沿道から笑い声が聞こえた。
ホテルのロビーでガイドから「明日の起床は6時、フロントで携帯食の朝食を受け取ってここで待機、6:30に迎えに来る」というメモをもらった。明日は成都に帰るだけなのになんでこんな早い時間に出かけるのだろう。
ガイドに中国の現地募集ツアーについて聞いたら、旅行社は名前を貸すだけで、それぞれのツアーには請負人(負責人:ガイドを兼ねることが多い)がいてそれが全部取り仕切っている。そのため、旅行社のパンフレットには、ツアーごとに負責人の名前と電話番号が書いてある。参加者はその負責人と連絡を取り参加の申し込みや、出迎え場所等を決めている。しかも全行程ではなく、一部参加なども可能で、かなり自由がきくらしい。要するに、負責人もガイドも旅行社の社員ではなく請負契約なので、同じ会社でも他のツアーの内容はほとんど知らない。おまけに、使用するバスも旅行社のバスではなく、別のバス会社の車両を使うこともままあるらしい。
夜は磨西の町へ繰り出してみた。電脳屋(パソコン屋)に行くためにホテルの前庭の長い道を歩いて門に着いたら、警備員がお前は何だと誰何(すいか)してきた。「宿泊客の日本人だ。電脳に行く。どこにあるか」と聞いたら、当方の発音ですぐ中国人ではないことが分かったのだろう、門のバーを揚げて、「道を下れ」と教えてくれた。
電脳屋は通りを300mほど下ったところにあるとのこと。広い道を下っていったら食堂やカラオケなどが転々と続いていた。途中で飲み屋らしき入口にたむろしている女性から声をかけられた。発音すると日本人であることがバレ、よけい誘われるだろうから、黙って「不要」と手を横に振った。
電脳屋は左側にあった。押金(前払いの保証金:帰りにこれから料金を引いて返してくれる)を払って指定されたパソコンを操作してみたが日本語表示できなかった。これでは使えない。早々にあきらめてホテルに引き上げた。帰りも例の女性に声をかけられたが今度は無視して通過した。それにしても中国の町は食べ物屋が多い。これで共倒れしないのか。ホテルの門では警備員が笑顔で通してくれた。
第3日目(晴) 磨西→二郎山→成都
6:30にガイドが迎えに来た。またバイクにしがみついてゆくのかと思っていたら、玄関前にマイクロバスが着いていたのでそれに乗った。他の人たちはすでにマイクロバスに乗っていた。少し下ったところの旅館で更に2人ほど乗せて出発。今まで見かけたことのない顔だった。
大渡河まで難路の山道を下った。大渡河沿いの道に入っても工事中の片側通行が続きノロノロ進んだ。片側通行の出口にダンプが止まっていて進めなくなった。我々のバスの運転手やガイドが手分けしてダンプの運転手を八方探していたら、地元の住民から知らせが入ったのか、ダンプの運転手が出てきてダンプをどけていた。この辺の交通ルールは無茶苦茶という感じだった。
二郎山への道が分かれる少し手前の街では交通渋滞でしばらく止まっていた。すると明らかにツアー客ではない農民と思われる若者が大きな荷物を持って乗り込んできた。となりの青年に「あの客は何だ」と聞いたら、「運転手の知り合いだろう」と意に介していない様子だった。中国ではこういうことは当たり前なのだろう。ツアーバスに何も関係ない者を乗せるなど、日本では考えられないことだ。
二郎山への登りにかかったら、次々と土産物屋に寄ってゆく。そのたびに40分ぐらいずつ取られる。そうか土産物屋に寄る時間を作るために朝まだ暗いうちにホテルを出たのか。旅行会社と土産物屋が手を組んでいるようだ。漢方薬屋、水晶細工屋、ヤク牛肉屋と立て続けに3軒も寄った。
当方はまったく興味がないので店の外で時間をつぶした。ヤク牛肉屋だけはガイドが入って見ろというので入ってみた。試食してみたら結構旨い味だったので土産に3袋ぐらい買った(写真52)。
写真52 ヤク肉の珍味を食べてみたら旨かった
二郎山トンネルを抜けて九十九折の下りにかかったら、道端にミツバチの箱を並べ、蜂蜜も売っているおじさんがいた。この程度の小規模な養蜂業でも暮らして行けるのか。さらに下ってゆくと後輪がパンクしたとのことで、近くの修理屋に車がついた。道具は旧式なものばかりだったが、修理屋のおじさんが実に慣れた手つきで、50分ぐらいでパンクを修理していた(写真56)。その時代物の工具に驚いた。その修理屋にはトイレも併設されていたが、豚小屋と並んでおり、トイレの臭さも天下一品だった。
写真56 パンクを修理してくれた路傍の自動車工場
天全まで下り、また第1日目と同じレストランで昼食。これでもう成都へ一直線と思っていたら、更に「成都農業大学のお茶園」なる土産物屋に寄った。ここは入口の正面の迎客壁にパンチェンラマが農業大学を視察に訪れたときの大きな絵が書いてあった。中国では、ダライラマは無視してパンチェンラマは持ち上げているようだ(写真62)。
写真62 パンチェンラマが見学に来たことを伝える看板
成都のホテルには17時ごろ着いた。フロントでキーをもらおうとしたら、「ダブルベッド1つの部屋に代わってくれないか」とたのまれた。当方の部屋はツインの部屋だったので、どうしても2人で泊まりたい人が現れたのだろう。「同じ値段ならいいよ」と答えた。すると中年の女性が出てきて、「この部屋は応接室つきで、値段もビジネスクラスのツインよりずっと高いが、ツインの値段で提供する」と説明してくれた。このおばさんの中国語は分かりやすいので助かる。いままでも、要所要所になるとこのおばさんが出てきた。ホテルのオーナー、それとも支配人なのか。
その部屋に荷物を置いてから、近くの武候詞を見に行った(写真64)。もう18:00で薄暗くなっていたがまだ入れた。入り口で切符を売っている女性が博物館の学芸員のような知的な人で、しかも、お釣りを新札でくれたのが印象的だった。中国ではどこでもヨレヨレの札だったからだ。
写真64 武候詞の正門
門を三つくぐってゆくとやっと孔明の廟に達した。孔明像は金ピカ(写真66)。主君の劉備の廟より奥の院にあたるところに祭られていた。日本語の説明文もあった。ここは日本人が多いのだろう。孔明廟の脇では中国の古代楽器の演奏もしていた。しかしこれは有料のショーらしく、10元払ったら一緒に写真を撮るサービスまでしてくれた(写真70)。左手の丸い門を入ったところには劉備の丸い墳墓があった。高さ10m直径50mぐらいか。
写真66 孔明の廟と孔明像
写真70 中国古代楽器の演奏 有料のサービス
駆け足で武候詞を見て、次に隣の錦里に行った。ここは昔の町並みを再現した横丁だ(写真72)。レンガ作りの門を入ると古いつくりの店に「STARBUCKS」の看板が出ている。いかにも不釣合いだがこれもまたユニーク(写真74)。約300mぐらいの横丁の両側が昔風の商店街になっている(写真76)。飲食店が一番多いが、書画骨董、民芸品、玩具などいろいろな店が並んでいる。影絵の露店もあった。隣に武候詞の庭も借景で見える。
写真72 錦里の入り口
写真74 STARBUCKSの店構え
写真76 錦里の街並み
ある古風な店が喫茶店になっていたので入ったら、でかいボリュームで現代風の音楽がかかっていたのであわてて退散したら、店員が出てきて「是非入れ」という。「音楽が大きすぎる」と言ったら、本当にボリュームを下げて「さあ入れ」と言う。しかたないので入ったが、昔風の店構えと現代っ子の店員がマッチしない感じで落ち着かず、コーヒー一杯ですぐ出た。
錦里を出てから有名な陳麻婆豆腐(写真80)にタクシーで行った。すぐ近くだと思ったのに結構乗った。15元。成都のタクシーは1.4元/kmなのだから、距離は10kmになる。土地不案内な日本人なのでわざと遠回りしたのではないか。帰りは人力車で戻ったが20分だった。人力車で20分なら距離はせいぜい5kmぐらいだろう。
写真80 陳マーボ豆腐の看板
写真82 世界的に有名な陳マーボ豆腐は辛すぎて食べられず
陳麻婆豆腐は大きな明るい店だった。一人で入っているの当方だけという感じ。お目当ての麻婆豆腐と青椒肉糸とビールを頼んだ(写真82)。チベットではついにお目にかかれなかった青島ビールがあった。麻婆豆腐は日本人には辛すぎて薬品を食べているようだった。ほとんど残してしまった。ビールも冷えていないので泡ばかり。ご飯はもっぱら青椒肉糸で食べた。一人だと時間をつぶすのが難しいが、旅行途中でもらったパンフレット類を見ながら1時間ぐらい粘った。最後に、持ち帰り用の「麻婆豆腐の素」を買って出た。
帰国当日、大きなザックを背負ってホテルのフロントに降り、ルームカードを返して玄関を出たら、丁度、客を乗せたタクシーが入ってきた。客が降りるのを待ってそのタクシーに乗り込んだら、ボーイが飛び出してきて「Call
Fee が必要なのを知っているか。飛行場に着いたら、タクシーの料金のほかに20元のCall Fee を運転手に払ってくれ」という。
高速を使ったので20分ぐらいで空港についた。成都の双流国際空港は国内線と国際線の共用空港だった。運転手には国際線につけてくれと言ったのだが、つけたところが国内線ロビーだったようだ。そうとは知らずに、そこのカウンターにしばらく並んでチェックインしたら、国際線は向こうだと言われてしまった。
国際線ロビーは閑散としていた(写真84)。13:30発なのでチェックインは12:30からとのこと。まだ2時間近くある。大きな荷物が邪魔なので一時預かりに預けた。自分でロッカーにしまう方式だった。ロッカーは警官と思しき職員が厳重に見張りしていた。
写真84 成都の双流国際空港の国際線ロビー
背中が軽くなったので、余った元を円に交換しようと窓口に行ったら、「日本円を人民元に交換したときの書類とパスポートを出せ」とのこと。えらく面倒くさいな。そもそも、成田で日本円を人民元に替えたときの書類なんかとってあるかどうかも不明。もしとってあるとしても書類はザックにしまってあるので出せない。「えらく面倒くさいな」と中国語で捨て台詞を残して窓口を離れた。後日日本で交換したときは、人民元の現金を渡すだけで、パスポートの提示も不要で日本円に交換できた。中国はなぜ手続きをこんなに面倒くさくしているのだろう。13:40、定刻に飛行機が離陸した。天気も良いので地上の景色が良く見える。離陸して57分で黄土高原の上を飛んでいるようだった(写真86)。黄土高原は上面は平らだが、毛細血管のように刻まれた谷の斜面は急斜面だった。68分で黄河の上を横切った(写真88)。離陸後107分で、農地の上を飛んでいった。耕地面積に比べて人家の数が多すぎる感じだ(写真90)。一農家あたりの耕地面積が狭いのであろう。
写真86 西安北部の黄土高原
写真88 黄河を飛び越える
写真90 耕地面積に比べて農家の数が多すぎるようだ
自動車の大きなテストコースを見下ろすと、離陸後119分で大都会の上空に達し、北京郊外の高層住宅群が現れた(写真92)。次いで都市内の高速道路と鉄道が見えてきた。飛行機が高度をぐんぐん下げてゆくので、車の一台一台が手にとるように見える。着陸寸前になって古い北京の町並みである四合院がビッシリ並んだ上を飛んだ。その屋根に当方の乗っている飛行機の影がくっきり映っていた(写真94)。北京にもまだこんなに四合院が残っているんだとうれしくなった。
写真92 北京郊外の高層住宅群
写真94 北京空港直ぐ近くの四合院
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