飯豊山(福島・山形・新潟)

 2017年8月下旬に大学同期のK君と2人で、飯豊山に登り・降りてきてから東北の湯をいくつか廻った。二人とも退職者なので計画だけ作って、晴天が3日続くのを待っていた。飯豊山に4日・温泉に2日を費やす計画だ。快晴とは言えないが、ようやく3日間雨マークがない天気予報になったので、急遽出かけることにして、飯豊山の民宿と山小屋を予約した。

第一日目(土)曇
 横浜市内で相棒の車に8:00にピックアップしてもらったが、カメラを忘れてきたのに気づき、我が家まで1往復してもらったので30分ほどロスタイムをさせてしまった。東京をトンネルで通りこし、川口で東北道に入った。幸い車は多くない。

 白河ICで降り、R289で甲子温泉の大黒屋に12:30着。ここで食事と大岩風呂に入り13:50出発。大岩風呂は昔と変わらず良かった。風呂で読書をしている人がいたのに驚いた(写真02)。ここは大昔、当方がまだ独身だったころ職場の仲間と登山(那須三斗小屋→甲子温泉)で来たことがあることを思い出した。

  写真02 甲子温泉:大岩の湯(読書している人もいる)

 長いトンネルを抜け、会津下郷を通り、湯野上温泉で川原まで降りる自動車道を探すのに苦労した。ようやく見つけて下ってみたら、昔からある石組みの河原の湯は砂がいっぱい詰まり、すでに打ち捨てられていた。その近くの岩盤から湯がチョロチョロ湧き出しているところもあったが、とても湯船になるほどの大きさではないので(写真03の黄丸印)、あきらめて大内宿に向かった。

写真03 湯野上温泉の「河原の湯」近くに湧く野湯

 14:45、大内宿についたら観光客が一杯。結構人気があるところなのだ。宿場を貫くメインの通りの両側に同じような形のかやぶき屋根の宿が並んでいる。いまはほとんどが食堂か土産物店になっているが、昔は旅籠だったのだろう。こんな山の中にこれほどの規模の宿場があるとは意外だ。会津若松への往還がいかに賑わっていたかが分かる。
 進行左側に一際大きな建物があり、本陣との説明書きがついていた。他の建物は長辺が街道に直角になるように建てられていたが、本陣は長辺が街道と平行になるように建っていた。本陣の説明書きには戊辰戦争で大半が焼失したと書いてあったので、現在の建物はその後復元したものらしい。周囲の山の緑と相まって桃源郷のような感じがする。
メインの通りをまっすぐ進み、山肌を少し登ったところから大内宿を見下ろす定番の写真を撮った(写真04)。

           写真04 大内宿

 駐車料400円を払って車を北に向けたら、係の人が「来た時の道を戻って、R118を進むように」という。ほとんどの人が会津若松に行くのでそのように案内しているのであろう。「我々は山都に抜けるので、大内ダムの方に行く」と言ったら、「珍しい人もいるものだ」というような顔をしていた。
 大内ダムは小さなロックフィルダムだった。短区間、羊腸の小径らしき下りがあったが、直に大きな会津盆地に出て田んぼの中を北に進む。右手前方に磐梯山も見えている。

 会津盆地をかなり走って、やっと山都駅前についた。すぐに川入への道に入り、民宿「高見台」についたのは18:30。川入には高見台のほかに2軒ほど民宿の看板が出ていた。
宿には我々も含めて9人の客がいた。札幌・徳島・茨木から来た3組のご夫妻と、それと埼玉からきた単独行の人と我々2名。みな熟年ばかりだ。宿のおじさんに「宿が込み合うのは週末か?」と聞いたら、「今の登山者は退職者が多いのでそんなことはない」とのこと。
夕食中も、食べ終わった後も、宿泊者同士で話に花が咲く(写真05)。札幌から来たご夫妻は、このところ天気が悪いので山に登れず、もう3泊もして天気待ちしているとのこと。徳島からきた人は100名山を二周半しているとのこと。体力が有り余っているようだ。埼玉から来た人は、明日本山小屋まで登って、一泊で飯豊山を終わらせるとのこと。皆、もう熟年なのに、よくそれだけの体力があるなと驚かされる。やはり飯豊山に来るような人は、絶大な体力を持っているようだ。

 写真05 民宿に泊まり合わせた熟年者仲間で話に花が咲く

 

第二日目(日)晴れ
 青空・晴天。そういう日を選んで飛び出してきたのだから晴れて当然なのだが、やはりうれしい。大多数の客は、小白布沢登山口へ送ってくれる民宿のワンボックスカーに乗り込んだが、我々2人は御沢キャンプ場まで車で行き、そこに車をデポして、6:00御沢登山口(写真06)から登り始めた。

        写真06 御沢登山口

 実は、この飯豊登山の当初計画は、山都→(川入泊)→三国岳→(切合小屋泊)→飯豊本山→御西小屋→大日岳→(御西小屋泊)→梅花皮山→北股岳→(北股小屋泊)→門内岳→梶川尾根→飯豊山荘→小国、という3泊4日の行程だった。飯豊の山小屋はほとんどが素泊まりなので、食料・寝具は全部背負っていかなければならない。とすると20kgぐらいになるだろう。その重さを背負って歩けるか確かめてみようと、7月に標高差700m程度の倉岳山に登ってみたが、300mしか登れなかった。

 自分の体力がガタ落ちしていることが分かったので、荷を軽くするため、飯を作ってくれ・寝具も借りられる山小屋を選んで、山都→(川入泊)→三国岳→(切合小屋泊)→飯豊本山→御西小屋→大日岳→(御西小屋泊)→飯豊本山→三国岳→(川入泊)というコースに変更した。これなら同じ場所に戻ってくるので、相棒の車で出かけることにした。

 急な階段状の登りが続く。荷物は13kgなので足が上がらないということはないが、やはり重い。信仰登山で何百年も歩き継がれた道なので、溝のように掘り込まれている(写真07)。下十五里、中十五里、上十五里と徐々に高度を上げてゆく。泥の道だが、木の根が張っていて階段状になっているところが多い。場所によっては一段の高さが自分の腰位の高さもある。

  写真07 何百年も歩き続けられた道(溝になっている)

 横峰で小白布沢からの登山道と合流し、地蔵山を巻いてゆく。待ちに待った「峰秀水(写真08)」という冷たい水が豊富に湧き出している水場に着いた、9:35。ここから地蔵山の頂上までは標高差100mぐらいしかないのだが、よくぞこんなにザーザーと水が湧き出すものだ。飯豊は雪が沢山積もるので地下水が豊富なのだろう。

写真08 最高の水場:峰秀水(冷たい水が豊富に湧き出している)

 そこから水平な山道を進むと、三国岳に続く通称剣ヶ峰と呼ばれる岩稜に出る。今まで見えなかった種蒔山東面の岩だらけの山肌が見えてきた。岩壁に深く谷が刻まれ、8月末だというのに雪渓もところどころ残っている(写真09)。男性的な山容におどろいた。

       写真09 種蒔山東面の岩壁と雪渓

 本格的に剣ヶ峰の岩場にかかる手前で昼食(10:25~11:01)。昨日コンビニで買ったおむすび2つとパン。相棒がみそ汁を作ってくれた。新潟から来た8人ほどの若者グループも同じ場所で休んで行った。今日は三国岳を日帰り登山とのこと。新潟からだと近いのでそういう気になるのだろう。
 若者たちの話し言葉は東京と同じで、新潟独特のイントネーションや方言が出てこない。当方は若かりし頃新潟で勤務したことがあるので、その違いが分かった。「もしかあんにゃ」という言葉を知っているかと聞いたら、知っていたのは一人だけだった。「民謡流しに参加したか」と聞いたら、誰も参加したことはないとのこと。やはり40年近くの時が流れているので、新潟も変わっているようだ。

 剣ヶ峰は所々に鎖場もあり痩せた岩稜だが(写真10)、とくにビビルような所はなかった。三国岳直下で三国小屋の水場に下るルートが分かれていたが、かなり悪そうだった。

        写真10 剣ヶ峰の岩場

 当方としてはもうバテバテの状態で、ようやく三国小屋に12:01に着いた。すでに大日岳は雲に隠れ、時折姿を見せる程度。三国小屋は三国岳1644mの頂上に立っている。多くの登山者が三国小屋の広場で休んでいた。もう昼飯は食べたので一休みのつもりが、横になったら寝込んでしまい、出発したのは13:00になってしまった。
 相棒が「君のザックが右に寄っている」というので、ザックの肩ベルトの張りを何回か直したが、一向に改善しないらしい。背負っている分には特に片荷という感じもしないので、そのまま進む。山から帰って来て、彼から歩いている最中の動画を送ってきたが、顕著にザック全体が右側に寄っていた。

    写真12 三国から種蒔山に向かう縦走路

 北西に伸びる種蒔山への稜線が見渡せる(写真12)。ところどころに登山者の姿が見える。小さなアップダウンの中に鎖場が一か所あった。種蒔山の頂上近くを右に巻いて、切合小屋への斜面を下ってゆく。途中から切合小屋の水道ホースと一緒になり、大日杉からの登山道が合流する。切合小屋(写真14)15:56着。まだ登山客の到着は少なく、2Fはガランとしていた。夕食時になっても25人程度の入りだった。

   写真14 切合小屋(腰掛はこの薮の中にある)

 夕食は17時からで、本当にカレー一杯のみ。相棒と外の腰掛で食べた。たまたま同じ場所にいた単独行の中年登山者と一緒になり話に花が咲いた。聞くと、米坂線下関から入り、杁差(えぶりさし)岳を通って全山縦走して来たという。テントと自炊道具と食料を含めると、ザックの重さは24kg、初日は豪雨の中でテントを張って過ごしたとのこと。上には上がいるものだ。当方にとっては夢物語だ。

第3日目(月)曇
 朝食は5時から。朝食のメニューは写真15の通り。何か副食を持参しないととても食べられない。飯のお代りは自由。日の出だという声を聞いたので、外に出て日の出を見る(写真16)。あいにく雲が多いが、何とか雲の切れ間から日の出が見られた。

写真15 切合小屋の朝食(ごはん、みそ汁、生卵、漬物だけ)

        写真16 飯豊山の日の出

 小屋で聞いた明日の天気予報は「曇りのち雨」とのことなので、大日岳はアキラメ、今日中に飯豊本山に登って、三国小屋まで下ることにした。できれば川入まで下りたい。となると本山から先のお花畑は見られないので、路傍の高山植物を片っ端から写真に収めながら登る。

    写真17 エーデルワイスに似たイイデ○○○

 ようやく草履塚に登ったと思ったら姥権現まで100mぐらい下りになる(写真18)。荷が重いので登りはできるだけ避けたいのだが、こればかりは避けようがない。今日中に三国小屋まで下るのなら、切合小屋にデポして来ればよかった、判断の悪さに気が滅入る。姥権現の先には御秘所と呼ばれる岩稜があるが(写真20)、とくに難しいというほどでもない。6:50御秘所を通過。

      写真18 草履塚から姥権現への下り

        写真20 御秘所の岩稜

 御秘所を抜けると本山への本格的な登りとなる。最初は岩溝を流れる小川を登ってゆく。登山道だったところに水が流れ込んできたのか、水の流れ道を登山道にしたのか定かでない。このころには稜線には雲がかかり何も見えなかったが、一瞬、飯豊本山~飯豊本宮の稜線が見えた。8月下旬でも雪渓が豊富なのに驚いた(写真22)。

写真22 本山(左)~本宮(右)の稜線が一瞬見えた:雪渓が豊富

 長かった登りも終わりようやく本宮小屋に着いた8:00。本山小屋と本宮(写真24)はすぐ目と鼻の先だ。早速、飯豊神社にお参りする。

     本宮の鳥居             本宮拝殿             拝殿内部
  ――――――――――――――――――――(写真24)―――――――――――――――――――

 なんとも見栄えのしない拝殿だが、風雪が厳しいので、こういう建物にせざるを得ないのだろう。
小屋番の話によると、飯豊の山小屋は、頼めばほとんどの小屋で飯を作ってくれ、寝具も貸してくれるそうなので、空身登山も可能だそうだ。それが分かっていれば、こんな重い荷物を背負ってこなくてもよかった。

 小屋にザックをデポして、サブザックだけで本山に向かった。霧に包まれた軽い上下の稜線(というより平地)を本山に向かう。8:30飯豊本山に到着。残念ながら、その先に続く稜線は霧で何も見えなかった。頂上の標識の写真だけ撮って(写真26)、すぐ下山にかかる。

         写真26 飯豊本山頂上

 本山小屋9:00→御秘所9:40→切合小屋11:00→種蒔山11:30に通過し、12:05三国岳到着。途中で出会った登山者に聞くと、ほとんどの人が天気の悪化を心配して、早めに下ることにしたとのこと。そんななか登ってくる人もいる。雨で小屋に缶詰めにならなければよいが。

         写真27 御秘所の下り

写真28 種蒔山付近から見えた大日岳(飯豊山群の最高峰2128m)

 三国岳頂上の小屋で昼食のため1時間とった。小屋の前の広場から剣ヶ峰を下っている人が見える。ここから見るとなかなか険しい稜線だ。「水を汲みたいので水場を教えてくれ」という登山者もきたが、「ここの水場は危険なのであまりお勧めしない。どうしても行くなら、剣ヶ峰に降りてゆく途中で、左に入る道がある」と小屋番が答えていた。
 いよいよ我々も出発。当方がザックを背負ったら、ザックの背負いベルトがおかしいと、小屋番が調整してくれた。そうしたらザックが右に寄る現象はなくなった。どこが悪かったのだろう。

 剣ヶ峰を用心しながら下る。下りきって地蔵山の脇を巻いてゆくと、待ちに待った峰秀水だ。水をたらふく飲んで、タバコでも吸おうと、登山道脇の石に腰かけたら、その石が揺らいで3mほど下の沢に、藪の中を転がり落ちてしまった。このときは動転した。幸い、かすり傷程度で何事もなかったが、右肩をひどく打ったようで痛い。相棒が傷の手当てをしてくれた。

 これから先は、長坂と呼ばれる急な下りで、標高差800mを嫌になるほど下る。もう岩場はないが木の根が張った階段状の道が続く。中十五里のあたりから左足に力が入らなくなり、よく転ぶ。幸い下は土なので怪我もしない。標準タイムよりかなり遅いペースになった。途中で熟年夫妻が我々を追い抜いて行った。下十五里は標準20分のところ60分もかかってしまった。

 17:40、もう薄暗くなった登山口に、ようやく着いた。正直言ってホッとした。登山口の脇に小さな祠と樹齢500年以上と思われる巨大な杉があった(写真29)。

        写真29 御沢登山口にある大杉

 そこで一服していたら小型トラックが近づいてきた。ドアを開けて出てきたのは民宿のおじさんだった。先に降りた熟年登山者から、「かくかくしかじか」との報告を受けたので、迎えに来たとのこと。ありがたい。これで歩かなくても済む。今回の登山は、どうも体力が付いて回らなかった。
 この後、東北地方の湯をいくつか回ったが、それは別途、温泉の中で稿を起こすことにする。

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